Ⅸ‐Ⅱ それなのに――何で――。
書店の中には、騒動から逃げてきた人々が既に何人もいた。誰もが不安そうな視線を外へと寄せている。乱鬥からできるだけ遠ざかるように、三人は書店の奥のほうへと進んだ。適当なスペースを見つけると、熾子は玉子に言葉をかけた。
「とりあえず寝かせましょうか。」
二人は司の背中に手を回し、ゆっくりと床の上に下ろす。司はこのときになって、書店の床の上に点々と紅い血が滴っていることに気づいた。どうやら自分の右脚から流れた血らしい。
司を床に寝かせると、玉子は司の足に目を寄せ、そしてサングラスを取った。熾子もまた患部を覗き込み、そしてつぶやくように言う。
「さっくり切れてるね――
玉子は上着を脱ぎ、帯状に引き裂き始めた。司の右脚を縛って止血し、さらに引き裂いた服を包帯代わりにして患部へと巻き始めた。このときになって、熾子は初めて彼女が玉子だと気づいたようだ。
「――あなた。」
救急車呼んだほうがいいでしょうか、と玉子は言う。
「爆弾の破片が脚を傷つけたみたいです。幸い、破片は残ってないみたいですけど、放っておいたら破傷風になるかもしれない。」
熾子は困ったような顔で、救急車、呼ぶべきかなと言った。
「この中で呼ぶのは少し難しそうだけど。」
外から聞こえてくる喧噪に、複数種類のサイレン音が混じり出した。司より救急車を必要としている人はよほど多そうだ。
玉子は動揺を隠せない顔をしている。
「他に痛いところはない?」
司は、右腕をほんの少しだけ動かしてみせた。
「右腕も――誰かに踏んづけられたみたい。」
玉子は司の右腕へと腕を伸ばし、袖を捲った。
そして顔色を変える。
「蒼くなってる――
眉を顰め、焦燥したように周囲を見回す。
「どうしよう――どうすれば――」
とりあえず落ち着いて――と熾子は言う。
「見たところ、骨折はしてなさそうだから。本当は冷やすのがいいんだけど、ここには氷なんかないみたいだから。とりあえず、今は安静にしておくのが一番じゃない?」
玉子は小刻みに震え、しばし踌躇してから、うんと言う。
三人はそのまましばらく黙り込んでいた。
外の喧騒を聞きながら、司は先ほどの出来事を反芻する。司の近くで爆発したものは――爆弾だったのではないか。しかし、なぜ。
「そんな――。どうして――?」
司の疑問を代弁するように、玉子は声を発する。
熾子は首を捻り、さあ、と言った。
「まさかとは思うけど、過激派ってやつだったんじゃ――?」
「過激派――ですか?」
「うん。なんか学生運動っぽい人もいたし。」
司は俄かに信じられなかった。しかし、デモの妨害者が突如としてテロリストに変じたことを考えれば、確かに過激派なのかもしれない。
それにしても――と熾子は言った。
「二人は何であんな処にいたの?」
司は玉子と視線を合わせる。
何と説明したらいいものか少し迷った。
玉子は不服そうな顔を熾子に向けた。
「――そういうそっちは何でいたんですか?」
「わ――」
私は――と、熾子は歯切れの悪い声を出す。
「たまたまだよ――たまたま通りかかって、あのデモを見かけたの。そしたら、何か韓国人みたい人が街宣車の上で演説してたんだけど――何かその人って、私の知ってる人みたい気がしたの。だから、ついつい気になってついてきたんだよ。」
玉子は目を瞬かせる。
「その、熾子さんの知ってる人って――」
熾子は不思議そうな顔をした。
しかし、玉子は顔をそらした。
「いえ――何でもありません。」
玉子が一体なにを言おうとしたのか、司には分からなかった。デモ隊の前方で演説していた者が誰であったのか、このときの司は知らなかったからだ。念仁の演説が始まったとき、司はまだデモ隊の最後尾にいて、玉子を探すのに集中していたのだから。
「私は――玉子を追っかけてやって来たの。」
玉子と熾子の視線が司に向いた。
「一体なにから話したらいいか分かんないんだけど――。今日、韓国の質問投稿サイトに質問を投稿したんだよ。ほら――あの、知識人っていうサイトに。その――先週の出来事について。」
「知識人に――?」
「うん。――あっ。」
司はうっかり一つの無礼を働いていることに気づいた。
「――すみません。敬語、忘れてましたね。」
「いや――いいよ。」
熾子は首を横に振る。
「あんま歳が離れてないのにお互いに敬語を遣うって、日本の文化に合ってないんじゃないの? 私も、年下に敬語遣ってるなんて、なんかちょっともどかしい感じがしてたんだよね。日本の敬語って、韓国の敬語に似てるようで微妙に違ってて面倒臭いし。」
「――そう。」
実際、司も何となくもどかしい感じがしていたところであった。
「じゃあ、ため口で――。」
そう言うと、熾子は満足そうな顔をした。
「それで――先週、あんな出来事があったわけで――私も随分と悩んだの。私――何か言っちゃいけないことを言っちゃったんじゃないかなって思って。――メッセージも返ってこなかったし。」
「そう――メッセージ、送ってくれてたんだね。」
熾子は顔を背け、そして目に手を当てる。
「ごめんね――返信できなくて。わざとじゃないの、これ。」
熾子の声は、軽く震えていた。
「司と別れた日に、スマホが壊れちゃったの。その――私もずぶ濡れで帰ってきたし。呆然としていて、それで――ポケットにスマホが入ってることに気づかないまま洗濯機に入れちゃったの。――本当だよ? 証人だっているし。」
胸の中の痞えが、また一つ取れたような感覚があった。
「――そうだったんだ。」
だから、つぶやきも全て絶えていたのか。
「本当は、返信しようと思えば大学のパソコンからでもできたかもしんないんだけど――その――何だか怖くって。返信が遅れて、ますます司が怒ってたらどうしようって思ったり、それどころか完全に無視されてたらどうしよう、とか思って。――怖くて。」
気にしないで――と司は言う。
「その気持ちも――分かるから。そういう経験、私にもあるから。」
言っていて、胸が痛くなるのを感じた。
「本当に――ごめんね。」
「いや――こっちこそご免。先週の件は、私だって悪いもの。気分を悪くさせちゃったのは、どうあれこっちなんだから。」
しばらくは沈黙が流れた。
玉子は、やはり顔を凍りつかせている。
「それで――ね。まあ――私も色々と不安だったし、このことについて他の韓国人はどう思うんだろうって思って、韓国語で文章を作って、知識人に投稿したの。」
それから司は、韓国人から来た返信について語った。そして、代美に電話をかけたことや、なぜ玉子が断交デモにいると知ったのかも全て話した。語っているあいだ、熾子は不安そうな視線をちらちらと玉子へと寄せていた。
玉子は――。
やはり顔を凍りつかせたまま、微動だにしなかった。
そんな玉子へと――ささやきかけるように司は言う。
「本当は――家族旅行なんて出てなかったんでしょ?」
玉子はしばし黙っていたが、やがてぽつりと答えた。
「――うん。」
どうして――と熾子は問う。
「――厭だったからです。」
玉子は恨めしそうな顔を熾子へと向ける。
「司の隣に――韓国人がいるなんて厭だった。」
はっきりと、水を流すようにそう言った。
司は床に肘を突き、軽く上半身を起こす。
右腕に痛みが奔り、身体が少し揺らめく。
「そんなにも――厭だったの? 私が、熾子といるのが?」
玉子は項垂れ、顔を伏せた。
「司が――どっかに行っちゃいそうだったから。」
「私は――どこにも行かないよ?」
玉子は首を横に振る。
「司が離れてしまいそうだった――私から。」
玉子は再び黙り込んだ。そして、項垂れたまま頭を抱える。
「相手が韓国人だということが、なおのこと厭だった。」
どこかでサイレンの鳴る音がしている。
いつか玉子が口にした言葉を思い出した。反日韓国人は日本にいてほしくない――そんな言葉に、自分は共感しかけたのだ。
「それなのに――何で――」
墨のように黒い髪の中へと、玉子は指を立てた。
その手の甲は震えている。
「私は、司には追いかけてきてほしくなかった。私を追いかけてきた司がこんな目に遭うなんて――私はもっと厭だ。ましてや、熾子さんなんかとは顔も会わせたくなかった。」
玉子は、どうやら頭の中に爪を立てているようであった。
「それなのに――熾子さんがいなければ助けられなかった。」
糸が切れたように、玉子は両手を床へと落とした。
あとには、寂とした静けさがあった。
「私も――厭なんだよ。」
司がここへ来たのも、結局のところは同じ理由だ。
「私も――熾子とは離れたくないし、玉子とも離れたくないよ。それなのに、玉子が電話を切ったから――。ましてや、日の丸を掲げながらあんなデモなんかに参加してほしくないよ。」
玉子はゆっくりと頭を上げた。
そして顔を逸らし、そう――と言った。
「ごめん――本当に。」
それから玉子は何もしゃべらなくなった。
あとには重苦しい空気のみが残っていた。
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