第6話

「……………………はぁ?」


 大きな間があった。沈黙の長さがそのまま混乱の度合いの深さを物語っている。

 新八から説明を求める視線が悠雅の元へと飛んで、彼もやや困ったような表情を浮かべる。


「それは俺に問うことじゃない」

「……それもそうか。とはいえ、冗談を聞く暇はないんだがな」

「冗談を言ったつもりは毛頭ありません」


 きっぱりと否定する様子に流石の新八も困った様子だ。彼は己の禿頭を撫でながら問う。


「本気で言っているのか?」

「本気で無ければここにいないわ」


 瑠璃色の眼差しは迷いなく老爺の紫水晶の瞳を見つめている。


「正気の沙汰ではないな」


 ぼそり、小さく零して。


「決意の程は理解した。求めんとするものも概ね察せられた。だが、御身のその願いは理を超えた所にある。そして、それは――御身以外の者達が選んできた選択、決意を踏みにじる行為だという事を理解しておられるか?」

「……、」


 アンナから答えはない。それは自身の願いに何よりも重きを置いてるから。何もかも承知の上で、それでも貫き通したい願いだから。


「私は御身を軽蔑する。それは御身が最もしてはいけない事の一つだ」

「誹りは甘んじて受けます。報いも、いずれきっと。だけど、それでも」

「それでもなお、己を曲げぬか」


 その問いにアンナは無言で首肯する。


「私は以前、その妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうを見たことがある。旅順攻囲戦の時だ。あの魔導書一冊に私が率いていた総勢三千人もの現人神あらひとがみの部隊は壊滅させられた。あれならば、確かに理を曲げることもできるやもしれんな」


 一度そこで言葉を切った新八の顔は怒りに充ちていた。新八にとって妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうという魔導書は負の記憶の象徴だ。思い出すことは疎か、口にすることすらもおぞましくて仕方がない。


 しかし、今ここに道を踏み外そうとする者がいるのを知りながら、自己防衛に走れるほど彼は弱く在れなかった。


「部隊の者達が虐殺された直後、あの魔導書の使用者の指揮下にあった兵士たちの体が水風船のように膨らんで一気に弾け飛んだ。あれは恐らく使用するのに霊力ではない何かを要求してくるものなのだろう。それを知ってもまだ?」

「私は止まれない」

「地獄に堕ちるぞ?」

「地獄にならとうに堕ちてる」


 愛すべき人達のいないこの世界が地獄でなくてなんだというのか? アンナは迷いなく老爺を見据える。

 彼女が自ら折れることはない。新八は憐憫と落胆が入り交じった溜め息を落とした。


「その結果がもたらす代償がどれほどのものになるかわからない以上、御身にその魔導書は使わせられない。どうしても使うというのなら――」

「殺しますか?」

「そう取ってもらっても構わん」


 それがこの国の守護者、この国を守る剣の使命であると言わんばかりに。


「私は、貴方の敵になります」


 故国を滅ぼした宿敵に、皇国の英雄に、彼女は真っ向から挑むように。


「私は必ず成し遂げる。だから、」


 彼女はそこで区切り、改めて、覚悟して。


「――もしもの時は私を殺してください」


 アンナはそれだけ言い残すと席を立って深々と頭を下げた。最早これ以上、席を共にする必要は無い。彼女は宣戦布告してしまったのだから。

 しかし、そんな彼女に老爺は「待ちなさい」と呼び止める。


「なんでしょう?」

「これからどうなされる?」

「異なことを仰られる。無論、東條を探します」

「闇雲に探して見つかるとでも?」

「探して見つかるものはあれど、探さずして見つかるものはないでしょう?」


 アンナは曲がらない。何があろうとも進むことをやめない。だが、それは悪く言えば強情とも言える。

 今度こそその場を後にしようとするアンナ。しかし、彼女の行く手を阻む影があった。

 悠雅だ。彼は部屋を出ていこうとするアンナを遮るように、立ちはだかる。


「当てもないのに帝都に繰り出して、東條とかいうやつを探しに行く気か?」

「そうよ」

「この国は安全なんかじゃない。路地裏ではヤクザ者が麻薬の密売やら人身売買しているし、夜は得体の知れない怪物がうろついている。お前のその祈祷いのりに気づいた心悪しき者達が攫いに来るかもしれない。お前を一人行かせる訳にいかない」

「だったらどうするの? 恩師との絆を捨てて私と来てくれるって言うの?」

「そのつもりは無い」

「なら退いて」


 しかし、彼は動かない。むしろ彼女に詰め寄りさえして。


「ここにいろ」

「冗談でしょう?」

「あいにく、冗談を言うのは苦手だ」

「なおさら質が悪いわ。退きなさい、私の道を阻まないで」

「断る」

「退きなさい!!」


 アンナは声を張り上げた。

 命を助け、助けられた間柄とはいえ悠雅とアンナは赤の他人同士だ。そんな他人に自分の行く末を勝手に決められたくないと思うのは当たり前なこと。

 彼女には願いがある。しかし、悠雅はそういった彼女の思いを汲み取ることもせずに。


「お前に死んでもらいたくない」


 ありがたい。アンナは純粋にそう思った。アンナは敬虔な基督教徒クリスチャンではなかったが、自分のことを慮ってくれる人間がいることを主に感謝したくなった。

 されど、彼女にはそんな人間から背いてでも叶えたい願いがある。故に――彼女は腰に差した黄金色の剣を引き抜いた。

 立ちはだかるのなら切って捨てるという決別の意思の表れ。悠雅も背中に担いだ天之尾羽張を引き抜く。矛盾に満ちた行動であるが、彼もまた本気であるが故。


「――霊力を漲らせるでない馬鹿者共め。私の会社を吹き飛ばす気か」


 そこに声が落ちる。今にも激突しようという二人の間に新八が割り込んだのだ。


「悠雅。浅慮に過ぎる言動と行動は控えろと教えたはずだ」

「しかし――」

「しかしもかかしもない。“ここにいろ”? それはお前が決めていいことではない」


 彼は悠雅を叱りつけるも「だが」と付け加えて、


「お前の言うことも尤もだ。アンナ・アンダーソン殿、貴女の身柄を我々で保護したい」

「……何が目的?」


 当然警戒の色を見せるアンナであるが、対する新八はあっけらかんとした調子でこう述べる。


「そこな悠雅あほうが言う通り、今の帝都は剣呑としておる。放逐ほうちくすれば何が起こるかもわからん。それに、このまま手放すには惜しい人材だと思ってな」

「人材ですって? 私に何かさせたいの?」

「今、帝都では怪物共が白人の少女を連れ去る事件が立て続けに起きていてな。国際問題になる前に対処したいと依頼されていてなあ」

「それはそれはご苦労様。でも、それに私が付き合う理由がないわ」

「そうさな、我が社は軍や国からの依頼が舞い込むことが多々ある。ひょっとしたら東條の情報が入ってくる可能性もあるかもしれんぞ?」

「そんなことを言って、扱き使うだけ使って情報を握り潰す腹でしょう?」

「そこを出し抜けずして、東條に会いに行くと? 笑わせる。あれは魔人だ。妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうを持たずとも剣呑な男だぞ?」


 今一度、アンナと新八の視線が激突する。しかし、今度は先のものよりも張り詰めてはいない。アンナは図りかねているのだ。目の前の、かつての母国の仇敵を。


「正直、私は貴方を信用できない」

「そうであろうな。だから、強制はせんよ」

「私は使うわよ。かの魔導書を」

「その時は――」“私が殺す”。老爺はそう続けようとして、だが、彼はその言葉を飲み込んだ。何故ならば、


「――俺がお前の首を刎ねる」


 新八が宣告するよりも先に、悠雅がそう言い放っていたから。


「死んで欲しくない、なんて言ったくせに?」

「誰かに殺されるくらいなら俺が殺す。この役目だけは爺さんにも譲れない」


 あまりにも、酷い言い草だった。だが、悠雅は真っ直ぐアンナを見つめて言う。大真面目な顔で。

 だけど、アンナは思わず“らしい”なんて思った。彼女はまだ、大して彼の事を知らないが、それでも深凪悠雅という男のイカれ具合を知っている。だからこその“らしい”という感想。


「バカじゃないの」


 アンナは少しだけ頬を緩めた。彼女自身理解しがたいことだったが、仇敵に殺されるよりも、馬鹿で阿呆で愚直なこの男に殺されたいと、そう思って。



「話はまとまったな。それでは早速、仕事の話と行こうか――」


 新八は顎に蓄えた髭を撫でつつ、一枚の紙切れを二人に手渡した。そこには依頼書という言葉が躍っていて、


「――まずは明日、鬼退治をしてもらうとしようか」

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