神の子羊たち

三津凛

第1話

寮から学校までの短い距離の中に、私たちは世界を見る。

スノードームの中に佇む雪だるまみたいな存在の私たちに、束の間引き摺られる影ができる。

確かに存在しているという実感が持てる瞬間とは、そういった時ではないかと私は思う。


私と純子の通う学校は少し変わっている。生まれた時からこの緑深い寮と学校の往復で私たちは繋がっている。

それが特殊なことであると気付かされたのはこの前十五歳の誕生日を純子と一緒に迎えた時だった。

「外にも私たちと同じように子どもたちがいるんだって」

「誰に聞いたの?」

「可南子先生」

「私たちはその子たちに会いに行けるのかな」

純子は私の言葉に少し哀しそうな目をした。

「会えるなら、もうとっくに会わせてもらえているような気がする。先生たちは優しい人ばかりだから」

住み慣れた居心地の良い今の場所と、そこに収まる私たちが普通の人間ではないのかもしれないと、そこで初めて気が付いた。


「可愛い神の子羊たち」

可南子先生は私たちに呼びかける時に必ずそう呼ぶ。

名前では呼ばない。

「それは、どういう意なの?」

私が聞き返すと、可南子先生は諦めたように笑った。

「神の子羊。あなたたちのことよ」

「でも、私たちには名前がちゃんとあるわ」

可南子先生は私の肩に手を置く。

「祈祷文があるの。神の子羊、ラテン語ではアニュス・デイ」

質問の答えになっていない。私が言いかけると、可南子先生は抑揚のない声で続ける。

「世の罪を除く神の小羊よ、彼らに安息をお与えください、世の罪を除く神の小羊よ、彼らに永遠の安息をお与えください」

「それはどういう意味なの?」

「その時が来たら、ちゃんと分かるわ」

可南子先生はそれ以上何も言わず黙って私の頭を撫でた。

神の子羊。世の罪。

それは何だろうかと、私は思った。


春になると、この国では桜が咲く。

私たちはその美しさを散る中に見つけようとする。

生命あるものが美しく在れるのは、滅びゆく途上にあるからだと、可南子先生に教わった。

「だから、神の子羊は美しいのよ」

私たちは美しい。

「桜、今年も綺麗に咲くところ見られるかしら」

同室の純子がまだ蕾すら宿していない桜の木を見下ろす。

「大丈夫だよ。神様がいるから。純子が祈れば必ず見られるわ」

「そうね。だったら、今すぐお祈りしないと」

純子は従順で素直な女の子だ。乳を含ませてもらうのを大人しく待つ赤ん坊のように、与えられるものを受け取って歩いていく。

すぐ隣で祈りだした純子は確かに美しかった。

だが、純子の祈りは長くは続かない。

すぐに純子は現実の中に戻ってくる。

「お腹空いてきちゃった」

私は笑って、可南子先生がこっそりくれたビスケットの入った小袋を渡す。

「わぁ、素敵。最近味の薄いものしか食べさせてもらえないから嬉しい」

「…え、そうなの?」

「うん、検査も多いし」

私は窓の外を眺めた。桜の木はまだ何も身につけていない。

ビスケットを齧る純子を振り返る。

私たちは神の子羊だと、可南子先生は言った。神の子羊は、人類の罪を贖ったキリストのことだ。

まさか、言葉通りの意味ではないだろう。

宗教と哲学の萌芽、詩と音楽の古い交わり、そういった抽象的なことばかりここでは教わる。

それはどうしてなのだろう。なんとなく、外にもいるという「子どもたち」は同じようなことを教わっているとは思えない。

「ねぇ、純子」

「なあに」

「罪って、なんだと思う?」

「急にどうしたの?課題でそういうのが出たの?」

「あぁ、うん」

純子はふと窓の向こうを眺める。

「罪、つまり悪いことじゃないの?」

私は頷いた。

「じゃあ、神の子羊は?どういう意味なのかな」

「キリストのことでしょう?授業聞いてた?」

「聞いてるよ、言葉の意味じゃなくて…何かの比喩としてあるなら、どういう意味なんだろうって」

「なにそれ、変なの」

純子は笑い飛ばす。

くだらない、と言いたげな笑い声に私もつられて笑った。

神の子羊。世の罪。

それは間違いなく私たちに結び付けられているのに、それはどこか軽い。

軽くするために、宗教や哲学や文学について学ばされるのだろうか。

炉辺で楽しむようなことを、大真面目に私たちは生まれた時から修めさせられている。

あらゆるものを、自分の存在すら瑣末なものであると感じるようになることを願うかのように。


まだ桜は蕾もつけない。

純子は最近、めっきり口数が減った。

暇な時間があるとよく窓辺に頬杖をついて、桜の木を眺めるようになった。

「最近、元気ないね」

「そう?」

純子は微妙に笑う。

「せめて、桜を見られるまでは生きていたかったんだけどなぁ」

「どうして?純子は元気じゃない」

「私を必要とする人が見つかったんだって」

純子が言葉を継ぎかけた時、扉がノックされた。可南子先生がいつもと変わらない声で私たちを呼ぶ。

「可愛い神の子羊たち」

「先生」

「検査が入ったの。二人とも着替えて来てね」

私と純子は顔を見合わせた。

「多分、私の方が時間がかかるわ。先に寮に戻ってて」

私は頷いて、まだ裸の桜を眺めた。


冬というのは月の灯りさえも、冷たい。

私はその冷たさが好きだった。けれど、今はその灯りに早く熱がこもり始めてくれたらいいのに、と願った。

早く桜が見られるように。

「先に帰ってくれて、良かったのに」

やっと検査室の扉が開けられる。

純子は疲れた頰を向けて、笑った。

私の横に座って、少し乱れたお着せの胸元を整えた。私は乾いた感触のそれをもじもじと弄った。

「最後の検査なんだって」

純子は分厚い窓硝子から覗く月を眺めて言った。

「それで、長かったんだ…」

「いつか、罪ってなに?って聞いてきたよね」

「うん」

「なんとなく、それが分かったような気がするの。生きることが無条件に良いこととするなら、それを終わらせる死というものも無条件に悪いものになってしまうと思うの。だから、罪というのは死といえるんじゃないのかな」

私は純子の瞳を覗いた。そこは湖のように波立つものがない。

「誰かが生き続けるために必要なものを、私たちは持っているのよ」

「…なに?」

私は怖かった。私たちは本当は何も持っていない。持っていないから、怖かった。

純子は人差し指で自分を指した。

「全部使われるの。脳から、爪の先まで…。そのために私は生かされていたってやっと気が付いたの」

「それは誰が教えてくれたの」

「可南子先生。あの人はとても優しい先生よ」

世の罪。神の子羊。

死という罪から逃れるための、私たちは神の子羊だ。贖うために、文字通り身体を差し出すのか。

「純子はそれでいいの?」

「選択権なんて、初めからないのよ」

純子は微笑んだ。可南子先生は何を言ったのだろう。

「ただ、桜が綺麗に咲くところだけは見たかったけれど、やっぱりそれはわがままなんだって」

私は立ち上がって、純子を見下ろした。

「桜が咲くまで、待ってもらおうよ。それくらいは聞いてくれるでしょう?だって、先生たちは優しい人たちだもの」

純子は私を見ずに窓の外を眺めた。

「こういう風に思ったの。誰かの目や身体の一部になって春や桜を眺めるのも幸せかもしれないって。だから、もういいの。十分だって、思わない?」

骸だ。純子は半分死んでいる。

どうして、僅かな猶予も与えてくれないのだろう。可南子先生の優しい呼び声が今では虚しくなってくる。

「でも、その時純子はいないのよ。何かのフィルター越しに見るものなんて、絶対に美しくない」

純子は笑った。こだわりのない、畏れのない、笑いだった。

「だから、あなたはまだ子どもだって言われるのよ」


それが最後の会話だった。

私はまだ子どもだと、純子は言った。

そして、そんな私を可南子先生は相変わらず「神の子羊」と呼ぶ。


焦らすように、今年の桜は開花が遅かった。

「なにしてるの」

後ろで可南子先生の声がした。

「もう戻らないとだめでしょう?」

「少しだけなら、可南子先生は優しいから許してくれるでしょ?」

私は歩み寄ってくる可南子先生を見上げた。

「次の授業はあまり好きじゃないの」

「どうして?前は哲学の授業大好きだったじゃない」

傍に腰掛けて、可南子先生が不思議そうな顔をする。

「今年も綺麗に咲いたわね」

「嫌味なくらい、美しく咲いてる」

私は唇を尖らせた。


この国では散るものの中に美しさを見つけようとする。

神の子羊たちは美しい。

私たちは美しい。

その美しさが、短ければ短いほどより一層それは輝くことになるだろう。

滅びが近いほど、私たちは赦されて美しくなることができる。


「どうして、待ってくれなかったの?ただ桜を見るまでくらい、待ってあげればよかったのに」

「純子のこと?」

私は一つ気が付いたことがあった。この学校では等しく皆が「神の子羊」と呼ばれる。そして、臓器を提供していった子たちは与えられた名前を呼ばれている。

誰かの生命を支えるために生かされた名前を、役目を終えてから先生たちは口にする。それが優しさなのか、残酷さなのか私には分からなかった。

「私を必要とする人はまだ見つからないの?」

「どうして?」

「純子はね、誰かの目や身体の一部になって春や桜を眺めるのも幸せだって言ったの」

「そう」

「それは正しいことなの?」

可南子先生は一瞬だけ微妙な顔をした。けれどすぐにきっぱり言い放った。

「とても正しいことよ。そのために彼女は生まれてきたのだし、生かされたのだから」

「私たちを生んだ人は誰なの?誕生日はいつも先生たちが祝ってくれてるけど、可南子先生は私や純子の母親ではないでしょう?」

「そうね」

可南子先生は抑揚のない声で呟く。そして、ふと気づいて私の髪に落ちている桜の花びらを指でつまんだ。

「あなたたちは、…神の子羊と呼ばれる子どもたちは皆望まれて生まれてくる子たちよ。でも…親は皆、罪を犯した人たちなの。先生たちは皆優しいでしょう?だから、たとえ死刑囚たちが子どもを望んだとしても望み通り子どもができるようにしてあげるの」

私は俯いた。

「たった一つだけ、条件をつけるのだけれど」

「それは…」

可南子先生が寂しそうに、笑った。

「臓器を提供させるためだけに生かすこと。罪を犯した人たちの子どもが、ただ安穏と生き続けることを赦すほど私たちの倫理は低俗ではないの」

どこかで、鐘の音がする。午後の授業が、哲学の授業が始まったのだ。

「私は神の子羊たちが大好きよ…」

可南子先生は桜を見上げながら言った。

「ほら、もう行きなさい」

私は無理やり立たされた。

憎悪もなにもなくなってしまった私の心に、もう何も響くものはないかもしれないと思った。

神も悪魔も、正義も不正義も美醜もありはしない。

ただ、生かされる人間と生きるべき人間がいる単純な世界の中に私は放り込まれてしまった。

その単純さに目を逸らせるために、あの授業があるのではないかと思った。

歩き始めた私の背中に可南子先生が声をかける。


「その時まで、しっかりと生きなさい」


それは違う。

私たちにできることは祈ること。そして、その時が来るまで生かされていることだけだった。

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