Ⅰ-Ⅱ 男の子だなんて――言いましたっけ、私?
喫茶店に這入った。いつもの癖で窓際の席へと坐る。日はまだ高く、広い窓から射し込む淡い光がテーブルの上へと落ちていた。
メニューを開くと、ざく切りの苺の盛られたパフェが目についた。クリームは少なく、紅い果肉が酸い香りを誘わせる。司はそれと紅茶を、玉子は同じものを、熾子は珈琲とチーズケーキを頼んだ。
「とても切ないかったけど、綺麗な映画でしたね。」
おしぼりで手を拭きながら、熾子は言う。
「原作を上手く表現していたと思います。幻想的な内容なんで、上手く映像化できるかどうか最初は少し心配してましたけど。」
司もそれに同意する。
「私も同じです。変なCGとかになったらどうしよう――って思ってたんですけどね。けれど、とても綺麗な映像で安心しました。俳優さんも、今度は大根じゃなかったですし。」
「私はそういった心配はなかったかな。」
サイドの髪をいじりながら、玉子はつぶやくように言った。
「変に原作をいじらない限りは、まあ成功するんじゃないかなって思ってたし。それでも――結末は分かってたはずなのにドキドキするって、さすがに大根さんが原作のことだけはあるね。」
「うん。本当に――四億年経っても初恋の人に逢えるっていいね。」
――たとえ、一年に一度だけでも。
「ってか、あそこのロケ地って鎌倉だよね? 司、気づいてた?」
自然と口元が緩むのを感じた。
「由比ヶ浜でしょ――? 気づかないわけないじゃん。」
熾子は不思議そうな顔をする。
「司さんの知ってる場所なんですか?」
「私の母の実家がある場所なんです――鎌倉は。」
「そうなんですか。」
「ほら――主人公が銀河鉄道に乗るシーンで沙浜が出てきたでしょう? あそこが由比ヶ浜です。母の実家もあの前にあるんですよ。」
「――へえ。」
「私――映画に出てきた処は、みんな行ったことがあるんですよ。例えば――主人公が通勤のために使っていた電車が江ノ電、回想シーンで大昔に彼と一緒にお参りしていた神社が
「いいなあ――鎌倉。私も行きたいですね。」
寂しい気持ちが胸元を
「ええ――。私も、また機会があれば行きたいんですけどね。」
熾子は首を傾げる。
「今は――行かないんですか?」
「五年前に両親が離婚しましたので、それっきりです。」
しばらくして、すみませんという声が聞こえた。
「いえ――お気になさらず。今は映画のお陰で、懐かしいような切ないような気持で一杯で――それで幸せですから。」
「そうですか。」
やや冷たくなった雰囲気を振り払うかのように、司は言う。
「Tilacis のエンディングも、物語の雰囲気に合ってましたよね。」
熾子の顔がぱっと明るくなった。
「そうですね! もちろん Tilacis ですので、ぴったりの曲を創ってくれると思っていましたけれども。ただ――上手く聴き取れない処があったので、じっくりと聴いてみたいんです。」
「『星あかり』っていうらしいですよ」と玉子は言った。「泉鏡花の同名の小説から採られたタイトルみたいです。泉鏡花の小説のほうも、由比ヶ浜が舞台らしいですけど。」
「そうなんだ。」
司の中に、懐かしい気持ちが再び蘇ってきた。
――溜め息一つ、頬に感じて。
「星明りの渚を踏む――貴方との思い出を拾い集めながら。」
熾子も玉子も、きょとんとした顔をする。
「確か――そんな歌詞だったと思うんですけど。」
途端に、熾子は納得した顔となる。
「あ――ああ。確かにそんな感じでしたね。」
「てか――すご。よく一度聴いただけで耳コピできるね。」
「だって――私にも似たような体験があるから。」
玉子は不思議そうな顔をする。
「由比ヶ浜はね――帰省するたびに、地元の友達に連れられて出掛けてた場所なの。そして、沙の中から、綺麗な色をした貝殻や、シーグラスなんかを拾い集めてた。東京に帰るときは、拾い集めた物を小瓶に詰めて彼にプレゼントしてもらったこともあるよ。」
そんな記憶と重なってるんだねと司は言った。
「映画に出てきた季節も夏で、しかも一年に一度しか逢えないという設定に胸が痛みそうだった――私も、鎌倉に長期滞在するのは夏休みのときくらいだったから。」
「ああ、それで――」
熾子は納得したような顔となり、そして軽く笑む。
「司さんは、その男の子のことが好きだったんですね? だから印象に残るんだ。」
司は目を瞬かせ、そしてワンテンポ遅れて熾子の言葉を理解した。
「男の子だなんて――言いましたっけ、私?」
「いえ――さっき言ったじゃないですか。」
「私も聞いたけど?」
そして玉子は眉間に薄く影を落とした。
「え――何? 本当にそうなの?」
うっかりしていたことに今さら気づいた。何と答えるべきか少し迷う。隠しているつもりはなかったが、口が軽くなっていたようだ。
司は窓の外へと顔を向ける。
「まあ――確かに違わないことはないけど。」
玉子は目を瞬かせた。
「――正直なんだね。」
「だって、否定しても仕方ないもの。」
注文していた品が運ばれてきたのは、そのタイミングであった。
パフェの盛られたグラスは、写真のものよりも慎ましく思えた。そこに切り揃えられた苺が紅い花を咲かせている。司はパフェへと醤油をかける。苺にフォークを突き刺し、クリームと醤油を絡めて口へと運ぼうとした。
「それで――どういう人だったんですか、その人。」
熾子のその言葉で、司の手は止まった。
「どういう人――っていいますと?」
「司さんの初恋の人ですよ。」
「私も気になる。――どんな人だったの?」
二人の声は弾んでいる。司は少し踌躇った。しかし、思い返してみれば、これは自分がしゃべり過ぎた結果なのだ。そして司にも、昔の思い出に浸り続けたいという気持ちがあった。
「同い年の男の子ですよ。母の実家の隣に住んでたんですけど。」
口にしてみれば、思ったより恥ずかしくない気がした。
「母の実家には子供がいなかったので、ちょうどいい遊び相手だったんですね。向こうも一人っ子で――私も一人っ子で――気がついたら、よく二人で遊ぶようになっていたんです。」
司は苺を口に運ぶ。肌のいつも浅黒かった彼が、風に揺れ動く木漏れ日の下で暑さを凌いでいる姿が頭に浮かんできた。
「私が懐かしいと思う風景には必ず彼の姿があります。田舎での遊びのこと――自然との戯れのことは、みんな彼に教えてもらいましたから。鎌倉に行くときは、いつも彼に逢うことを愉しみにしていました――今度は、どんな愉しい思い出をくれるんだろうって思って。」
ふうん――と玉子は言う。
「けど――その子が今どうしてるのかは、もう分かりませんね。親が離婚して以来、今まで一度も鎌倉には行ってないわけですから。」
「彼には、会いに行こうとは思わないかったんですか?」
熾子のその言葉に、司は心が軽く
「独りで旅行しようだなんて、考えたこともありませんでしたから。多分、もうあのころの彼とは随分と変わってしまっているだろうし、彼女とかもいるんじゃないだろうかなって思います。思い出は――綺麗なこのままで取っておきたいですから。」
「それがいいかもね。どうせ東京と鎌倉じゃ離れてるし。向こうもいつまで司のこと覚えてるか分からないし。」
友人のそんな言葉に、司は少し気分を害した。
「そういうもんなの?」
「そうだと思うけれど?」
「そういう玉子はどうなの? 今まで恋人とかできたことあるの?」
玉子は冷たい顔で微笑んだ。
「私は子供のころから勉強とか習い事とかばっかだったし、性格も柔らかくなかったし、今まで色っぽいことなんかなかったかな。」
「え――じゃあ、初恋とかもまだなの?」
「まだだよ。」
「――そうなんだ。」
恋について未経験な友人から、初恋の相手について口出しされたことが釈然としなかった。
「まあ――私も初恋は遅いかったですからね。」
まるで玉子をフォローするように熾子は言う。
「韓国は男女共学が少ないですし、勉強ばっかだったので、私も大学に入るまでは何も知りませんでしたよ。案外、そういう人は多いんじゃないでしょうか。」
ふっと玉子から笑顔が消えた。
「そんな熾子さんは、どうだったんですか? 司からは、韓国にいたころには恋人がいたらしいって聞きましたけど。このなかで彼氏がいたことがあるのって、熾子さんだけですよね? 後学のためにも聴いておきたいのですけれども。」
言われて、熾子はやはり困ったような表情をする。二人に話させておきながら、自分だけ語らないわけにもいかない。少しのあいだ、熾子はその紅い瞳を左右に揺らしていた。まるで灯されたばかりの蝋燭の火が、酸素を求めて震えているかのようであった。
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