第五幕『戦塵の砌《せんじんのみぎり》』

第1話

 深凪悠雅の私室は物が少ない。備え付けの小机と桐箪笥きりたんす、部屋の主人の性格に見合わぬほど神経質に畳まれた布団。私物らしい私物は部屋の隅にある小さな仏壇といくつかの位牌くらいのもの。

 この部屋を一目見れば、大半の人間は“殺風景な部屋”という感想を覚えるだろう。しかし、見る人が見ればこの部屋は‟病的な程にというものが欠如した部屋”に見えてくる。


 西村真琴。彼もまた、この部屋を見た時、そう思った人間の一人だった。荒々しい風貌に粗暴な物言いをする人間の部屋に見えなかったのだ。

 違和感を覚えたもんだ、と真琴は当時のことを振り返りながら薄く笑った。


「軽いな」


 ボロ布を縫い合わせるように、ちくちくと悠雅の傷を縫い続けながら、真琴は零した。


「お前はどこまでも自分を軽く見てやがる」

「俺のことなんかどうだっていいんですよ」

「周りを不幸にする考え方だ」

「それアンナ――アナスタシアにも言われましたよ。でも、もう遅い。俺は既に不幸にしてる。誰も、彼も……アナスタシアのことも。だから、これ以上不幸にはさせられない」


 この国でロマノフの名を伝えた覚悟。自らを敵だと宣言する覚悟。覚悟を決めた彼女の顔を悠雅は思い出す。思い出すだけで、胸が詰まる思いがした。それは、身に受けた一太刀よりも遥かに深い痛みを放つ。


「歪つだねえ。ほれ、終わったぞ」


 包帯を手早く巻きつけ、木乃伊ミイラ男を一つ作り上げた真琴は気付けにと彼の背中を力強く引っ叩く。


「お前の体いったいどうなってんだ? 昨日今日と大怪我してよく体力落ちないな? 一回バラされてみない?」

「とどめ刺す気ですか」

「冗談だよ」


 からかう真琴は直ぐにその表情を固くさせた。見慣れぬ彼の真剣な表情に、悠雅は思わず強張る。


「とりあえず一回打っとくか」


 注射器を取り出して、手早く悠雅の腕に打ち込む。吗啡モルヒネと呼ばれる鎮痛剤だ。


「そういえば教授って、医師免許持ってましたっけ?」

「俺を誰だと思っている。天才西村だぞ? ……持ってないけど」

「それ、いいんですか?」

「人体については知り尽くしてる。そのへんの医者もどきよりかは腕が立つぜ? 免許持ってないがな!!」

「そこが問題なんですが」


 悠雅は若干呆れた顔を見せつつも、命の恩人たる男にこれ以上文句を言うわけにはいかないと、改めて頭を垂れ、一言「助けていただき、ありがとうございます。この礼は必ず」そう述べると颯爽と立ち上がる。壁に立てかけられた天之尾羽張を引っ掴んで。


「どこに行くつもりだ?」

「もちろん、あいつの元へと」

「その怪我でまた連中と相対するって?」

「連中を斬らなければ、あいつは不幸になる。俺は、あいつに笑っていて欲しいんです」

「死ぬかもしれねえぞ? 新八ぱっつぁんの跡を継ぐっていうお前の誓いはどうなる?」

「ここであいつを見捨てるような人間に、英雄など務まりませんよ」


 無謀なことなどわかっている。次、甘粕と立ち会えば、今度こそ悠雅は命を落とすだろう。だが、彼には死よりも怖いものがある。


「俺は行きます。ここで挑まねば俺は深凪悠雅ではいられなくなる。それに――」


 悠雅は一度言葉を切って、逆巻く炎と黄金瞳を思い出す。


「――甘粕には借りが出来た」


 甘粕はあの場で悠雅の息の根を止めることが出来たはずだった。倒れ伏せる悠雅を見下して、どういうわけか彼は何故か退いていった。その理由を問うた上で、甘粕を斬らねばならぬ。


 悠雅の決意は固い。真琴は最早、己にこの男を止める術はないと理解した。その上で、彼は呆れ顔を見せる。


「何の因果なのかねえ? 偶然出会った異国の女が、今年の夏に処刑された最後のロシア皇帝の娘。更には八咫烏に甘粕正彦。気味が悪い。全部誰かの手の平の上で転がされてるみたいだ」

「……そいつはどういう意味で?」

「あー、気にすんな。それよりも行くんだろ? いいぜ、行けよ。ただし、行けたらの話だがな」


 真琴が顎をしゃくったその先には、翠緑の大きな瞳が待ち構えていた。


「貴方は馬鹿ですか?」


 瑞乃の口から一番に飛び出したのは、悠雅を罵倒する言葉だった。


「西村教授が良いと言っても私が許しません」

「お嬢……」

「天之尾羽張様から全部聞かせていただきました。これ以上、貴方を彼女と一緒にさせるわけにはいきません。アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ? 露西亜ロシア帝国最後の皇帝の娘じゃありませんか。その上、家族を蘇らせる? ふざけないでください。命という物への敬意を欠片も感じられません。彼女は最早敵です」


 瑞乃は忌々しげにあの蜂蜜色の少女を想起しながら、今にも呪殺しかねない程の憎悪を隠すことなく吐き捨てる。つい先日まで仲良さげに笑いあっていた筈なのに。


 露西亜皇帝ツァーリの娘であったという真実はそれまで築いた信頼が瓦解するほどの破壊力があった。そして、それ以上に、悠雅を見捨てて去って行った彼女を、瑞乃は決して許せなかった。


「彼女は八咫烏のことを知りながら、それでも尚、東條の元に降った。ならば放っておけばいい。身を亡ぼすのは彼女自身です。悠雅さんが必要以上に傷つく必要はありません」

「俺のことはどうだっていいんですよ、お嬢。だけど、あいつは俺の命を助けてくれた。ならば、それに見合うものを返さなければならない」

「彼女は助けようとする悠雅さんの手を振り切ったんですよ? そのうえ、傷だらけの貴方を置き去りにもした。彼女自身が救われたがっていないとしか思えません」

「でしょうね。あいつも、自分が敵だと言ってきました。だから、これは俺の我儘みたいなもの。俺は、あいつが取り返しのつかない所まで行かない限り、あいつを敵だと認めません」


 彼は痛そうに笑って。


「あいつ、最後に自分が敵だと言った時、泣いてたんです。あいつはもう、自分じゃ止まれない。だったら、誰かが止めてやらねばならないのです。だから、すみません」


 彼は瑞乃を振り切るように走り出す。深凪悠雅という男はどうしようもなく愚かだ。涙が出るほどに、馬鹿で、それでいて甘い。

 瑞乃は悔しそうに奥歯を噛みしめて。彼への想いを断ち切れない、己の愚かさを噛みしめる。


「――私も行ってあげます。貴方一人を行かせる訳にはいきませんから」


 瑞乃はそっぽを向いて、悠雅の袂を掴む。


「来てくれるんですか?」

「当たり前でしょう。これ以上、貴方を突っ走らせると本当に死んでしまいそうですからね。それに、あの裏切り者には言いたいことが山ほどありますから」


 瑞乃は翠緑の瞳を細め、花のかんばせを綻ばせて毒づく。と、そこにへらへら笑う声。振り返ると真琴がくたびれた白衣をを翻し、白い歯を見せていた。


「お嬢が止められねえんじゃあ、俺に止められるわけないよなあ。あのお嬢ちゃんのとこに連れて行ってやる。特急でな」


 車の鍵を見せ付けるように揺らして。

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