第30話 失敗と決意
竜虫の体液は竜虫と感覚を共有させることができた。それによって蟲毒で数を減らした竜虫は、仲間を見分けることができるために成虫では殺し合いを避けることができるのである。そのためにその体液を皮膚に塗ることによって、竜虫は一時的に塗ったものを仲間とみなして不思議な力で思いを伝える。
その思いは感情によって色分けされている。
平常色は青、攻撃色は赤、恐怖色は緑である。幸せをつかさどる色があるかどうかは分からない。なぜならば竜虫の幸せがどのようなものか不明であるからだった。
体液を腕に塗り込んだネミングは、その赤色に発色する色を見ながら言った。
「ネズミが紛れ込んでいるようだ」
大型の竜虫は陣営のテントの近くで眠りについている。しかし、その感覚は人間のそれをはるかに凌駕し、眠りながらも周囲の状況をある程度把握することができた。ましてや、それが腕に竜虫の体液を塗っていて、仲間だと認識されているエミリーならば。
「さっき、小型の竜虫に乗っていたもう一人の奴か」
アリアはそれでエミリーが近くにいるのだと気付いた。
ネミングは考える。アリアの協力者が近くにいて、そしてそのタイミングでリナがアリアの鞄を持ってきたという事。
「なるほど、これは罠か。毒か何かが仕込まれているのだな」
リナが持ってきた体液の瓶を持ち上げながら、ネミングが言った。その視線は瓶からリナたちへとゆっくりと動く。
瓶が投げつけられた。幸いにも二人には当たらずに割れた破片が地面へとまき散らされる。テントの入り口のところには竜虫の体液が散らばった。アリアとリナの靴や服には少量の体液がついたが、皮膚に直接あたったものはなかった。
「なめられたものだ。しかし、秘薬を無駄にしたな。この代償は高くつくぞ」
ネミングがつかつかと歩き、リナの顔面を殴った。まだ平手であったことが救いだったが、ネミングは貴族のわりには鍛えられており体格もよい。リナは耐えきれずに倒れ込んだ。顔の左半分が真っ赤になっている。
「この戦争が終わったら二度と反抗する気が起きないほどに、体に刻み込んでやるからな」
髪を掴まれ、リナが再度殴られる。
「誰かいるか!? 反徒どもが紛れ込んでいるぞ!」
テントの外へと出るとネミングは叫んだ。それに応じて兵士が数人テントの方へとやってくる。
リナはすでに立ち上がることができなくなっていた。だが、アリアの縄は外されたままである。
逃げるならば今しかない。だが、アリアの鞄を持ってきたということはすくなくともエミリーが近くにいるはずだった。ネミングが感じ取ったのもエミリーの存在だろう。アリアは自分の腕に塗られた竜虫の体液から、ほんの少しだけその存在を感じることができていた。
「リナさん、早くしないと」
「ごめん……アリアちゃん。アークが……アークが……」
「お兄ちゃんも来ているの?」
力なくリナはうなずいた。
エミリーはアークと合流してからここに来たのだろうが、今のネミングは竜虫と感覚を共有してしまっている。お互いにどこにいるかはすぐに分かるだろう。それを感じて逃げることができていればよいが、そううまくいくはずがなかった。
「貴様かっ! アーク!」
テントの外でネミングの声がした。アークが兵士たちに捕まってしまったのだ。外に出てみるとエミリーも捕まり、二人ともに縄で拘束されようとしていた。
ネミングが何かを話しているが、アリアにはもう理解もできなかった。このまま皆、殺されてしまうのだろうか。シトラリアを救うこともできないのであろうか。両親は、レッグは……アリアは自分の両腕が自由になっているのをネミングが忘れているのだろうと思う。
ここで動かなければ、大切な人たちが失われてしまう。
しかし、何も思いつくはずがなかった。アリアにはこの状況が理解できていない。できていたとしてもできることはほとんどなかった。
視界に、割れた瓶が見える。ネミングはこの瓶に入った体液には毒が入っていると言った。リナはそれを否定も肯定もしていないが、アークがアリアの鞄の中を見て、ハシリドリカブトの毒の入った小瓶を見つけていたのかもしれない。
ハシリドリカブトの毒は、心臓に作用して麻痺を起こさせる。吹き矢で襲撃者に使った時は即効性があった。だが、皮膚から吸収されるぶんにはそこまで早くないのではないだろうか。数分でもよい、もしこの体液を塗ることでネミングよりも強く竜虫に干渉することができれば、大切な人たちを護ることができるかもしれない。
自然と手が伸びた。リナはそれに気づく様子はなかった。
アリアの手が地面に触れようとした。
しかし、その手は妨げられ、高く引っ張り上げられる。痛みとともにアリアはその男の方を振り返った。
「貴様は危ない考えを持っているようだ」
ネミングだった。万策尽きたとは、このことだろう。
アリアたち四人は拘束され、捕虜として牢獄に入れられることとなった。
「明日の朝、竜虫で食い殺してやる」
手足をしばられ、猿ぐつわまでされた四人にはどうすることもできなかったのである。
***
シトラリアの上空にはかつてないほどの大きさの浮島が近づいて来ていた。
朝日とともにそれは確認できる。一睡もできなかったレッグは驚きと共にそれを見た。
「あの浮島は……」
かつてアリアとともに見に行き、落ちてきた建物の中から本を拾った時の浮島である。見間違えるはずもない。だが、日が昇るにつれてシトラリアへ接近するそれの上部には思いもかけない光景が広がっていた。
「建物と、樹と……あれはまさか竜虫?」
そこには数十匹の竜虫が飛んでいたのである。大きさはばらつきがあるが、大きい物であればネミングが乗っていた竜虫を越えるものもあるかもしれない。
「ザハラさん、起きてくれ」
レッグはザハラを起こした。ザハラとて睡眠は非常に浅かった。すぐに起きると眠そうな目もせずにレッグを見据える。
「手伝ってくれ」
「ああ、いいぜ」
理由の言葉はいらない、お前の力になろうとザハラは言った。言ってから冷静になると、少しだけ恥ずかしかった。だが、ザハラのその言葉は嘘ではなかった。
「ザハラさん、俺はさっきまで考えてたんだ。何のために生きるとか、どうしたいとか、今まで沢山考えた。心の中の折れない芯というのは大切だ、生きるためにも生きる意味のためにも大切なんだ。だが、もっと大切なものがあってもいいと思う。多分、アーク兄もそのために行ったんだ。今ならその事がよく分かる」
「それは、なんだ?」
レッグは一呼吸おいて答えた。
「わるいが、それは教えられない。ザハラさんのは自分で見つけなよ」
「じゃあ、代わりに答えてくれ、それはなんだ?」
少しだけ、レッグの頬が紅かった。その右手には竜虫の体液が入った瓶が握られており、もう片方にはある本が握られていたのである。レッグが大切そうに持つそれに興味が沸いた。
「これ? これはレシピだよ。この家に置いてあったんだ」
パラパラとめくってレッグはつづけた。
「色々と思い出すことがあってね。いや待って、忘れてたわけじゃないからさっきの発言はなしで」
とりあえず、そのためにもまだ生きてるならアーク兄を助けないと。レッグはそう言って準備を始めるのだった。
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