第三章 春の終わり
Ⅰ‐Ⅰ 熾子さんを元気にするのは私なんですよ。
再び日曜日となった。
四月も終わりを迎えるというのに、その日は急激に冷え込んだ。
出掛ける前の支度を終え、司は部屋から出た。居間へと降りると、父がテレビを見ながら
「今朝六時ごろ、■■にある大韓民国領事館へ向けて、四十代の男が握りこぶし大の石を複数投げつけ、窓ガラスを割るなどの被害を出して現行犯逮捕されました。取り調べに対して男は、先日に外務省で起きた爆弾事件の抗議であり、また韓国政府の――」
ぼうっとテレビを見ていると、父が振り返った。
「おや、司、どうしたんだい?」
司は軽く首を横に振り、ううん、何でもない、と言った。
「それじゃ、今から出掛けてくるね。」
言い終えるか終えないかのうちに、司は玄関へ向けて歩みだす。背後からは、気をつけてな――という父の声が聞こえていた。司は歩きながら、うん、とそれに軽く答える。
家から出ると、冷たい風が肌を撫でた。気温が少し低いことと風が強いことを除けば、
硬い感触のするアスファルトを踏みしめ、駅へ歩いてゆく。
熾子に会いたいような、会いたくないような気がしていた。
もっと言えば、胸に痞えができたような気がしているのだ。
最初にこの気持ちを感じたのはいつのことであったか――思い返せば、あの隅田川の
司のこの余所余所しい気持ちは、国家のあいだに長く横たわってきた問題と切り離せない。熾子は日本人ではない――日本と険悪な関係にある国の人なのだ。今さらながら、その事実が重たかった。司の周りに、まるで
上野
先週と違い、今日は熾子が先に来ていた。灰色の絨毯が敷かれたチケット売り場の入口に、
駆け寄り、声をかける。
「アニョハセヨー。」
熾子は振り返り、そして微笑んだ。
「
そしてふと、司はたった今発したばかりの言葉に違和感を覚えた。口元に手の甲を当て、ふっと考え込む。
熾子は怪訝な顔で、どうしましたか、と問うた。
「いや、アニョハセヨって、アンニョンハセヨのほうが正しいのかな――って思いまして。」
「ま――また唐突ですね。」
そして熾子は額に手を遣る。
「まあ――正しいのは
「なるほどですね。」
そして司は、また一つ気にかかることが頭に浮かんだ。
「そういえば、『
「そんなこと、考えたこともなかったですよ。」
熾子は少し困った顔となり、再び考え込んだ。
「多分――関係ないんじゃないかなあ。『何々せよ』は、韓国語じゃあ『
「あ、そっか――
「違います。」
熾子は即座に否定する。
「安寧でいてください――意訳すれば、元気でねっていう意味です。」
「あ、そっちのほうですか。」
「そっちのほう――って。司さんの言うほうはない思いますが?」
「だってそれ、お別れの挨拶ならともかく、会ったときの挨拶なら変な感じがしませんか? その人を元気にするのは出会った人たちなのに。熾子さんを元気にするのは私なんですよ。」
熾子は意外そうな顔をしていたが、やがてふふふと笑った。
「司さんは本当に目の付け所が違う思います。」
なぜ笑われたのかはよく分からなかったが、熾子の笑顔を見て司は安心する。できれば、熾子は日本にいるあいだ、ずっとこんな顔をしていてほしいと、なぜだか強くそう思った。
先週と同じく、待ち合わせ時間の間際になって玉子が来た。
「待った?」
「いや――いま来たところだよ。」
「そっか。」
そして玉子は熾子に向き直り、スカートの端を両手で摘まみ上げ、左足を右足の後ろに廻してお辞儀をする。
「熾子さん、お久しぶりです。」
「久しぶり――っていうほどかな? 先週、会ったばかりなのに。」
「そうですか? 私は、再びお会いする日を心待ちにしてましたよ?」
「おや、嬉しいこと仰ってくださいますね。」
玉子を前にして、熾子の笑みは薄く曇った。
「けれど、私は、今日はあんま長くご一緒できなさそうです。」
「そうなんですか――?」
「実を言うと、明日までに片付けちゃわなきゃいけないレポートがあるんです。ところが、朝に少しだけやって、残りを夜に持ち越しても気分が悪いでしょう? なんか、集中力が続かないっていうか――。」
「なんか分かります。」司は同意する。「少し後に予定を控えてると、手がつかないですよね。」
「ええ。――なので、今日は早めに帰ったほうがいいんです。」
しかし、玉子は面白くなさそうな顔をしていた。
「そうですか。――分かりました。」
そして、映画館のほうを指し示す。
「じゃ、時間も近づいてきてますし、行きましょうか。」
玉子に導かれるようにして、司と熾子は映画館の中に這入ってゆく。
チケットは事前に買ってあった。ポップコーンと飲み物を売店で買って、
優しくないブザーの音が鳴り、光が落ちた。
映画が始まると、不安な気持ちも次第に消えていった。映画が終わるまでの二時間ほどのあいだ、司の心は遠い夜空の果てにあった。始終、綿雪を散りばめたような銀河と、出会えるか出会えないかの瀬戸際を
映画が終わり、Tilacis によるエンディングテーマが流れる。それが終わると、上映室に光が戻っていった。
やば――という玉子の言葉で、司は友人の存在を思い出した。
「予想以上だったくない、これ?」
ですね――と熾子は答える。
「最初はどうなるか心配でしたが、予想以上の完成度でしたね。」
「なんていうか、あれなんですよ、あれ。やばかったんですよ。」
「玉子、語彙力が――」
観客たちが上映室から出始めたので、司は起ち上がった。
「とりま、どっかでお茶しない? 一階に
その言葉に、熾子も玉子も同意する。
映画館を出て、一階へと向かう。下降する
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