第9話 飛行とつぶやき

 大きい。


 最初にそう思ったのは仕方のないことだろう。歴史に記載が残っている竜虫の大きさで最大のものとまではいかないが、アリアはもとよりリナですらあの大きさは見たことがなかった。


「十メートル以上はありますね」

「ちょっと、刺激が強すぎるとまずいかもね」


 ここは村から数時間も離れていない場所にあるのである。攻撃を察知して半狂乱状態となった竜虫が村を襲わないとも言えなかった。


「あまり、近づかないようにしましょう」


 まだ百メートル以上も距離が離れている。それでも竜虫にとっては一瞬で詰めることのできる距離に違いない。ほんのりと青白い光が見える。


「リナさん、あの光はもしかすると落ち着いているというのを示す光なんじゃないですか?」


 文献的に町を襲った竜虫は、赤い光に包まれていたという。それが攻撃色ではないかと、アリアは思った。であるならば青白い光に包まれている竜虫は比較的安全である。


「まだそうと決まったわけではないけれど……」


 リナも概ねは賛同なのだろう。警戒を解くわけでもないが、もう少しだけ距離を縮めて見ようかと提案する。


 アリアは瓶を取り出した。リナの目は竜虫にくぎ付けになっている。

 素早く体液を取り出すと、両腕に塗り、瓶の蓋をしめて鞄にしまい込んだ。


(多分、これで竜虫は私のことを認識する)


 アリアの思いが通じたのか、竜虫がこちらを向いた気がした。


「アリアちゃん、あの大きさの竜虫が襲い掛かってきたなら、警戒も何も意味をなさないわ」


 竜虫の顎は、騎士の鎧すらかみ砕くのだという。動き回るもの全てに襲い掛かったというシトラリアの竜虫は、数千にもおよぶ被害者を出した。文献の記載が正しければ、あの竜虫は復興中のシトラリアを襲った竜虫と同じくらいの大きさである。



 キュルゥゥゥゥ。



 似つかわしくない鳴き声が聞こえた。虫の鳴き声は呼吸器官から出ているものとは限らない。羽をこすり合わせているのだろうか、細かく羽が動くのを見ながらアリアとリナはジリジリと後退した。二人ともに、竜虫の雰囲気に気圧されてしまっている。


「アリアちゃん、やっぱりさ、ゆっくり戻ろう。あれはちょっと大きすぎるよ」

「わ、分かりました」


 すでに腕に体液を塗った後であるが、アリアはリナの判断に従うことにした。経験というものの大切さはこの一年で嫌というほどに体感している。リナがまずいと思っているならば、退かない理由はない。ジリジリとすり足で後ろに移動する。顔は前を向いたままだった。二人の距離が少しだけ離れる。


 だが、その時に竜虫が大きく羽ばたいた。


「あっ」


 スィーっと竜虫が飛んだ。滑空をするように最初の一回以降は羽を動かすことはない。まっすぐに、アリアの方に飛んできたのだ。


「アリアちゃん!」

「リナさん! 大丈夫!」


 リナがこちらへこようとするのを手で制して、アリアは竜虫が来るのを待った。やはり、竜虫は青白く光ったままだったのである。


「大丈夫……」


 両手を広げて、ゆっくりと近づいた竜虫の頭を抱えるアリアに、リナは何も言うことができなかった。


 ただ、その光景を見て、悲しみが混じった表情をしていたのがアリアには理解できなかっただけである。

 いつものようにはしゃいでくれると思っていた。だが、リナの顔には悲しみしか現れていない。

 急な出来事に戸惑いが強く、まだ足りなかったのか。それならば、とアリアは次の行動へと移った。


「ちょっと、乗せてくれるかな」


 竜虫の頭を触っていると、竜虫の考えていることが分かったような気がした。竜虫は別に嫌だと思っているわけではなく、むしろアリアが背に乗ることを歓迎してくれているかのように感じ取れた。


「見ててください、リナさん!」


 ひょいと、竜虫の頭の後ろに飛び乗ると、アリアは竜虫の両角を握った。


「さあ、飛んでよ!」


 ふわりと、竜虫が浮き上がった。強い青色の光を発したようだった。


「アリア……ちゃん……」

「リナさん?」


 リナが望んだのは竜虫に乗る事のはずだった。それができるということをアリアは証明したはずで、その原理はおそらく竜虫の体液を体に塗るという事だったのではないか。

 ここまで判明したのであれば、次はリナが竜虫に乗る番である。アリアが地上に降りて来たならば、リナの夢が叶うのだろう。


 だが、リナの表情はすぐれない。



「……悪魔の……騎士」



 竜虫はさらに高く飛んだ。


「待ってアリアちゃん! そんなに高く飛ぶと誰かに見られちゃう!」


 悲痛な面持ちでリナが叫んだ。だが、すでにアリアはその声が届かない高さまで竜虫とともに飛んでいた。




 ***




「じゃあ、シトラリアに着いたら手紙を出すよ。状況によってはすぐに帰ってくるんだ」

「分かったよ、お兄ちゃん」


 アークがシトラリアへ帰るのはそれから一か月たったあとだった。


「本当にリナさんにお別れしなくていいの?」

「リナも僕に会うと辛いだろうからね」


 会わないともっと辛いんじゃないの? とアリアは思ったが口には出さなかった。


「アリアもリナの助手をクビになったんだろ?」


 アリアは助手を解雇という形にされていた。アークが帰ったあとに何かあるとシトラリア帰還の決意が鈍るだろうし、ある程度の成果を上げたのだからこれからは少しゆっくりするとリナが言ったためだった。


「うん、リナさんも辛そうだった」


 当面の仕事はしなくてもいいくらいにアリアはリナに賃金を払われていた。そうでなくてももともとの生活費にあまりお金をかけていなかったことと、アークが貯金の半分くらいをアリアに預けたために、シトラリア帰還までは王都で過ごすことは問題ない。


「まあ、王都を楽しめよ。こっちに来てから観光もしてなかったんだろ?」

「うん、まあね」


 王都で女性が一人暮らしというのも心配ではあるが、アークはそれ以上にシトラリアで何かが起きているのか不安だった。調べれば調べるほどに分からないのである。だが、治安部隊とでもいうべき軍がシトラリアに駐留し始めているのは事実のようだった。しかし、シトラリアで事件が起こったという噂は聞こえてこない。水面下で何かが起こる前触れのような状況である。


「じゃあね」

「ああ、リナによろしく」


 アークを乗せた馬車が出発した。アリアはそれを随分と長く見送っていた。


 しかし、ずっと見ているわけにもいかなければ、馬車はそのうち見えなくなってしまった。


「さあ、これからどうしようかな」


 リナは屋敷にこもっているようである。研究所にも顔を出すことはあるが、調べものがほとんどのようであり、当分は外に出て何かを探したりするつもりはなさそうだった。


 竜虫に乗ることができたのである。竜虫の体液が、他の竜虫を落ち着かせ意思疎通のようなものができるという事を発見したのは素晴らしいことだった。

 だが、リナは頑なに竜虫の体液を自分の腕に塗るつもりはないと言った。当初は体液の成分に不安があるのかとも思ったが、そうではないらしい。理由は最後まで教えてくれなかった。



「アリアちゃん、この発見は公表できないかもしれないけれど、すごい事なのよ」


 淡々と語るリナはアリアが出会った頃の人物とは違う気がした。


「国と、ネミング卿と相談することになるわ。アリアちゃんはこの事を知る前に解雇されたという事にしてもいいかしら」


 名誉とかが目的でそう言っているのではない、とリナは言った。これが国の極秘事項になる可能性がある。そうなればアリアはシトラリアへ帰ることができなくなるかもしれない。リナは寂しくそう言った。


「だから、半年はこの事は公表できないわ。その間にどこかで私一人、もしくは次の助手とともにもう一度竜虫に乗ってみる」


 レッグと会えなくなる選択肢をとるつもりはなかった。アリアはこの提案を飲んだ。

 一応、リナが何故悲しそうな顔をしたのか、納得できたことにした。色々と考えたが、この件に関してアリアができることはない。



「何もしないで王都で過ごすというのもな……」


 一人呟くと、アリアは通りを歩き出した。

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