Ⅸ 恋だったんだ――って、そう信じたいな。

夜に浸された東京の街を、念仁は誠の部屋へ向けて歩いていた。


この一日、念仁は誠と共に『まほつゆ』の聖地巡礼に出かけていた。暗黒物質が破壊しようとしたスカイツリーや、登場人物の一人が住んでいる家のモデルとなった神社、ライブを行ったという設定のイベント会場などを巡った。魔法少女の影はあらゆる場所に表れた。彼女たちのたたかいの跡が、ライブの熱狂が、友人たちと奏でた青春の情熱が、そこには残っていた。


聖地巡礼が終わったあとは、誠の家で再び杯を交わそうということとなったのだ。しかしその前に、念仁は少し買い物をしてきたいと言ったため、誠だけが先にマンションへと帰っていった。


マンションへ這入り、昇降機エレヴェーターで目的の階まで昇る。誠の部屋のインターフォンを鳴らし、自分である旨を伝える。這入はいれよ、という声が聞こえてきた。


誠は居間の奥でキーボードを叩いていた。椅子をくるりと回転させ、こちらへ向き直る。


「待ってたぜ――どこ行ってたんだよ?」


「いやー、ちょっと新大久保にな。」


「何だ? 在日の仲間でもいるのか?」


「そーじゃねーよ。ちょっと、お礼の品を買ってこよーと思ってな。」


「お礼?」


「その――何だ。今日の観光のお礼だよ。今日は色々な処、紹介してくれたじゃねーか。俺、お前がいなかったら、今日ここまで愉しい一日になるなんてことはなかったと思うじぇ?」


テーブルの上には、今日撮ったばかりのプリクラが置かれていた。『まほつゆ』のキャラクターたちとともに、硝子玉のように大きな目をした念仁と誠が写っており、しかも気色の悪いことに「なかよし!」という文字が添えられている。


「それで、ほんの些細なものなんだけどな――」


念仁は買い物袋から何本かの小瓶を取り出し、テーブルの上に竝べた。


「とうせ酒盛りするんなら、韓国の酒も買ってこよーと思って。俺がいちゅも呑んでるやちゅなんだけどな。なかなかに美味いし。」


誠は椅子から立ち上がり、いぶかしげな表情で小瓶を手に取る。水晶玉のような瓶の中で細かい気泡が揺らめき、電燈の下に瞬いた。


「朝鮮の酒? ――何だ、糞酒トンスルか?」


「いや、ちげーよ。『국뽕グッポン』って焼酎だ。口に合えばいいだがな。」


「ふぅん。まあ――受け取っとくわ。」


誠はテーブルに瓶を置き、再びパソコンへと向かった。


「ただ、少し片付けなきゃいけないことがあるから、ちょっと待ってくれないか。そのあいだ、漫画とか読んでくれてていいから。」


「なんだ、仕事中だったのか?」


「いや――違う。俺、『行動する保守』として活動してんだよ。それで、明後日、俺が主催するデモが行われるんだ。自慢じゃないが、参加者はもう千人になるな。」


当然、千人という数には驚いた。そういえば聖地巡礼をしているときも、誠はしばしばスマートフォンから何事かを書き込んでいたか。


「本当なのか――それ?」


「ああ、そうだよ。ほら、これ見てみろよ。」


誠はパソコンを指さした。


誠のものと思しき呟器のアカウントが画面に写っていた。上部領域ヘッダーは巨大な旭日旗である。アカウントアイコンは、右下に小さな日章旗のついたつゆり画像であった。


『嫌韓君@日本が好きなだけの普通の日本人』


それが誠の使用者名アカウントネームのようだ。下には物々しいタグが竝んでいる。曰く、反日左翼撃滅/反日マスゴミ粉砕/暁日あかひ新聞廃刊/マスゴミが報じない真実/在日朝鮮人国外追放/日韓断交/朝鮮半島炎上――。


トップには「日韓断交デモ in 帝都」というつぶやきが固定表示されている。


――これがイゴシ・普通のボトンエ・日本人かイルボニニンガ


さすがに不気味なものを感じざるを得なかった。


しかしそれも短いあいだのことであった。誠は画面を下げてゆき、ここ最近のつぶやきを見せてゆく。それを読んでいるうちに、不気味な印象は消えた。むしろ、イルペに書き込んでいるときと似た不謹慎なブラックユーモアの精神が湧き上がってきた。


「ほほう。皮肉アイロニィだねぇ。」


思わず口元に笑みが浮かんだ。


先ほどは不気味な印象を抱いたホーム画面ではあるが、よく考えてみれば、念仁もイルペで似たような書き込みをしていたのであった。


「まあ、頑張れよ。」


それから誠は五分間ほどパソコンに貼りついていた。それを終えると、台所からグラスと肴を持って来てテーブルへと竝べた。


二人は杯に『국뽕グッポン』を注ぎ合った。強い酒精アルコールの香りが漂い、二つの満月が完成する。乾いた軽妙な音を響かせ、二人は杯を重ねた。


誠はその中身をぐいっと一気に呷った。


국뽕グッポン』は非常に度数の高い蒸留酒である。正直なところ、せ返るのではないかと思った。しかし須臾すこししてから返ってきたのは、意外な言葉であった。


美味うめえ!」


まさかここまで良好な反応をされるとは思っていなかった。


「そ――そんなにか?」


「いやマジでこれ美味えよ! 俺、今まで朝鮮のもので認めたものは何一つなかったけど、正直なところ、こんなにも美味い酒を呑んだことなんか今までなかったぜ――!?」


内心、念仁は困惑していた。『국뽕グッポン』は韓国で愛飲されている大衆酒ではあるが、結局のところ安い焼酎でしかない。もっと美味い酒ならばいくらでもあるだろう。この男は今まで何を呑んできたのか。


もちろん、喜んでもらえたこと自体は悪いことではなかったが。


「嫌韓君が気に入る思ってー、買ってきたんだがな。」


「いやあ、その見立ては正しかったわ! ありがとう!」


言うなり、誠は再び杯を呷った。杯が置かれたとき、中は既に空となっていた。念仁はすかさずそこへ『국뽕グッポン』を注ぐ。


「なあ――さっきは千人も集まるとか言てたけど、お前って有名な活動家なのか?」


「いや、有名なんかじゃねえよ。いつもは、十人とか、多くても二十人くらいしか集まんねえな。けれども、今回は時期とアイデアがよかったんだろう。ほら――一か月ほど前、外務省でテロがあっただろ? あのときひらめいて、ネットで呼びかけたんだ。そしたら、あっという間に参加希望者が膨れ上がっていった。」


「へえ――。嫌韓デモ、よくやるのか?」


「半島関係の揉め事が起こるたびに人を集めてる感じだ。ってか、嫌韓デモばかりじゃねえよ。今回のデモだって、決して嫌韓デモってわけじゃないんだぞ? 日韓関係を様々な側面から熟考した結果、最善の策は国交断絶であると結論づけたからやるんだ。」


「なるほど。」


莫迦じゃねえの――と内心では思っていた。日韓関係をどのように熟考したら、断交などという無利益な結論に至るのであろうか。


ただ――と言い、誠は顔を歪める。


「そうであるにも拘わらず、差別主義者レィシストだの何だのとレッテル貼りしてくる奴が後を絶たん。特に最近は、デモをするたびに噛みついてくる朝鮮人の左翼ババアが一匹いるな。『レィシズムに反対する市民の会』とかいう団体のやつだったかな。虹色平和旗レインボゥフラッグ掲げながら中指立ててきたり、ネトウヨ連呼してきたりするんだけどよ。」


何だそりゃ――と念仁は問うた。


「反差別のデモなのか? 中指立てながら?」


「ああ、本人らはそのつもりらしいぜ? けれども俺からしたら、やつらのほうがよっぽどレィシストだよ。何しろ、人に向かって、恥ずかしーぃだの、みっともなーいだの――も、もてなさそうな顔してますね、だのと言ってきたりするんだぜ?」


「はあ――そりゃ酷いな。」


ただし、誠がもてなさそうな顔をしているのは事実である。


まったく――と言い、誠は舌打ちをする。


「あいつら一体何様のつもりなんだよ! 言ってることとやってることが一致してねーじゃねーか!」


「まあ――韓国でも似たようなやちゅはいるじぇ。暴動を民主主義だとかと言ったり、そのくせイルペを閉鎖しろと主張したり――他人より一粒でも飯が少ないと文句を言うような連中だ。まあ、どこの国も左翼はゴミだってわけか。」


念仁は『국뽕グッポン』で舌を湿らせる。先ほどに比べ、頬が少し熱くなっていた。


「そうだ――お前、朝鮮へ帰る時期は決まってなかったんだよな?」


「ああ、そーだが?」


「それならさあ――明後日、デモに参加しないか? どうせお前も反日だろ? それなら、デモに参加しても損はないと思うんだがなあ。何しろ千人も集まるデモだ――左翼在日の妨害活動も深刻化するだろう。あの朝鮮ババアも恐らく来る。しかし、もし朝鮮人の参加者が一人でもいたら、レィシストなんてレッテル貼りはできなくなると思うんだ。日韓断交を望んでいるのが、日本人だけではないことを思い知らせることができる。変な話だが、インターナショナルな国交断絶デモになるはずだ。」


ほほうと言い、念仁は口角を釣り上げる。


念仁は特に日本が嫌いではない。しかし、インターナショナルな断交デモという言葉と、日本の左翼をぎゃふんと言わせようという提案に惹かれた。何より、これはイルペでポイントを稼ぐための題材となりそうだ。


「いいじぇ。参加するよ。」


「本当か? ――よかった!」


「ただー、これってイルペで実況してもいいか? インターナショナルちゅってもー、とうせ韓国人は俺一人しかいないんじゃねーのか? それだったらー、韓国のほうからもー声援を送ってもらったらー面白いと思うんだがな。あいちゅらも――」


こういう不謹慎なこと好きそうだしな――と言いかけて、念仁は言葉を変えた。


「韓日断交を望む反日だしな。」


「おう、いいぜ? というより、そっちのほうが面白くなりそうだしな。日韓両国民が力を合わせて国交断絶へ向かうわけか――そう考えると胸熱むねあつだな!」


「ただ、そうであるから顔は隠させてもらうがな。」


「分かった。スレが人気になったら、また怪々が翻訳するかも知らんしな。――じゃあ俺、特別ゲストが来るって、今から告知しとくよ。キムチ男言語三級のことは、俺たちのあいだでも有名なんだぜ? みんな驚くだろうなあ。」


言い終えるなり、誠はスマートフォンから書き込みを始めた。その姿を見て、念仁は少し不安な気持ちとなる。


「怪々反応通信っていうと、韓国の反応を紹介するサイトだよな?」


「そうだが――? 何だ、お前、気になるのか?」


「いや――本当にまた翻訳されるのかな思って。」


「それが気になるってことじゃないか。」


「うーむ、そーいうことじゃなくって――」


何ということはない。今度は厳重に顔を隠さねばならないなと思っただけである。


ふと、目の前の男に恋愛経験があるのか気になった。


というより、ないだろうと踏んでいた。


「なあ――お前、彼女いたことあるか?」


誠は不思議そうな顔をする。


「今まで何人とも付き合ったが? 今はつゆりちゃん一筋だ。」


「誰も二次元の話なんかしてねえよ。三次元での話だよ。」


「何だよ、いきなり。それが今までの話題とどう関係があるんだよ。」


「関係あるから言うんだよ。いや――その、海外反応速報っていうブログなんだが、四か月ほど前に、彼女と別れる原因になったんだよ。」


誠の顔が凍りついた。真円の瞳孔が念仁を捉えていた。この場で最も相応しくない話題を出された顔だ。


「彼女っていうと、その、シーっていう意味か?」


コルプレンドゥだよと念仁は言う。


「ほら――俺がーイルペに投稿したコスプレ画像ってー、顔をほとんど隠してなかただろ? 最初はーあれでも充分に隠せたと思ったんだよ。それにー、俺のまわりじゃーイルペなんて見るやちゅはいないだろーとも思ったし。たから危険性は少なく思ったんだよ。そしたらー、よりによって彼女にばれちまた。」


「ざまあ。」


今度は念仁が誠を見つめる番だった。誠は美味そうに杯を呷っていた。


「酷ぇこと言うなよぉ! 俺、あいちゅと別れて、すげーショックだったんだじぇ? こっちはそれまで、散々あいちゅに振り回されて酷い目に遭ったっていうのに。女と付き合ういうのはなー、全力なんだよ。お前には分からんかも知らんがな。」


「何だよ、やけに被害者ぶってるじゃねえか。何か不満でもあったのかよ?」


「ああ。まあ、色々とな。」


念仁はため息を一つついた。


「あいちゅ、とえらく我が儘な女だっだんたよ。」


「はあ――どんなふうに?」


脳はまるで温い風呂に浸かったようであった。そこへ熾子との記憶が浮かぶ。言いたいことは山ほどある。多すぎるがゆえに、何から語ったらいいか少し迷った。


「一言で言えばー、ストーカーがあるみたいだったな。最初は普通の女と思ってたんだがー、じきにそーじゃないって分かった。一日のほとんどがー、あいちゅと何かしらの会話をする時間になってた。少なくともー、授業のときとバイトのときと寝るとき以外は全部だな。顔を合せてないときはー、じゅっとココアトークで話してたよ。飯喰うときも便所行くときもだ。何かが原因で返信できないとー、二十件くらいメッセージが入ってたな。最終的に電話をかけてきて、とこにいるのか訊いてくるんだ。電話の向こうですんげえ怒りながら、俺の処にやって来るんだ。それで言うんだよ――愛してないの? って。」


誠は眉間にしわを寄せた。


「何だそれ? 朝鮮の女はそんなもんなのか?」


「いや、どーだろ?」


念仁は首を捻る。


「韓国の女は、親から大事にされてるからな。自分が大事にされているかどうかは敏感と思うが。けれど、俺からしてもーここまでされるの意外だたな。恐らく、あいちゅ以外にはねーとは思うんだけどな。」


熾子との後ろ向きな思い出はまだあった。


「あとはー、スマホの連絡帳を無理やり見せられたな。それで女の名前があると、片っ端からどんなやちゅでどんな関係があるのか訊かれた。しかも、自分以外に女なんか知らないでいいだろっていうことで、お母さんとあいちゅ以外、俺の連絡帳から女の名前が消えた。その上に、パソコンまで見せろって言ってくるんだじぇ? さすがにそんときは焦ったがな。見られたくないものがあるから少し待ってって、土下座して頼んだよ。そして、見られたらやばいものは削除してから、検閲してもらった。」


「我が儘なんて話じゃねえぞ、それ。」


誠は眉間にしわを寄せていた。


「ってか、そんな状態で、よくあのコスプレができたな?」


「まあ、創造は情熱さ。思いちゅいたら行動せじゅにはいられねえんだよ。あいちゅだって、俺を完全に奴隷にはできなかったからな。」


「ふむ。創作家クリエィターの鑑であるな。」


誠はうなづき、杯で口を湿らせる。


「ところで、お前はそんな彼女の前でもオタだったのか? そのキムチ女は、アニメの女には嫉妬しなかったのか?」


「まあ、付き合う前から友達としての関係があったからな。日本語を学んでるだけあって、あいちゅも日本の文化には親しんてるほうだったし。それにー、こーゆーのは一緒に鑑賞して世界観を共有するとゆー方法もあるんだよ。女の理解を得られるよーなアニメの選考を、俺がしなかったと思うのか?」


「なるほどな。」


ただし、それは当時の念仁が、オタクとして「まだ」深刻なほうではなかったからでもある。失恋して以来の変化について、本人は気づいていなかった。


「ただ、こっちもあいちゅに合わせなきゃならんかったな。一緒にいるときは、必じゅイチャイチャしてる写真を撮られるし。しかもそれを呟器に上げられるし。さすがに顔は加工してたが。」


それと――と念仁は言う。


「付き合ってから二十二日目の記念日には、なんだかやたらと高い香水をプレジェントに要求されたな――結局のところ買ったけど。代わりに俺には薔薇の花一本が送られた。四十九日目の記念日にはプランス料理を食べたい言ったから奢った。代わりに俺にはペアルックが送られたよ。まあ、ペアルックなら、それ以前にも買わされてたし、テートのたびに着させられていたんだがな。そもそも、そのデートのたびにも俺はあいちゅに全てを奢らなきゃならないかったんだ。」


誠はついに何もしゃべらなくなった。


「ほかにも――ココアトークでメッセージ送っても、三時間くらいしても返信が来なかったときがあったな。珍しいこともある思って放っておいたら、電話がかかってきて、自分のことが気にならないのか言って怒るのもあった。あるいは、大通りの交差点の中心で、自分のこと愛していると大声で叫ばなきゃ別れると言いだすのもあった――結局はしたけれど。あるいは、どぶの中に家の鍵を落として、とうしようー、とうしようー言いながら、ちらちらと俺に視線を寄越してきたことあった。それも俺が腕を突っ込んで拾ったけど。多分あれはわじゃと落としたんだと思う。」


「あのさ――一つ訊いてもいいか?」


誠は渋柿でも食べたかのような顔をしていた。


「何でお前、そいつの要求を全部受け入れたの? 俺だったら、そんな女はとっとと見切りをつけるぞ? 喧嘩とかしなかったわけか?」


何と答えたらいいものか、念仁はしばし迷った。


「そりゃ、俺の人生の中で初めて出来た彼女だったし、美人だったし、別れたくない思うの普通じゃね? それに、付き合おうかって声をかけたのは俺のほうだし。」


「つまり、お前は彼女のことが好きだったってわけか?」


「好きじゃねーよ、あんな女。まあ、最初は好きだったけど。」


「じゃあ、単純に別れりゃよかっただけの話じゃね?」


「いや、だって――。とんな無理難題でも、女の子に頼まれたらやっちまうだろ? お前も彼女ができたら解ると思うよ。」


誠は腕を組み、分かんねえなと言った。


「彼女に酷い目に遭わされたって言う割には、お前がやったことのほとんどは自発的なもんだろうがよ。大通りで好きだって叫ぶのだって、やらなきゃよかっただけの話だ。どぶの中の鍵を拾ったのだって、別に彼女から頼まれたわけじゃない――お前が男としてかっこいいところを見せたかっただけだ。そのくせして、好きではなかったと言う。結局のところ、そんな女と付き合い続けたお前の自己責任であるように思える。今さら文句を言う筋合いなんてないと思うぞ? まあ、好きだったっていうのなら、状況は少しだけ変わるが。」


「いや――それは――」


念仁は反論しようとしたが、上手い言葉が見当たらなかった。むしろ、考えているうちに誠の言うようにさえ思えてきた。あのときの自分は、決して熾子を嫌っていたわけではなかったのだ。


「まあ、確かに俺はー、あいちゅのこと愛してたのかもしらんな。」


「何だ、結局はそうなるのかよ。」


誠はシガレットケィスから煙草を取り出し、火を点けた。


「まあ、それだったら、そのキムチ女はお前の心をもてあそんだと言うことはできるかもしらんがな。けれど、愛に見返りなんざ求めちゃいけねえよ。たとえ、恋愛対象を三次元から二次元に替えたところでそれは同じだ。いくら愛してたって、二次元女に三次元で生きることは要求できない。エロゲーの選択肢だって失敗することもある。自分が愛した責任を相手に求めちゃなんねえ。」


念仁の口は閉ざされた。


正論といえばそれは正論なのかもしれない。しかし念仁の求める回答ではない。もっと同情されたり、共感されたりするかと思っていた。


「お前はそーは言うかも知らんが――」


しばらくして、念仁はようやく口を開くことができた。


「愛なんてものは、自分では制禦せいぎょの利かんもんだよ。あいちゅの言うことを聞いて、こ機嫌を取ってたのだって、俺ー、本当は厭だったよ。けど、やめられるわけねえじゃん。それをいいことに俺を振り回してたあいちゅは、やっぱ酷いよ。それなのに――何てイルペやってただけで振られなきゃなんねえんたよ。こんなことなら、あんなやちゅなんかとは出会わなきゃよかたよ。」


誠は難しそうな表情で念仁の話を聴いていた。


「まあ、それにも一理あるな。恋は精神病みたいなもんだとは言うしな。それなら、あんま責めるのもよくはないな。」


恋であったのだろうか――と今さらながら思った。


てっきり自分は、熾子を手放したくないだけなのかと思っていた。


最初、熾子と自分には、同じ学校で日本語を学んでいるという以外に共通点などなかった。熾子はとても勉強熱心で、日本語も歌もとても上手かった。まるい輪郭に険のある容姿は、しかし月の白さに似た気高さを宿していた。


昨年の中秋――断られることを前提で遊びに誘ってみたところ、意外にも許された。二人で何度か出掛けたあと、付き合おうと言ったら、簡単に諒承された。


けれども、自分が熾子と釣り合いの取れる存在であるという自信が念仁にはなかったのだ。だからこれは、偶然の幸運で転がり込んできた宝石のようなものだと思った。


ならば自分の行動は、そんな宝石を失うまいとして取った強慾の産物なのではないか。熾子のことが今でも名残惜しいのは、失ってしまった宝石への執念に過ぎない。今の自分は、ただ本来あるべき地位に戻っただけなのだ。そうであったとしたら、誠の言うとおり、自分は熾子に対して文句を言う筋合いはない。


しかし――そうではないのなら、あれは恋だったのか。


「恋だったんだ――って、そう信じたいな。そうでなきゃ、俺は自分を振った女のことを今でも未練がましく恨み続けてる哀れな男だ。」


誠は意外そうな顔をした。


「何ぃ? あれだけ文句言っときながら、まだ心残りがあるのか?」


「ああ――まあな。」


念仁は杯を呑み干した。手酌で酒を注ごうかと思い、そして瓶が空になっていることに気づく。元はといえば自分が買ってきたものであるし、新しい瓶を開いて注いだ。


「この際だ――恥じゅかしー男だと笑ってくれよ。――俺があいちゅと付き合い始めたのは、去年の十月のことだった。別れたのが今年の一月だ。ちょうど、付き合ってから百日目の記念日を目前に控えてたころだな。俺はその百日目の記念日のために、自分なりに考えたプレジェントを買ってたんだ。もちろん、別れたから渡せなかった。」


「なあ――さっきから聞いてりゃ、何だその記念日っていうのは? 朝鮮じゃあ、付き合ってから何日経ったかを数えるもんなのか?」


「ああ、そーだよ? 二十二日目の記念日、四十九日目の記念日――それからー、百日や二百日ごとにお祝いするな。特にー、百日目の記念日は重要なイベントだ。」


「面倒臭せえな。四十九日目の記念日とか人が死んだときの法要かよ。」


「ああん? ――むしろ、何だよそれ?」


「日本じゃ、人が死んだあと四十九日目に関係者が集まって供養するんだよ。」


「へえ――。」


恋愛の記念日を葬式などと比べてほしくはないものである。


「まあ、ともかくだ――俺はあいちゅにプレジェントを渡せなかったわけだ。あとー、言ってなかたけどー、そいちゅは去年から日本留学を控えていたんだよ。今年の三月から、韓国から離れる予定だった。たから、盛大に祝うちゅもりだったんだ。」


「はあ――? ってことは、いま日本にいるわけか?」


「ああ。まー、どこに住んでるのかは判らんがな。けれども、偶然にでも出会えたらいいなーって思って、そのときに渡すはじゅだったプレジェントも持ってきた。今も鞄の中にあるよ。」


「はあ――一途なやつだな。そこは素直に感心するぜ。」


「予定では、そのときに寿司女をナンパし終えていて、恋人にしてるはじゅだった。――街で寿司女と一緒に歩いているときに、偶然にもあいちゅに出会う。そして、プレジェントを渡して言うんだよ。『お前と過ごした日々は忘れないよ。けれども俺にはもう新しい恋人ができたんだ』って。そうすれば、全ての踏ん切りがちゅくと思った。」


「どこまでも都合のいいやつだな。そこは普通に軽蔑するぜ。」


誠は杯を呑み干した。そして三本目の瓶を空け、杯の中へと注ぐ。


「けれども――さすがにそこまで振り回されたのに、イルペやってるってくらいで振られたら怒るわ。まあ、お前の書き込みも大概だと思うけどな。けれどもお前は、それ以上のことを彼女のためにやったとは思うぞ。何でお前らが寿司女に憧れるのか、分かったような気がするわ。寿司女だのキムチ女だのって言葉を初めて聞いたときは、朝鮮人って下品なセンスしてるなぁって思ったけどよ。」


念仁は溜息を一つ吐く。自分でも、酷く酒臭い息だと思った。


「まあ、誤解がないように言っとくけど――さすがに、あそこまで酷いのはあいちゅだけだとは思うけどな。お前の言うとおり、あいちゅに付き合ってた俺も俺だ。」


「言いたいことは解る。ただ、朝鮮の女をキムチ女とか呼んで蔑んだり、日本の女を寿司女とか言って莫迦ばかにしたり羨ましがったりしてるのは、お前らだよな? そんなふうに朝鮮の男どもが女どもを莫迦にしてたら、朝鮮の女が怒るのも無理もなくね?」


「寿司女は莫迦にする言葉じゃねえよ。むしろ褒め言葉だよ。」


念仁は煙草の箱を取り出し、一本咥えた。


「韓国は女が強い国だ。学歴や収入が低い男は見向きもされねえし、付き合ったら付き合ったで、とにかく愛している証を求められる。男のほうも、そんな女に気に入られようとして、とにかく莫迦みたいに女に媚びへちゅらうやちゅが多い。」


「それ、お前が言えたことか?」


「いや――まあ、そうかもしらんが。」


「大体が――女が強い国っていうのは本当なのか? 俺、てっきり男尊女卑が凄まじい国っていうイメージだったんだけどな。」


「まあ、確かにそういう側面もある。」


煙草に火を点け、念仁は紫煙を吸い込んだ。


「けれども、女に女の役割を押し付けるのは、男に男の役割を押し付けるのと同じなんだ。例えば、韓国じゃ、デートのときの費用は男が全額奢らにゃならんし、荷物は全部男が持たにゃならんし、プレジェントはねだられるし、結婚したら女を養わなきゃならんし、戦争になったら危ない処に行って戦わにゃならんだろ?」


「なるほど――そうか。」


「韓国って、日本よりも自殺率が高い国なんだよ。そのうち、男は女の四倍も自殺してる。日本の場合は、男の自殺率は女の二倍なんだが。まあ、それくらい男の役割ってのはストレスの多いものなんだろ。けれど、女にそういうことを言ってもなかなか理解してくれねえんだ。男は加害者、女は被害者、女は守られるべき存在って一方的に決めつけて、女が優遇されるのは当然だって意見がやってくるわけ。」


「何だかそれってお前の国の政府にそっくりなんだが?」


うるせえよ――と言って念仁は杯を呷った。


「まあ――そういうわけで、キムチ女って言葉は、次第にそういう女を指す言葉になっていったんだよ。そうしたらキムチ女たちは、今度は韓国の男のことを韓男蟲ハンナムチュンと呼び始めた。韓国の男の蟲と書く。こっちのほうがよっぽど酷えだろ。」


「はあ――。」誠は顔を顰める「せめてキムチ男にしとけよ。」


「うん。まあ、まだそっちだったらな。」


念仁は重たい溜息を吐いた。


「一方で――日本は韓国と近い国だし、色々と比較になるし、次第に寿司女という言葉にはいいイメージがちゅいていったんだよ。寿司女だったら、デートの費用も割り勘にすることが多いし、そこまで男に注文も多くねえだろ?」


「なるほどな――そっちにも色々とあるってことか。けれど、お前の元カノへの愛情もただもんじゃねえと思うよ。たらたら文句言う割には、全部の要求を受け入れていたわけだから。その一途さが、今はつゆりちゃんに向けられてるんだろうよ。」


淀んだ水の中へ光が差し込むように、その言葉は頭に響いた。


そういえばそうなのかもしれない。自分は確かに熾子を愛していたのだ。しかし失恋によって、念仁の熱い思いは行き場をなくしてしまった。この心の空洞を、自分はアニメで――特に、つゆりへの愛で埋めようとしていたのではないか。


今さらながら念仁は、消費するアニメの量が、失恋してから異様なほど増えていることに気がついた。

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