第二幕『再会』

第1話

 悠雅の私室にある小さな仏壇には、いくつもの位牌が飾られている。悠雅にとってその位牌たちは死んでいった者達を慰めるものであると同時に、彼らを忘れてはならない、という己への戒めのためにあった。


 火の灯った線香から燻る匂いに顔をしかめながら彼は一心不乱に祈る。その心は無。さりとて、激情。波涛舞う。


 線香の匂いはどうしようもなく死を想起させる。


 父。

 母。

 姉。


 そして――朋友。


 大切で、しかし、取りこぼしてきた昔日の幸福。されど、くつくつと沸き立つは仄暗い感情。同時に抱くのはきちんと家族と朋友達を想えぬ罪悪感と己への憤激。

 そうした己に彼らが言ってきている気がした。



 ――“助けて”、“どうしてお前だけが”、“手を伸ばしたのに”――



(ああ、忘れてなどいないさ)


 その怒りを、その悲しみを。悠雅は忘れない。訪れる凪の時。そこに、怒鳴り声が二つ。


「こんのげっそり“こけし”が!!」

「言いましたね、このふっくら“マトリョーシカ”!!」


 悠雅はハッとして手を合わせるのをやめると、それと同時に豊かな蜂蜜色の髪が彼の部屋に転がり込んできた。


「もうすぐ仕事の時間だっていうのに、なぜ喧嘩しているんだ?」

「あの女一体何なの!?」

「聞いちゃいねえ……」


 アンナは悠雅の問いに答えることなく酷く苛立ったように親指の爪を噛んで、悪態を吐いていると青年の方へと視線を下ろす。

 彼女は一言不機嫌そうに「お邪魔するわ」とだけ言って、次いで彼が拝む仏壇へと視線を向けた。


「それ、仏教の祭壇よね? 悠雅って仏教徒ブッティストなの?」

「ぶ、ぶって? 仏教徒と言いたいならばそれは違うぞ。俺は仏教徒と呼べるほど熱心じゃない。ただ、ここには父と母と姉と――友がいる」


 アンナは一瞬、理解が追いつかなかった。しかし、仏壇の一角に飾られた一枚の家族写真を目にして、息を呑んだ。


「ここは、お墓なの?」

「厳密に言えばそうじゃないが、それに近いな」

「……悠雅も家族を?」


 そこで止めたのは同じ痛みを知る故か。彼女の問いに悠雅は首肯して、


「親父は旅順要塞攻囲戦で。お袋は元々体が弱くて、親父の訃報聞いてぶっ倒れて、そのまま死んだ。姉ちゃんは……俺を守って死んだ」


 なんでこんなことをあって間もない人間に喋っているのだろう? 悠雅は内心そう疑問していたが、一度滑り出した雪崩のように言の葉はその口から零れ落ちる。


「終戦直後、この国は少しばかり荒れてな。暴徒に襲われそうになった俺を庇ったんだ。情けないことこの上ない。本当は、男の俺が守らなければならないのに」

「……貴方、今何歳?」

「十八だ」

「それなら当時五歳くらいでしょう? お姉さんだって――」


 そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせる。後悔したのだ。自分は今、何を口走ろうとしていたのか? そもそも、自分がどこの国の人間かを考えて。

 しかし、彼は気に止めることなく、こう切り返した。


「それでもダメなんだ。俺は、失いたくなかった」

「なら、さ」


 アンナは仏壇の前で項垂れる彼に寄り添うように座り込んで、彼の手を取る。


「私と一緒に、もう一回家族と友達と会おうよ」


 それは甘い甘い、甘美なる囁き。飲み干した毒のさかずきのようにゆるりと染み渡る。

 だが、彼はその手を払う。


「それはダメだ」


 その禁断の感情は、その秘匿すべき思いは、決して外に漏らしてはならない類のもの。英雄を志すなら、そのことわりにだけは抗ってはならぬから。


 しかし、そうすることでひび割れるものは確かにあって。彼は彼女の、酷く傷ついた目を見ることになる。


「……私、やっぱりおかしいよね? 本当は、そんなこと考えることすら許されないのに」


 悠雅は答えられなかった。彼にはその問いに対して正しく解答できる自信が無かったのだ。一般的に考えても、確実にそれは考えてはならないことだ。

 死んだら一方通行。戻って来てはいけない。それがこの世の理だし、人としてその倫理を遵守し、呑まねばならない。仮にその理を破る方法があったとしても。


 だが、人にそれぞれ個性があるように呑める悲劇にも許容量がある。それを超えてしまった人間がその方法に縋り付く事は悪なのか? 唾棄すべき邪悪なのか? 悠雅はわからない。


「――上手く、言えないんだけどな。俺はお前のその、家族にもう一度会いたいっていう気持ちを、悪だと断じてたくない」


 それは羨望の言葉でもあった。アンナの、余りにも純粋に真っ直ぐ家族を想う気持ちが彼はどうしようもなく羨ましかった。


「なら、どうして?」

「俺とお前の考え方は違う。だから、お前がおかしい、なんて事は無い……と、思う」


 締りのない悠雅の言葉にアンナは思わず吹き出した。


「何よそれ、慰めてるつもり?」

「笑わなくてもいいだろう」


 途端笑い出したアンナに少しばかり気分を害した悠雅は、そっぽ向いて唇の先を尖らせる。だが彼自身、自分の意見が矛盾に満ちていることは理解している。

 呼び戻してはならない。しかし、呼び戻したいと思ってしまうほど深く家族を愛することを彼は否定したくないのだ。


「ねえ、その板、何が書いてあるの?」


 ついで細い指が指すは無数の位牌。


「戒名だ」

「かい、みょー……?」

「死後つけられる名前、みたいなものだ。この国には複数の名前を使い分ける文化がある。幼い時分でしか使わない幼名ようみょうとか、真名たる“いみな”とかな」

「ふぅん……じゃあ、悠雅もその“いみな”っていうのを持ってるの?」


 アンナのその当然の疑問に悠雅は難しい顔を作る。


「諱ってのは家族とそれに準ずる人間。それと仕える主君にしか教えないもんなんだよ。危険だからな。とりわけ禁厭師まじないしに名前を握られると」


 日本に古来より伝わる禁厭きんえんという術には名前を用いた術が存在する。それ故に、日本人は禁厭師まじないしへの対抗策として複数の名前を使うのだ。


「ふぅん――」


 アンナはわかったのかわかっていないのか妙な調子で鼻を鳴らした。と、そこにぴしゃんと襖が勢いよく開け放たれる音。

 そこには黒髪を赤い結帯リボン結った瑞乃の姿。華やかな煌麗服ドレスを纏っていた時とは打って変わり、悠雅と揃いの浅葱色の羽織を翻す彼女の姿は淑やかさが顔を覗かせる。


 恐らくアンナの着替えの手伝いをしていたのだろう。その手には何やら白い長着と寛衣ブラウスを携えていた。


「うら若い乙女が殿方の部屋に何入ってるんですか? 露西亜ロシア人」

「げっ、こけし……」

「また、こけしって言いましたね、マトリョーシカ。さあ、着替えますよ」

「アンタの服は嫌!!」

「貴女が煌麗服ドレスしか持ってないって言うから貸してあげようとしてるんじゃないですか!?」

「薄小さくてキツいの。わかる?」

「無駄に付いた贅肉ぜいにくのせいでしょう?」

「太ってるみたいに言わないでくれる? アンタよりも胸が大きいだけよ!!」


 先の怒鳴り声はこれが原因だったのか、悠雅は少しばかり頭を抱えて「そんなことで喧嘩するなよ……」などとボソリと零す。


 これがいけなかった。

 深凪悠雅という男は乙女心を微塵も理解しない。そんな彼の心無い一言に二人の乙女の心は著しく傷つけられ、その怒りの矛先は当たり前のように彼へと向けられ、


「「うるさい、顔面殺人鬼」」

「よしわかった、戦争の時間だ」


 今にも取っ組み合いを始めそうな二人の少女の間に割り込んで、その喧嘩に参加しようとする男の姿がそこにはあった。

 瑠璃、翠緑、紅蓮。三者三様三色の瞳が火花を散らす。


『お前たちは本当に喧嘩するのが好きだな。だが、そうしていて良いのか? 仕事があるのではないか?』


 呆れ返った語調で天之尾羽張がいがみ合う三人をたしなめると、ポーンと壁に掛けられた時計が就業の到来を報せた。さあ、仕事の時間だぞ、と。

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