第2話

 悠雅が治療を受けていた頃、隠州口いんしゅうぐち南東部。ギルマンホテルの中庭に、不気味な岩礁を臨む、異様な集団の姿があった。


「時は来たれり」


 泡立つような、くぐもった低い声が響く。


「長い道のりだった。ハイドラを喪い、多くの同胞を失った。しかし、今宵我らの悲願は果たされる。神の到来を祝おうぞ」


 豪奢な法衣の裾を翻す、ウィリアム・マーシュが戦棍メイスを天に掲げる。彼の前で跪く武装した男たちも太い腕を掲げ、大きな目玉から大粒の涙を零しながら祈りの言葉を口にする。


威安いあ威安いあ九頭流宇くとぅるう

威安いあ威安いあ九頭流宇くとぅるう


 歓喜に湧く彼らの声はどこまでも鳴り響く。百万年単位の悲願。人の尺度では永遠と相違ない時間、祈り続けてきた願いが実を結ぼうとしているのだ。無理もないことだろう。


「さあ、東條。早く儀式を」

「そう急くな、司祭。彼女にも心の準備というものがある」


 東條とマーシュが薄ら笑いを浮かべる横で、アナスタシアは凍りついていた。


「どうしてこれをアンタたちが持っているのよ……!?」


 東條から手渡されたその匣は、彼女のよく知るものだった。幼い頃、宮殿の露台バルコニーで何度も使った魔法の匣。星屑を握る手コースマス・ラドーニ。ロマノフ皇家に伝わる星空を作り替える霊装だ。


「かの国が革命でごたついている間に、くすねさせていただいたのですよ。まあ、これが皇家の人間にしか扱えぬものと聞いた時には落胆したものですがね。金に変えようかと思ったものですが、いやあ、物持ちが良くてよかった。御身が来日したのは本当に僥倖でしたよ」

「こんなものを使わなくても、妙法蟲聲経ネクロノミコンを使えば良かったんじゃないの?」

「この万能の魔導書、妙法蟲聲経ネクロノミコンを以てしても、星を操るのは骨でございまして。それなら星屑を握る手コースマス・ラドーニを御身に使っていただいた方が、より期待できるというもの」


 東條は一際深く、邪悪に笑む。アナスタシアは、鼻を鳴らして星屑を握る手コースマス・ラドーニを握りしめた。


「これを起動して、星を十字に並べれば良いのね?」

「その通りでございます、殿下」


 凶相大十字グランドクロス。西洋占星術に存在する凶座相。西洋占星術内で語られるそれは黄道十二宮星座――いわゆる十二星座の中にある“おうし座”、“しし座”、“さそり座”、“みずがめ座”。それぞれの星座を構成する星の一部が十字に並ぶことを意味するのだが、東條がアナスタシアに命じたのは通常、まず生まれないはずの規格外のもの。


 この宇宙全体に点々と瞬く天体全てを巻き込んだ凶相大十字。言の葉にするだけでも荒唐無稽に過ぎるその超常現象の再現。


 その凶相大十字によって何が起きるのか、アナスタシアはわからない。理解する必要もない。


「もう少しで、みんなに会える」


 口の中で呟いて、アナスタシアはそこから先を言葉に出来なかった。胸が痛い。痛くて痛くて、彼女は今にも泣きだしそうだった。

 悲願の達成を前に、感極まっている訳では無い。この痛みは罪悪感なのだろう、という確信が彼女の中にはあった。


 死んでいった誰かを、個人の都合で呼び戻すという行為。命を冒涜する行為。


(今さらよ……)


 最初からわかっていた。道の外れた行為だと。自分が狂っていることくらい自覚している。それでも家族と会いたかった。最後まで引き留めようとしてくれた悠雅の手を振り払って。


「契約は履行致しますよ」


 喜色に富んだ東條の声がぬるりと入り込んで、毒のように内側から蝕んでいく感覚を覚えた少女はひっそりと唇を噛んだ。悠雅に取ってもらった犬のぬいぐるみを強く抱きしめて。


「では、よろしくお願いします。私はお客様のおもてなしをして参りますので」

「おもてなし?」

「ええ、もてなすのです。彼らは来るでしょうから」


 東條の言葉を聞いて連想するのは、悠雅と瑞乃の二人。


(私が彼に殺されるのは良い。でも、彼が殺されるのは)


 彼女はそこで思考を止める。急に胸の内が冷え切ったのだ。彼のことを心配する資格すら失ったくせに未練がましくて、みっともなく思えたのだ。一度ひとたびと決めたのだから、皇族らしく貫くべき。

 ここまで来た以上、己の役割を全うしなければならない。後戻りは出来ない。アナスタシアは匣に霊力を込める。


 かつての極北の覇者の血に反応し、匣の中より光条が夜空へと伸びる。光はやがて天を貫き、夜空が波打った。


 無数の星々が震え、動き出す。星天に描かれた神話が書き換えられていく。終末の神話へと。



 ◇◇◇



 真琴が運転する車の中で、彼から東條についての話を聞かされた。


 深きものどもディープワンズ。九頭龍。星屑を握る手コースマス・ラドーニ。そして、ロマノフ皇家。東條英機の目的を図りかねていた悠雅だったが、真琴の話でその目的は明瞭となった。


 九頭龍の復活。そして、帝都の破壊。到底許されることではない。


 それに、やはり悠雅のやるべきことは変わらなかった。アナスタシアを連れ戻す。彼女を連れ戻して、九頭龍の復活を阻止する。


「結局、あの女の弱さがこんな事態を産んだんですね」

「弱みなんて誰もが持ってるもんです。その傷を埋めてやれなかった俺にも落ち度があります」


 アナスタシアを庇う発言をする悠雅に、瑞乃の心中は更にささくれ立つ。

 悠雅と新八がアナスタシアを社員として受け入れた時以上に、彼女は困惑していた。怒ってもいた。


 悠雅の歪んだ生き方を、理解しているはずのアナスタシアのことが許し難くてしょうがなかった。

 自分が東條に降れば、何が何でも悠雅は追ってくるとわかり切っている筈なのに。


(度し難い、許し難い……)


 瑞乃は改めて腹に決める。悠雅が彼女を連れ戻すのに注力するなら、彼女の白い頬を引っ叩くことだけを考えよう、と。


「覚悟しておいてくださいよ」

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