第8話 動揺
家に上がると、そのまま自室に案内された。
階段を上がった二階の奥の部屋が空井野の自室らしい。ドアを開けた瞬間、ひんやりとしたクーラーの風が部屋の中から溢れだし、廊下に広がった。
何の遠慮もなしに晴希が我先と部屋の中に入り、「はぁ~、生き返るぅ~」と声を上げる。
同意だ。無風地獄である外に居続ければ確実にひ弱な俺は熱中症にかかる。クーラー様ありがたやありがたや。
空井野とアカリに続き、部屋の中に足を踏み入れる。
六畳ほどの部屋には洋服棚や勉強机、ベッドが半分のスペースを占領し、中心には真四角の白テーブルが置かれていた。レースのカーテンがついた窓際には小さな丸い鉢に植えられた観葉植物があり、隣にあるスティックディフューザーから漂う新緑の香りと相俟って、どこか心安らぐ空間を演出している。
普段からどうかは分からないが、意外にとても綺麗に片付いている。スタンドライトの置かれたシンプルな勉強机の上には何もなく、几帳面なのだろうか、その横の棚に収まってある本はすべて背表紙をみせ、続刊のものはきちんと数字順に並んでいた。
ベッドにあるぬいぐるみ(ひよことねこを足した得体の知れないものだが)などを見ると、やっぱり女の子の部屋だなと感じてなぜだか少し緊張してしまう。
ここ最近、他人の家に行く機会すらなかったのに、いきなり女の子の部屋に招かれる展開。慣れ親しんだ晴希がいるといえど、なんとなく居心地がわるい。やっぱり男子が来るのは嫌ではないのだろうか。
そんな俺の卑屈な考えを否定するように、空井野は別段なんとも思っていないような明るい表情だ。
「狭い部屋で申しわけないですが、お好きな場所にどうぞ。私はお茶菓子を持ってきますね」
「あっ、わたしも手伝うよ」
「いえいえ、皆さんはお客様ですから私がします」
そう言って部屋から出て行った。
俺は肩掛けのショルダーバックを床に下ろし、言われたとおり適当な場所に腰を下ろす。右斜めにアカリ、左斜めに晴希が座った。
アカリが手提げバックの中から勉強道具を取り出しながら対面に座った晴希に言った。
「そうだ、ハルちゃん。いま思い出したんだけど、B組の吉永さんが月曜日に部活の助っ人を頼めないかって言ってたよ」
「おう、助っ人依頼か。吉永さんってことは、バスケだっけ?」
「うん。夏に試合があるから根気を詰めてやりたいって。ハルちゃん、バスケは得意中の得意だもんね」
頭のほうはからっきしダメな晴希だが、逆に運動神経はずば抜けて高い。ルールの簡単なスポーツなら一週間経験した程度でレギュラー入りするほど呑みこみが早いため、ほぼ毎日のことに様々な運動部から助っ人依頼が舞い込む。
「ちなみに昨日はどこだったんだ?」
助っ人がない日は大体部室で駄弁っている。昨日は来ていなかった。
「えーと、昨日はテニスだったな。女の先輩たちから正式に入部しないか誘われて断るのが大変だった」
「相変わらずモテモテなことで……」
晴希は容姿が美形だし、性格も爽やかなやつなので男女問わずの人気者だ。それなのに告白を受けたことはあまりないらしい。まぁ原因はわかりきっているけど。
やがて空井野がトレイに飲み物と茶菓子を運んできたところでテスト勉強を開始した。
といっても、この中で赤点をとる可能性が高いのは晴希だけだろう。聞いたところによると中間テストは悲惨な結果だったらしい。比べてアカリはああ見えて成績優秀だし、空井野も自ら進んで勉強会を開くほどだ。頭が悪いとは思えない。俺も不安な科目はあるにはあるが、赤点になるまではないと思う程度。
晴希は頭を押さえながら「また再試地獄が始まるのかぁ……」とすでに諦めムード。この調子じゃ今回もだめだなこりゃ。
それぞれテーブルにノートや参考書を広げ(晴希はテスト勉強とは知らずにやってきたため空井野に借りた)お互いに得意な科目を教えあい、苦手なところを重点的にやっていく。
「ハルちゃん、ここは公式に当てはめて、こう解くんだよ」
「うわぁー、数字はもう見たくねぇ!」
「安城さん~、現代文をテケスタテケスタ~」
「なんかテケスタって久しぶりに聞いたな……で、どこが分からないんだ?」
とまぁ、時間は過ぎていき、一旦休憩を挟むことに。
空井野はシャーペンを置き、ウーンと背伸びした。
「やっぱり一人よりみんなでしたほうが楽しいですね。まるで誕生日会みたいです」
さすがに勉強会と誕生日会は似ても似つかないだろ……と心の中で突っ込んでいたら、ふとあることを思い出した。
「誕生日といえば、
壁に掛けてある、マグカップに入った子猫の写真が載ったポスターカレンダー。その六月三十日を見ながら、そう呟く。
「きざきにぃって誰ですか?」と空井野は首をかしげた。
一気に詰め込みすぎて脳がオーバーヒートしたのか、テーブルに突っ伏している晴希が顔だけを上げて答える。
「C組の担任の木崎先生だよ。真昼とは従兄弟なんだ」
「へぇーなるほど、そうなんですね。では皆さんプレゼントをあげたりするんですか?」
「おう。いつの間にか毎年恒例になってるしな」
「そうだね。う~ん、何をあげたら喜んでくれるかなぁ」
彼女の意気揚々とした表情をみて、俺は内心で嘆息をつく。一方的な恋心を抱いている俺の心境としては複雑だ。
なぜなら俺の幼馴染は木崎兄に恋をしているから。昔から仲良く遊んでたし、木崎兄は頼りがいのある紳士だから好意を抱くのは当然だ。対して俺は頼りがいのないひ弱だから勝ち目がない……というか、すでに一度ふられているので勝負以前の問題なのだが。
「ん? どうしたんですか安城さん? なんだか不貞腐れたような顔をしていますが」
「ああ、真昼は中学の頃に告白し――」
「おいやめろ! それは内緒にしておく約束だろ!」
「ん、そうだったっけ? いいじゃねえか、べつに恥ずかしがることでもねぇだろ?」
「お前は良くても俺は嫌なんだよ!」
こいつは本当にデリカシーの欠片もない。
「あはは……ほ、ほら、まーくんも嫌がってるし、その話はそのへんで、ね?」
アカリが苦笑いを浮かべてそう言う。へんな気を遣わせて申し訳ない気持ちになった。
「そうですね。あまり話を盛り上げると安城さんが恥ずかしさで倒れてしまいそうですから」
「なっ……もしかして今のやり取りだけで察したのか……?」
震える声で聞くと、空井野は肯定するようににこりと笑う。最悪だ、一番知られたくない過去を暴かれてしまった。なんとなく空井野は口が軽そうな気がするから学校で噂とかにならないだろうか。とても心配だ。
「さてさて。飲み物がなくなっちゃいましたので、注ぎ直してきますね」
俺が自分の学校生活の行く末に一抹の不安を感じていると、空井野が立ち上がって空になったコップをトレイに乗せはじめる。
すぐにアカリが手伝い、二人で部屋を出ようとしたその時だった。
「――お、なんだこれ? 手紙か?」
固まった体をほぐすために立ち上がった晴希が、不意に疑問の声を上げた。
晴希の手に握られていたのは、なにも書かれていないどこにでもありそうな白の洋型封筒だった。
晴希はすぐに何かに思い当たったようで、「ははーん、もしかしてラブレターかぁ~?」と意地の悪い笑みを浮かべ、空井野に向かってそれをひらひらとさせる。
どうやら勉強机に置いてあったものらしいが、人様の物を勝手に触るとはマナーがなっていない。俺がいつものように窘めようとしたその瞬間。
ドアのほうから乾いた音が鳴り響いた。
空井野はトレイを手放し、足早に晴希の元にいくと洋型封筒を奪い取った。まるでひったくるように乱暴に。その表情はこれ以上にないほど焦りに満ちている。
突然の予期せぬ彼女の行動に、晴希は驚きのあまり呆然としていた。それはたぶん俺も同じだったのだろう。普段から落ち着き払ったどこかスローペースな空井野があれほど慌てた姿ははじめてみた。
「う、うーちゃん……?」
アカリがおそるおそる声を掛けると、空井野はハッとして俺たちに視線を向け、呆然としたのち恥ずかしがるように顔を俯ける。その様子からどうやら無意識であったことが分かった。
「す、すみません……その、まさか手紙の話になるとは思ってもいませんでしたから少し動揺して……」
そう言って、ばつが悪そうに視線をきょろきょろさせる。
コップはプラスチック製だったので割れずに済んだが、いくら恥ずかしいものだからといって動揺しすぎではないだろうか。それほどに手紙の内容が恥ずかしいものなのか。
「ご、ごめん空井野さん。オレちょっとふざけすぎた……ごめん……」
「い、いえいえ! 相馬さんは悪くありませんよ、私がちょっと大げさ過ぎただけで……お二人も驚かせてしまってすみませんでした」
こちらに頭を下げて謝り、急いで床に転がったコップを拾いはじめる。
俺たちは顔を見合わせて首を傾げあった。
やはり何か様子が変だ。片付けるのに邪魔であろう手紙を固く握りしめ、手放そうとしない。まるで誰にも触れさせたくないというように。
それが、その空井野の不可解な様子が、彼女の正義感を刺激してしまったのだろう。
アカリはコップを拾い終えた空井野に、幼い子供に話しかけるような優しい口調で言った。
「うーちゃん。差し支えなければ、その手紙のことを話してくれないかな?」
突然の申し出に空井野の顔が困惑に彩られた。
「え……でもこれは……」
「なにか悩みごとがあるんじゃないかな? だったら、わたしたちに協力できることがあるかもしれないよ」
「そ、そうだ。一人で抱え込むのは辛いからみんなで考えようぜ」
なぜお前まで同調するのか。
なにか面倒な流れになってきている空気を察知したのも束の間、アカリと晴希がこちらをじぃーっと見つめて、もとい睨んでくる。
どうやら俺も強制参加らしい。仕方なく肩を竦めて同意した。
「まぁ、話して気分が紛れるなら話したほうがいいんじゃないか」
空井野は逡巡するように手元の手紙に視線を落としていたが、やがて顔を上げて少し微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます。……お言葉に甘えますね。それとその……できればこの手紙については他言無用でお願いします」
すぐに俺たちは了承して頷いた。
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