第11話 四字熟語しりとり

 火曜日。


 五限目の授業が終わり、次は芸術の選択科目で移動教室だ。音楽、美術、書道の三つから選ぶことになっており、俺は書道を選択している。


 べつに字が達筆とかむかし習っていたとか特別な理由はなく、ただ消去法で決めただけだ。音楽は聞く専門だし、絵は壊滅的に下手。そう考えたときに書道しか残っていなかったのだ。ちなみにアカリは美術で、晴希は音楽だ。二人とも隠された才能を発揮し、授業を楽しんでいるようだ。うらやましい。


 鞄とともにロッカーに押し込んである書道道具を持って教室を出る。みんな一斉に移動なので廊下は混雑していた。ぶつからないように人の間を縫って廊下を進む。


 ふと窓のほうをみると、先程まで晴れていた空はいつの間にか暗雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。────参った。今日は傘を持ってきていない。学校が終わる頃には天候が回復していることを祈ろう。


 そうこう思っている間に、書道が行われる教室に到着。すでにちらほらと生徒がいた。


 席順は決まっておらず、自由に座れる。大体の人は友達と固まって座るのだが、俺にはそんな友達はいないのでいつも教室の隅っこを陣取っている。書道とは一人でやるものだ。無心を掻き乱す仲間なんていらない。


 だが、今日はそうにもいかないらしい。


「安城さん安城さん、こっちです」


 すでに着席して書道道具の準備をしていた優等生の空井野が手を振ってくる。しかも彼女が座っている席は普段俺が座っている席だった。


 空井野が書道を選んでいることは事前にアカリから聞いていたが、まさか普通に声をかけてくるとは。


 無視するわけにもいかず、近づいていき、隣の席が空いていたのでそこに座った。


「空井野も書道だったんだな」


 これまでにも選択科目は何回かあったが、その時はまだ彼女と面識がなかったため、まったく気がつかなかった。


「はい。音楽は協調性が大事ですし、美術は技術を必要とするので一番楽な書道にしました」


 ほう、俺と同じ消去法か。仲間だ。


「それにしても、いつもこの席に座っているぼっちで可哀想な人がいるなーと思っていたら、まさか安城さんだったとは驚きです」

「俺って周りからそんなふうに思われてるのか……それを言うんだったら空井野だってぼっちだろ」

「いえいえ、私は好きで一人でいるので違いますよ。安城さんと同じにしないでください」


 笑顔のわりに辛辣な言葉だ。せっかく同志を見つけたと思ったのに残念だ。


 程なくして、ぞろぞろと生徒たちが教室に集まり、各々が席に座ったころに先生が現れた。


 本鈴が鳴り授業がはじまる。


 授業の前半は先生指導のもと教科書に載っている字をひたすら書く作業だった。


 練習のためとはいえ、同じ字を何回も書いていると正直飽きてきて(六限目という一日の疲労が押し寄せてくる時間帯も相俟って)眠気を帯びてくる。永字八法だかなんだかは知らないが、綺麗な字を書くことよりも心がこもっているかのほうが大事だと個人的に思います。これでは書道ではなく、習字だと思います。


 どうしようもない不満不平を募らせながら、ちらっと左隣の空井野を見る。


 苦楽の基準で選んだわりに、案外真剣に取り組んでいる様子だ。墨を磨る動作や筆の持ち方などから書道経験者であることを窺わせる。半紙と向きあい、一呼吸でなめらかに筆を走らせていく。俺の怠惰な考えが表れた歪な字とは異なって、書道に対する真摯さが表れた達筆だった。


 自分の書いたものと比較すると余計にやる気が失せてくるので、右隣のどことなくチャラい男子生徒のもはや芸術の域に達した読めない字をみてモチベーションを立て直した。


 粛々と時間は過ぎていき、授業の後半は好きな字を書き放題の自由時間となった。


 眠気を誘う反復練習が終わったものの、お題がないというのもこれはこれで面倒だ。とくに感慨のある字なんて浮かばないし、無難に希望や努力といった良さげなものを書いておくか。


 自分に似合わぬ字を書いていると、空井野が小さな声で呼んできた。


「安城さん安城さん。せっかくなので勝負しませんか?」

「勝負?」


 不意の提案に俺は首をかしげた。


 いきなり何を言い出すのか。やるにしても書道でどうやって勝ち負けを決めるのだろうか。綺麗な字を書けたほうが勝ち? なら俺の敗北は決まったようなものなので受ける意味はない。


 そんな俺の心中を読んだのか、空井野は、


「はい。勝負といっても公平なルールなので安心してください。字に関して勝敗を決めると私の圧勝になってしまいますから」


 俺の『希』の字をみてニコリと笑う。下手ですみませんね。というか空井野ってこんな性格だったか。なんか俺に対してだけ毒舌な気がする。アカリと一緒にいる時もこんな感じなのだろうか。


「それで。公平なルールって?」

「ずばり〝四字熟語しりとり〟です」


 続けて勝負の概要を説明した。


・半紙に四字熟語を書き、しりとりを行う(このとき濁音、半濁音は無視してよい)。


・四字熟語を書くほうと、その意味を答えるほうに分かれ、それを交互に行う。


・〝ん〟で終わる。四字熟語の意味が答えられない。授業が終わった時点で筆を握っている。以上が負けとなる。


「そして負けたほうは勝ったほうの言うことをなんでも一つ聞くこと。どうでしょう?」


 なかなかに面白そうだ。四字熟語はちょっとばかり得意だし、これなら俺にも勝率がある。勝てば謎を解く手がかりを掴めるかもしれない。


 俺は冗談っぽく「受けて立とう」と承諾の意を表した。


 空井野は頷くと、引き出しにしまっていた半紙を取り出し、筆を持つ。


「では私から書きますね。しりとりの〝り〟ですから……」


 すこし考える素振りを見せてから、すらすらと書いていく。


 そうして半紙に書かれた四字熟語は『利己主義りこしゅぎ』だった。


 手始めだから簡単なものできたか。俺はすぐに答えた。


「他人の利害は考えずに自分の欲望や利益を最優先にする考え方、だな」

「模範解答ですね。さすがです」

「中学の頃、好奇心旺盛なアカリにつられて猛勉強したからな。俺が得意だって知って、今更ルール変更はなしだからな」

「はい、もちろんです。でないと安城さんにお願いを聞いてもらえませんからね」


 どうやら勝つ気でいるようだ。悪いがその自信を砕かせてもらおう。


 次は俺の順番。利己主義だから〝ぎ〟もしくは〝き〟で始まる言葉か。


 いくつか頭に浮かぶし意味もわかるが、書けるかと言われればべつだ。四字熟語を書く場面なんてそうそうない。難しいものは漢字の記憶があやふやなのが大半だ。


 しかし簡単なものでは空井野には通用しなさそうだし、さてどうしたものか……。


 考えていたとき、ふと、昨日のアカリの様子が頭に浮かんだ。


 空井野の力になろうと苦心する彼女の姿。今の音楽の授業中にも考えを巡らせているのだろうか。おそらくそうに違いない。まぁアカリは何事にも真面目だから周りに迷惑をかけることはしないだろうが。……アカリを四字熟語で例えるならアレか。


 俺は寝かしていた筆をとって半紙に書いていく。上手くとはいかなくても、せめて読めるように心がけた。


 そうして書けた四字熟語は『規行矩歩きこうくほ』。


 文鎮を退けて、空井野に見せたところ、


「意味は、心や行動がしっかりしていて正しいこと。品行方正と同義ですね」


 と意外に余裕綽々と答えられた。


 あまり聞かない言葉だと思って自信があったのだが。どうやら勝負を持ちかけてくるほどには詳しいらしい。


 空井野は先ほど書いた『利己主義』の半紙を新聞紙で作製したファイルに挟み、次の半紙を用意しながら言った。


「規行矩歩、品行方正……もしかして日野さんのことですか?」

「おお、よくわかっ……」

「さっすが安城さん! ハンデとして友達のことを四字熟語で表現するなんて。そこまでナメられたとあらば俄然負けられませんよ」


 ──あれ? なにか闘志を煽った挙げ句に、無茶なハンデを押し付けられた? 


 このままではかなり不利になるので弁明しようと思ったが、時すでに遅く、決定事項だというように空井野は次の四字熟語を書きはじめていた。


「えーと、〝ほ〟か〝ぼ〟ですか…………では、これはどうです?」


 空井野二ターン目の四字熟語は『放辟邪侈ほうへきじゃし』。


 さっきとは違って難しい言葉を書いてきたな。


 記憶を呼び起こすのに少々時間を要した。


「わがまま放題に悪いことをすること、だっけか」

「正解です」


 合っていたことに内心で安堵の息をつく。


「よく覚えてるな。見る分には難解な漢字じゃないけど、書けと言われたら俺には無理だ」


 そもそも〝ほ〟でこの言葉は真っ先に出てこない。


「そうですか? なんとなく頭に浮かんだので書いてみました」


 なんとなく、なのか。一回目の言葉といい、あまり良い意味の言葉ではないものを続けて選ぶとは。心が病んでいるのだろうか。結構本気で心配になった。


 なんであれ役割交代で俺の番。『放辟邪侈』だから〝し〟もしくは〝じ〟+唐突に決まった理不尽なハンデのせいで友達のことである必要がある。


 幸いなことに〝し〟〝じ〟から始まる四字熟語はたくさんある。そして晴希を四字熟語で例えるならアレしかないだろう。日常でも使うことがままあるものだし、空井野は簡単に答えてしまうだろうけど。


 俺は『自由奔放じゆうほんぽう』と書いて見せた。


「自分の思い通りに行動する人、ですね」


 予期したとおり空井野は即解答した。


「これは相馬さんですか?」

「ああ。あいつが何かに縛られてるところを見たことがない。何事にもさっぱりしたやつだからな」


 あれほど表裏のない人間も珍しい。そんな直情的な性格が晴希の人気な理由の一つなのだ。


 素直に思ったままのことを言ったら、空井野は意地の悪い笑みを浮かべてくる。


「ほほぅ、相馬さんのことをいやに褒めますね~」

「へんな勘繰りはやめろ。〝じ〟から始まる言葉で考えたかぎりでは、それが浮かんだんだよ。これがしりとりじゃなければ傍若無人とか無礼千万とかにしてる」


 あいつはもう少し節度を弁えるべきだ。


「私的には相馬さんの打ち解けやすい気質は素敵だと思いますけどね」


 そう言いながらも筆を進める。すでに次の四字熟語を思いついているようだ。


 考える間もなく彼女が書いたのは『有頂天外うちょうてんがい』だった。


 これは簡単だ。


「このうえなく大喜びすること、だろ」

「ピンポーン。正解です」


 どんな難しいものを突きつけて来るかと身構えていたが拍子抜けだ。


「中学の頃に大喜びしている自分をふと思い出したら自然と浮かんできました」

「有頂天外を浮かばせるほど、お前はなにをそんなに喜んでいたんだ?」

「さぁ、なんだったんでしょうか。昔のことなので覚えてません。では次は安城さんの番ですよ」


 微笑みながら、あっさりとそう言う。


 怪しい。何かをごまかしたのは確信的だが、それを訊ねたところで空井野が素直に答えるとは思えなかった。


 そのことは一旦棚に上げて勝負に集中する。負ければ何をされるかわからない。


 有頂天外だから〝い〟か。この一字で始まる言葉も多いが……。


 どうしよう。すでに友達の候補がいない。そもそも空井野の言う友達の基準がわからない。


 よく会話する相手? アカリと晴希だ。


 よく一緒に行動する相手? クラスが同じ晴希だ。


 よく一緒に昼の弁当を食べる相手? それも晴希だ。


 よくよく考えてみれば二人しかいない。なんか惨めに思えてきた。もう少し友達づくりに積極的になるべきか。いやでも俺、どちらかというと引っ込み思案だし。


 仕方ない。自分を四字熟語にするか。……あー、すぐに思い浮かぶのが悔しい。


 書いていると、羞恥心が込み上げてくる。脳裏に彼女の困り果てた顔がフラッシュバックして、あまりの苦い記憶に手が震えた。字も雑になり、子供の落書きのように読めないものとなった。


 それから半紙を二枚ほど無駄にしてようやく書けた四字熟語が『一敗塗地いっぱいとち』。


 それを見せた瞬間、空井野がぷっと小さく吹き出した。――――絶対に意味を察して笑いやがったなこいつ!


 しばらく笑いを噛み殺すように口元を覆っていた空井野は答えを口にした。


「意味は完敗することですね。そこまでひどい告白だったんですか?」


 やっぱり気づいていたのか。もうバレているのならば隠す必要はない。開き直ろう。


「振られてる時点でひどいに決まってるだろ」

「たしかにそうですね。でも安城さんは諦めていないんでしょう?」

「ま、まぁそうだけど……」

「おお、熱い恋心ですね~。まぁもし私が告白を受ける立場であれば、そんなしつこいストーカー男は『目の前から消え去れ』ぐらいには思うかもしれませんけど」

「……なぁ笑顔でそんなこと言うのやめてくれない? ほんと心えぐれるから……」


「ふふ、冗談ですよ冗談」とまた口元を手で覆う。こいつ人を弄んで楽しんでやがるな。なんとなく彼女の本性が徐々に分かってきた気がする。


「俺の話はもういいだろ。今は勝負だ」


 これ以上悲惨な過去を思い出したくないので促すと、空井野は「勝ったらそのことを根掘り葉掘り聞こうかな~」などと嫌味なことを呟きながら、新たに用意した真っ白な半紙に向きあう。


 しかし、筆を持ったまま動きを止めた。


「読みと意味は思い浮かぶんですが……漢字が出てきませんね。ちょっと待ってください、今思い出しますので」


 う~んとあごに筆を当て、頭を小さく振りながら黙考する。


 ここまで難なく書き答えしてきた空井野が頭を悩ませるほどの四字熟語。これは少し身構えておく必要がありそうだ。


 しばらく空井野は考えては試し書き考えては試し書きを繰り返した。


 数分後、「よしっ、書けました。たぶんこれで合ってます」と自信ありげに言って見せてきた四字熟語は『跳梁跋扈ちょうりょうばっこ』だった。


 たしかにこれは難しい字だ。頭を悩ませるのも頷ける。というか、またしても達筆。永字八法完璧ではないか。こんな細かい字を四分の一で均等に書けるのがすごい。俺では思い出せない以前に、絶対に半紙からはみ出す。


 しかし、飽くまで難しいのは書くこと。意味を答える分には、ファンタジー小説なんかでもたまに見かける言葉なので簡単だ。


「悪者などが勢力をふるい、好き勝手に振る舞うこと」


 迷わず答えると、空井野はすぐに「あちゃー、当てられちゃいましたかー」とどこか芝居がかった様子で額に手をあてた。


 そして黒板のほうに視線を向けて言う。


「きっと答えられないだろうと高を括っていましたが、四字熟語大好き安城さんには楽勝でしたね。ではお次どうぞ」

「お、おう」


 その割には悔しがらずにさっぱりしているような。にこにこ笑ってるし。それにさっきから前を向いてどうし――――っ! 


「お、お前……もしかして……」


 そうして気づく。空井野の罠に嵌ったことに。


 教室の時計をみると、あと一、二分で授業が終わるところだった。たしかルールではその時点で書いているほうが負け。嵌められた。思い出せないとか言ってわざと時間稼ぎをしていたのか。制限時間を設けていないため、時間に気を配ることを失念していた。


 性悪な空井野のことだ。負ければどんな面倒なお願いをされるか。


 しかし、まだ完全に負けは確定していない。四字熟語の意味を答えられないのも負けだ。


 つまり、急いで書いて出題し、空井野が答えられなければ引きわけ。よしそれでいこう。


 俺には友達ハンデがあるから書けないと思っていたのだろうが、今しがた思い浮かんだ。一度家にもお邪魔したことだし、空井野も友達扱いでいいだろう。〝ん〟で終わってしまう言葉だがこの際どうでもいい。引き分けの口実が作れればそれでいいのだから。


 丁寧さなんて構わずに乱暴に筆を走らせる。


 そして俺が書き終わったのと、チャイムが鳴り響いた瞬間は同じだった。


 先生が授業の終わりを告げ、C組の委員長が号令をかける。起立、礼。それぞれが片付けに入り、教室をあとにしていく。


 空井野は席に座らずに立ったまま、俺の机にある半紙をみて答えた。


「『口蜜腹剣こうみつふくけん』。口先は親切だけど心の中は陰険な人のたとえ、ですね。引き分け狙いは残念でした。――というわけでっ、勝負は私の勝ちです」


 わーいと目立たないように小さくバンザイするニコニコ顔の空井野。どうやら俺の策略は看破されていたらしい。


 努力むなしくも結局のところ俺は負けた。


「ちなみにこれはどなたのことなんですか?」


 あなたですよあなた。ほんと白々しいな。


 俺は辟易した気持ちを呑みこんで頭を切り替えた。


 このあと俺にはやることがある。問答をしている暇はない。勝敗が決したことだし、さっさとお願いごととやらを聞いてしまおう。


「負けは負けだ。一体俺になにをやらせるつもりだ?」

「その言い方は人聞きが悪いですね。私がいやらしいことを考えてるみたいじゃないですか」

「違うのか?」

「違いますよ。私の身体をじろじろと舐めまわすように視姦して卑しいお願いごとを妄想していた安城さんと一緒にしないでください」

「見てないし妄想してないからな。ありもしないことを捏造するのはやめろ。それで結局なんなんだ?」

「今度お話します」

「は?」

「ちょっとここでは人が多くて話しづらいので」


 人に聞かれてはいけないほど人道に反したことなのか。胸中に不安が芽生えた。


 なんにせよ、お願いごとは後日と決まった。空井野と会話している間にも教室から徐々に人がいなくなっていく。鍵閉め担当の委員長は友達と喋っているが、帰りの会があることだし、そのうちクラスの教室に戻ろうとするだろう。だらだらと残っていることを注意されるまえに早く行動を起こそう。


 俺は道具を机に広げたまま教室を出ていこうとする。


「あれ? 安城さんどこに行くんですか?」


 予想どおり声をかけてきた。俺は立ち止まって振り返り、答える。


「トイレ。じつは授業が始まるまえに行きそびれてずっと我慢してたんだよ。空井野わるいけど、さっき俺が書いたやつを新聞紙に挟んでおいてくれないか?」


 そう頼むと、空井野は「いいですよ」と二つ返事でオーケーしてくれる。俺はお礼を言ってそのままトイレに向かった。


 教室を出るまえにちらりと彼女を振り返る。


 さて、空井野は俺の思惑にうまく乗ってくれるかどうか。





 数分して教室に戻ると、誰の姿もなく、俺の机の上には教室の鍵が置いてあった。どうやら委員長は待ってくれなかったらしい。一言声をかけて行けばよかったか。


 道具は授業前のように書道バッグの中に仕舞われていた。挟むだけでいいと言ったのに、まさかここまで綺麗に片付けてくれるとは親切すぎる。


 せっかく片付けてもらって悪いが、と思いつつ、俺はその場で道具を開いた。


 ────ない。空井野が持ち去ったのだろうか、あるいは……。


 俺は教室の一番うしろの隅に置かれたゴミ箱のところに行く。


 中を覗くと、ティッシュや紙くずが散乱している中にそれはあった。


 自分の物であるか手に取って確かめる。それはたしかに俺が用意したものだった。


「……やっぱりか」


 どうやら俺の推理は正しかったようだ。


 それをふたたびゴミ箱に捨て、なんとなしに窓のほうを見る。


 俺の祈りむなしく、外の天候は回復するどころか、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。

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