Ⅷ 怒りは麻薬だからね。

黒板は大地に萌える密林のような色をしていた。そこに白墨チョークが当たって硬い音を響かせている。司はそれをノートへと書き写してゆく。


「子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。」


書き終えると、その漢文の教師は振り返った。


那須なすという名前の教師である。


歳は五十代初めほどか。頭に茄子を載せたような、不自然なほどぺったりとした髪型をしている。誰がどう見てもかつらであると判る。


「えー、お前ら、中学校のころに、これと似たような文章は習っただろう。まあ、忘れとるかもしらんがな。書き下し文はな――」


言いつつ、那須は書き下し文を板書する。


「子曰く、巧言令色こうげんれいしょく足恭すうきょう左丘さきゅうこれを恥じる、きゅうまた之を恥じる。怨みをかくして其人そのひとを友とする、左丘また之を恥じる、丘また之を恥じる――だ。」


白墨をいた。


「簡単に言えば、飾り立てた上手い言葉を言ったり、うやうやしくびへつらったりするのは、左丘は恥ずかしいことだと思ったし、俺もそう思うぞ。言いたいことがあるのに、それを隠してその人を友人とすることも、左丘は恥ずかしがったし、俺も同じだぞ――という意味だ。」


那須は手を叩き、白墨チョークの粉を払った。


そして、忌々しそうに舌打ちをする。


「――ったく、これこそ巧言令色以外の何でもねえっつうの。これだから俺、孔子って嫌いなんだよな。まあ、どれだけ古かろうとも、所詮は自己啓発セミナーの会長だってことだな。こんな文なんかより、俺が書いたもののほうを教科書に載せろっての。」


相変わらず無茶苦茶なことを言う教師である。この教師が――。


この教師が――司の担任なのだ。


「しかし、まあ――孔子様と呼ばれ、讃えられている人間の言うことだけはあるな。この言葉は真理を突いている。俺とお前らとは友達同士じゃないが、一応は教師と生徒という関係だ。この際だから言わせてもらうがな――俺は、お前らの教師なんかするような存在じゃないんだぞ。本当はそんな下等な存在なんかじゃない。真っ当な評価さえされていれば、今頃はもっと有名になっていたはずの人間なんだよ。」


両手の中指を立て、笑い始めた。


「うはははははは! 思い知ったか! ばーか、ばあああか!」


ねっとりと耳に絡みつくような声色で、


ばあぁか――とさらに言った。


終業のチャイムが鳴る。那須は教材を抱え、教室から駆け出した。


「さあ、飯だ飯! 教育なんか犬に喰われろ!」


生徒達は途方に暮れた。


静寂のなか、どこかから筆の転がる音が聞こえた。


仕方がないので、委員長の号令で「ありがとうございました」と終業の挨拶をする。クラスメィトの全員が無人の教壇へ頭を下げた。無駄な行為には違いない。しかし、「いただきます」を言ったあとで「ごちそうさま」を言わないと、何となく気持ちが悪いのと同じだ。


昼休みとなった。


気まずい空気の中で、教室はいつもの喧騒を取り戻していった。


窓際にある司の席へ、玉子と代美が弁当を持ってやって来た。周囲から机を引き寄せ、三人で昼食を摂り始める。


「あの人、何で教師やってられるの?」


司が問うと、代美は露骨に厭そうな顔をした。


「そんなこと――僕に訊くなよ。」


「ま――まあ。」


ぎこちのない笑顔を作りつつ、玉子は言う。


「この世にはさ、UFOが飛んだだとか、幽霊が出ただとかといった不思議なことがたくさんあるわけだから。ああいったものに比べれば、まだ不思議なことではないんじゃないの? どうせ人間なんだし。」


「そんなもん、あるかどうかも分からないもんじゃないか。」


代美の言葉に、玉子は黙り込んだ。


しばらくは弁当を咀嚼する音が聞こえた。


代美は司の弁当へと視線を寄せ、別のことを問う。


「ところで、君――。その、おかずの中にある海老の天ぷらみたいなものは何だい? 海老の天ぷらにしては、僕の見たことのないような代物なんだけどな。」


司は箸で弁当箱の中を指し、「ああ、これ?」と言った。


「丸ごと一本山葵わさびの天ぷらだよ。」


「本当に、君は山葵好きだな。」


司は異様なほどの山葵好きであった。今日の弁当も、全体的に濃い緑色がかかっている。白米の上には山葵のフリカケ、おかずには天ぷらのほかに、山葵の絡められたサラダなどが入っている。


いつのことだったか、代美や玉子と弁当のおかずを交換しことがある。そのとき、玉子は半日ほど涙が止まらなかった。


「けれどもさ――」


ふと先ほどの授業のことを思い出し、司は箸を止める。


「那須先生は別にして、孔子って結構心に来ること言うよね。」


代美は首をかしげる。


「そうか?」


「怨みをかくしての人を友とする――だっけか。まあ、友達だからって、何でもかんでも打ち明けられるわけじゃないけど、それでも、表面だけにこにこしながら他人と付き合ってゆくっていうのも、あまり気持ちのいいもんじゃないじゃん。」


言いつつも、司の声は次第に小さいものとなっていった。


「何だ、何か気がかりなことでもあるのか?」


「うん、まあ。」


「それは、僕らのことかい?」


「いや――別にそういうわけじゃないけれども。」


玉子はちらりと視線を遣った。


「ひょっとして熾子さんのこと?」


胸に動悸が奔った。


「まあ、そうだけど。――けれども、何で?」


「だって、このあいだの日曜日、『確かに自分も気になるけど』って言ってたじゃん。けれども、そういったことについて、今まで熾子さんと会話したことはあったの?」


「いや――なかったけど。」


「じゃあ、やっぱりそのことが気になるんだ。」


「うん、まあ。」


正確に言えば、気にかかるのは先日送られてきたメールの内容だ。


――嫌韓情報を集めるのが趣味で、


――わざわざそういう韓国人を見つけては怒っているのは、


そうではないのだ。むしろなぜそう受け取ったのかが気にかかる。


けれどもそのことについて、司は熾子と言葉を交わそうとは思っていなかった。そんなことをしたら、熾子と玉子のあいだに流れたあの気まずい空気が、自分の胸にも流れ込んでくるような気がした。それはきっと、とても耐えがたいことであろう。


――だからこそ、熾子さんも語りたくないんだろうな。


けれども、胸のうちがモヤモヤすることに変わりはない。


そういう玉子はどうなの――と司は問うた。


「あのあと、熾子さんとメッセージ交わしたの?」


「ああ――まあね。」


玉子は面黒おもくろそうな表情となり、溜め息を一つ吐いた。


「やっぱり、韓国人って日本人とは考えてること違うね。」


「――そうなの?」


「うん――。熾子さんも、どうして日韓関係がここまで悪化してるか気にかかってるって。日本に来た理由の一つも、どうして日本が反省しないのかを知るためだって言ってたよ。」


「――はあ。」


熾子がそのようなことを言うとは、少し意外であった。


「けど、突っ込んだ話をすると、『らしく』なっちゃうのね。」


「らしく――って?」


「例えば――嫌韓が増えてきた理由は、日本が衰退して韓国が発展してきたから、その焦燥感が原因だって言ってたよ。もちろん、そんなわけないでしょって反論したんだけど。」


この玉子の言葉は、少し胸に沁みた。やはり韓国人はそう解釈するしかないのであろうか。先日送られてきたメッセージの内容を思い返すと、なおのこともどかしく感じられる。


「あんま政治的な話題をだすのもよくないよ。」


水筒からコップにほうじ茶を注ぎながら、代美は言う。


「君ら、シャッテンって知ってるかい?」


玉子は首を傾げる。


「何それ?」


独逸ドイツ語で「影」って意味――と代美は言った。


「人間は誰もが、自分が認めたくない自分、自分が嫌いな自分を持ってる。それが『シャッテン』な。そんなシャッテンを他人の中に見つけたとき――激しい嫌悪感になるんだそうだよ。」


「それが?」


「あんま議論に深入りすると、深い憎悪につながるということ。怒りは麻薬だからね。人は怒りによって苦しむんじゃない。怒りによって気持ちよくなるんだよ。」


「そういうもんかな?」


玉子は困ったような顔をし、そして司に向き直った。


「けどさ、司も気になることがあるんだったら、メッセとかで思い切って訊いちゃうのもアリだと思うよ? 韓国人って、日本人と違って遠回しな言い方とか嫌うって聞いたことあるし。気になることがあるからこそ、孔子の言葉が琴線に触れたんじゃないの?」


「それもそうかもね。」


韓国人は遠回しな言い方を嫌う、正直を美徳とする――そのような話は確かに聞いたことがある。ならば、司のこのような気持ちは、むしろ正直に打ち明けてしまったほうがよいのではないか。


「孔子の言葉が常に正しいとは限らないけどね。」


言って、代美はほうじ茶をすすった。


「それに、僕は熾子さんからは、僕とは違った印象は受けなかったけどね。大体が、そういった民族的分類が正しいとは限らないし、誰にでも当てはまるとは限らないから。」


「うん――。代美が言いたいことも分かるんだけどさ。」


司は箸を擱き、少し考える。


「私もね、熾子さんは一般的な日本人とあまり変わりないとは思うよ。ただ、そういった民族的な性格分類って、最大公約数的なものじゃないの? 大体、こんな傾向にある、といったくらいの。」


言っている途中で、司はふと一つの違和感に襲われた。


はたして自分は、本当に熾子を一般的な日本人と変わりない人物だと思っていたのだろうか――そのような不安が襲ってきた。むしろ、随所で何かしらの違和感を抱いていたのではないか。そう考えると動揺した。熾子に対して、日本人のふりをしている何者かではないのか――という考えが浮かんできたからだ。


司にとって、それは禁忌であった。ゆえに、頭の中ですぐそうではないと否定した。


この動揺に気づいたのか、代美は不思議そうな表情をする。


「司、どうかしたかい?」


司は微笑み、首を横に振る。


「ううん、なんでもない。」


どこかからか軽い風が吹いたような気がした。

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