第5話

 昼食を終えた後、アンナの姿は事務所と隣接する応接間にあった。長椅子ソファに腰掛けている彼女の後ろには隻眼の青年が控え、対面するように座っているのはこの民間警備会社“新撰組”の長である。


「――さて、御希望の通り、辰宮の姫は席を外させた」


 口火を切ったのは老爺の方だった。


「名乗るのを忘れていたか、私は【永倉新八ながくらしんぱち】。民間警備会社“新撰組”の社長を務めている者だ。早速話をしたい所だが、その前にまずはうちの悠雅ボンクラが世話になったようで、謝辞を述べさせてもらうとしよう。有難うアンナ・アンダーソン殿」

「先の会話を聞いていたのですね。食えない御老公ですわ」

「何、小鳥がさえずるようなの麗しき声がたまたま聞こえただけよ」


 互いに零距離で威嚇射撃をしている様な会話に悠雅は胃痛がしてくる思いがしたが、新八のその妙な言い回しに彼は胸中疑問を抱く。

 普通、他者を指してわざわざ、御身などと言わないものだ。通常その言葉は、その身が尊ばれる人間に限られる。或いは、はたまた単なる皮肉か。

 悠雅が思うに後者だとは思うものの、彼女は妙に頭が良いというか、博識というか。ただの平民とは思えなかった。かと言って軍人という風にも見えず、だが令嬢という風にも見えない。彼女の言動は余りに粗野に過ぎるし、このアンナ・アンダーソンという女は余りにも荒事に慣れ過ぎていた。

 そうなってくるといよいよわからなくなってくる。


(命を救われた、とはいえ家に上げるとは些か軽率過ぎただろうか?)


 今となっては後の祭りだが、悠雅は浅慮な己を自戒したくなった。だが、かぶり振る。

 彼は彼女の素性は知らない。しかし、彼は彼女の真摯な願いを知っている。そして、あの尊い祈祷いのりを知っている。言葉の上ではどうであれ、祈祷いのりは嘘をつけないのだから。


(こいつは信じるに値する筈だ)

「私のことをどこまで知っておられるので?」

「御身がご想像しているより一回り二回りは深く知っておるよ」

「元陸軍大将の名は伊達では無いようですね。では、自己紹介は省いて本題と参りましょうか」

「本当に話してもよろしいので? このままではうちの馬鹿弟子に丸聞こえになるが?」

「彼は私の目的を知っていますので」

「ほう……」


 感情の色が見えない返答だった。それだけに空気が冷え込んだ気さえして、悠雅もアンナも、生唾を飲み込んだ。


「悠雅」


 短く、呼ぶ声。


「なんだ?」

「本当か?」

「本当だよ」

「そうか」


 短い言葉のやり取りを終え、爺さんは改めてアンナに向き直った。それもひどく呆れた様子で。


「大層を信用しているのだな。其奴そやつもかなりの阿呆だが、御身も大概だ」

「彼は私の命の恩人ですので。最低限の誠意としてお伝えしました。この国に敵対するつもりは無いと」

「その温情がその悠雅ボンクラにのみ通じるものでしかないと知った上で来たというのか」

「それでも私には成し遂げなければならないことがある」


 引くつもりは無い。瑠璃色の瞳はそう言わんばかりに老爺を貫く。


「では、その成し遂げなければならぬことをお聞かせ願おうか」

「私は我が国より持ち出されたさる魔導書とその下手人を追っています」

「ほう?」

「下手人の名は東條英機とうじょうひでき。魔導書の銘はネクロノミコン。この国では妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうと呼ばれている魔導書を――」


 瞬間、音が失せた。


 刹那の斬光。


 間一髪、悠雅はアンナを押し退けて間に体を滑り込ませた。動くのが分かっていたからこそできた芸当だった。


 吹き出る冷や汗が頬を伝う。秒、寸遅ければアンナは今頃、頭と胴体が分かたれていた。それを理解しているのか、突き飛ばされた当人は彼を咎めることなく怒鳴るように続ける。


「我が祖国から持ち出されたかの魔導書と東條の行方、東條がただ一人崇敬する英雄の貴方なら知っているはずよ!!」

露西亜ロシア政府軍の機密文書でも覗いたか? ――いや、最早そこはどうでもいいか。貴様を斬り捨てることに変わりはない」

「待ってくれ爺さん!! アンナが何を言ってるのかさっぱりだが、落ち着いてくれ!!」


 新八が握る手柄山氏繁てがらやまうじしげの刃は、今にも悠雅ごとアンナを切り捨てかねない程の殺意を帯びていた。


「わからないのなら口を出すな。そこを退きなさい悠雅」

「頼む、話を聞いてくれ」

「退け」

「俺はこいつに借りがある!! こいつのことは最低限の命の保証をしてやらなきゃならない!!」

「だったら失策だったな。それなら一刻も早く故国に帰してやるべきだった。今となっては余りにも遅いが」


 アンナ・アンダーソンは殺害する。新八にそれ以外の答えはなかった。悠雅には彼女が口走った単語について何一つ理解が及んでいないが。しかし、だからとて彼女を殺させるわけにはいかなかった。


「最後通告だ。悠雅、そこを退きなさい」

「退かない」


 老爺の紫水晶の瞳が悠雅を貫くと、全身の毛穴という毛穴が屹立した。彼は奥歯ががちがちと音たてるのを力任せに噛みしめる。

 しばらく瞳の交錯が続いた。それは永遠にも刹那にも感じ取れ、頬を伝う冷や汗が一向に流れ落ちなかった。


「はぁ……」


 やがて、新八が大きく溜め息を零した。凍てつくような殺気の牢獄から開放された悠雅は目いっぱい深呼吸する羽目になった。


「もう良い、好きにしろ。だが悠雅、途中で投げるなよ?」

「わかってる」


 悠雅が頷くのを見てから、爺さんはアンナに顔を向けると、


「アンナ殿、東條に――いや、妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうに何を求めるつもりか? 奪われたから奪い返しに来たとでも?」

「……いえ、私はかの魔導書に人体蘇生の法を求めに来たのです」

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