第26話 潜伏と着地

「レッグ、時間はたっぷりあるんだ」

「いやいや、待てよザハラさん。時間ないよ、それどころじゃないだろう」

「いいや、俺の身分証を見せれば占領に入ったアラバニア軍の保護下に入ることができる。だから時間は大丈夫だ」



 大混乱の中、レッグたち三人はある民家の中に潜伏していた。その民家はザハラが内部捜査官として使用していたもので、捜査官の協力者が住んでいる者である。その二階に入った三人はこれからどう動くかという事を話し合ったのであるが、情報があまりにも少ないというのと、アラバニア軍の動きが分からないというので立ち往生していたというのが現実的なところだった。



 その中でザハラが、レクタ=スクラブの自己啓発本に手を出した。すでにレッグの言行録を読みふけっていたザハラである。思想的には革命軍に近いものになっていたのをザハラ自身が自覚していた。



「なあ、レッグ。レクタのはここをこう表現しているじゃないか。お前のは逆になっている。いや、むしろ俺はその方がいい気がするんだが、何でこう思ったんだ?」

「だから、それは俺のじゃない。ハリーが勝手に書いただけだって」

「いや、そのハリーことヘンリー=ウェスタはレッグが言ったことを忠実に書いたって言うんだろ?」

「いや、だから……それに今はそれどころじゃないって」



 ザハラを見ていると、レクタ=スクラブの自己啓発本が本当に洗脳の作用があるのではと思ってしまう。レッグは困惑するしかないのであるが、実はこういった経験は一度や二度ではなく、主にハリーやオーガスタに同じような事を言われていた。そして、その時は酒を片手に朝まで語り合ったものである。



「ザハラさんは、今のこの状況をどう思ってるんだ?」

 協力者からの情報ではアラバニア軍を指揮しているのはネミング=タバレロであるという事が分かっていた。クラッブ将軍が指揮するはずだった周辺の駐留軍を「まるで事前に分かっていたかのようにまとめあげて」シトラリアを包囲したという。



「竜虫に誰が乗っているとかまでは分からなかったようだけど……」



 その情報を聞いてからというもの、いや、その前からアークが一言もしゃべらなくなっている。



「もし、俺たちが疑っているようにネミングがこの反乱を仕組んだのだとしたら、そんな事は許されるべきではない」

「それは当たり前だろう。だが、現実的に俺たちに何ができるのかという事を話し合わないといけない。俺はザハラさんとは違って、シトラリアの一領民にすぎないけど、ザハラさんは内部捜査官としてアラバニア王国ではある程度の権限を持っているんだろう? そのザハラさんがこれからの事を考えなくてどうするっていうんだ」

「考えているさ、もちろん手をこまねいているわけではない。だけど、レッグは単なる一領民じゃないぜ。何せ「彼」なんだからな」

「その言い方は嫌いだ」



 レッグ自身は、自分に民衆を導くことができるとは思っていない。実際にレッグに出会った人物はかなりの割合で彼に魅了されているのに近いのだが、レッグには自覚がなかった。対してザハラはそこを冷静に分析している。



 内部捜査官として、ある程度のことはできてもネミングほどの大物になれば生半可な証拠でなければ握りつぶされてしまうだろう。ましてやここは王都ではなくシトラリアである。下手に動くわけでにはいかなかった。



「なあ、ザハラ……」

 半日ぶりにアークが声を出した。それまでアークを心配しつつも、信頼はしていた二人がようやく何を言い出すのかとアークの方を振り返った。



「やつが何を考えるかと思ってたんだけどな、もし、シトラリアをかすめ取ろうと思ってたなら何をする?」

「そりゃあ、無傷で手に入れる……のはもう無理か」

「ああ、もう竜虫の恐怖は領民の中に植え込まれている。そして無傷とはいえ数万しかいない占領軍。じゃあ、何をする?」

「占領後の統治がしやすいように……?」


 ザハラはいまいちアークの言いたいことが分かっていなかった。だが、レッグが言った。


「さらなる虐殺か!? 竜虫がいなくても占領軍が統治しやすいように!?」

「俺の知ってるネミングならばやりかねない。大義名分を手に入れるためには、シトラリア領民の中にわざと反抗する者たちを潜ませるんだろうな」


 ハリーがまとめている群衆はすでに心が折れている。だが、中に数人でもアラバニア軍に抵抗するものがいればどうなるかは分からない。



「アーク兄、どうすればいい?」

「レッグ、……覚悟はあるか? もうお前じゃないと止められないかもしれない」


 レッグは腹をくくるしかなかった。もともとは自分が手に入れた本を読んだのが事の始まりなのである。この事態から逃げる気はなかった。



 だが、その言葉とは裏腹に、アークは考えていたのは別の事だった。





 ***





 生ぬるい風が漂う。

 上空は常に極寒と言っても良かったが、この日はそうでもなかった。身を指すような風の冷たさと、直射日光のジリジリとした暑さが混じり合っているはずの雲の上を竜虫がゆっくりと飛んでいた。そのため風が冷たく感じられない。



「ねえ、なんで急に遅くなったの?」

「……この子があまりあっちに行きたくないみたい」



 シトラリアまですぐのところだった。速度を緩めた竜虫の気持ちが少しだけ伝わる。あの先に大型の竜虫がいるのではないかと、アリアは漠然と思った。


「ごめんね、シトラリアに入ったらもう大丈夫だから」


 上空から侵入するつもりである。もうすぐ日が暮れるために、竜虫でシトラリアの上空を飛んでもとくに騒ぎにはならないだろう。だが、この竜虫が感じている不安が、アリアに伝わるにつれて嫌な予感がどうしても拭いきれなかった。



 遠くにシトラリアの城壁が見えた。周りをかなりの数の軍隊が囲んでいる状況である。


 あれは地上から接近していてもシトラリアに入ることはできなかっただろう。追い払われるどころか、捕えられていたかもしれない。


「暗くなったら城壁の上に降りましょう」

「もうすぐね」


 西に沈む太陽が赤い色を帯びていた。その色が当たっているためか、それとも竜虫自体が不安なのか、回りを包んでいた発色がやや赤みを帯びているように見える。


「エミリー、ありがとう」

「何よ、急に」


 竜虫の体液を腕に塗った際に、ふと感じた安心感。あれはアリアが感じたものだったのではないか、とエミリーは思っていた。おそらくは当たっているだろう。



「うん、ついてきてくれてありがとう」

「いまさらよ。それに、私にだって下心がないわけじゃないわ」



 ネミングの事に関しても、アリアを襲撃したという事実を掴んだわけだった。失脚にまでこぎつけるかどうかは分からないが、失態には違いない。それに、竜虫のことに関してネミングがよからぬ事を考えているというのは捜査の過程で浮かび上がってきたことの一つである。


 それ以上にアークの妹に気に入られるというのは悪い気がしない。エミリーは自分の恋は成就することはないのだろうなという、半ば諦めのような感情もあるのであるが、それでもいいと思っていた。




「また落ち着いたらリナさんの事聞かせてよ」

「え? なんでリナさん?」

「そりゃ、アークが選んだ人がどんな人なのかって、気になるじゃん」



 その時、竜虫がさらに速度を落とした。


「あそこの上を飛びたくないのね?」


 アラバニア軍の陣営の中に、ひときわ厳重な守りが施されている場所があった。上空からでは丸見えなのだが、地上に立っていたならば全く見えないほどに周囲に何重にも防衛の陣地が建築されている。



「じゃあ、回り込みましょう」


 そういうと竜虫は、すこしばかりほっとしたかのように鳴いた。そして右回りに速度を上げたのである。



「竜虫の言っていることが分かるの?」


 エミリーはこの感情が何なのかが理解できていない。なんとなく、分かるだけなのである。


「私もよく分かってないよ。でも、なんとなく分かる気がするから」



 日が落ちた。周囲が暗くなった頃に、二人を乗せた竜虫は城壁の上に降り立った。

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