Ⅸ このまんまじゃ、逃げられそうにない。

爆発音は四つ鳴り響いた。二つは司の近くで鳴った気がした。心臓が高鳴り、足が固まる。悲鳴が聞こえてきて、硝煙の臭いが漂った。


司は周囲を見回した。


デモ隊や野次馬達は、次々に疑問の声を発する。


「爆発?」


「爆発だと!?」


硝子が割れるような音がして、再び悲鳴が聞こえてきた。


見れば、前方の機動隊員の中から紅い焔が上がっていた。


人込みが一斉に動き始めた。司もそれに押される形で後退する。玉子へ目を遣ると、二メートルほど離れた場所で人波に揉まれていた。


「玉子!」


玉子は司と顔を合せた。


「つかさ――」


彼女はこのときになって、初めて司へ向けて言葉を発した。


再びどこかからか爆発音が聞こえてきた。悲鳴――そして何かを訴える声がする。爆発音がするたびに人波は止まったが、それでもゆっくりと後方へと動いてゆく。司の脳裏に、なぜだか小学生のころに見た由比ヶ浜の光景――打ち寄せては凪ぐ波の光景が浮かんだ。


司は人の流れに逆らい、玉子へ近づこうとする。立ち止っただけでも、玉子との距離は少しずつ縮まっていった。


「たまこ――」


玉子との距離が、再び一メートルほどにまで近づいた。


司の近くで爆発音がしたのはそんなときであった。


右脚に鋭い痛みを感じ、周囲の人々が一斉に押しよせてきた。


司は肩から地面に叩きつけられた。その上に、司と同時に倒れた人々が覆いかぶさってくる。


上半身と右足に強い痛みを感じて動けなくなった。司の頭の上を、幾人もの人々がまたいでゆく。


「――い、った。」


掠れるような声を上げ、起き上がろうとする。しかし、右肩と右脚が痛くて動けない。無理に動かそうとするほど痛みは強く奔った。


目の前には、この騒動から逃げて行く人々の脚がある。


そんな何者かの靴が、司の右腕を思い切り踏みつけた。


「ぎぃ――!」


強い鈍痛が奔り、頭の中が白くなる。別の何者かが司の胴を蹴る。しかし腕の痛みが強すぎて、こちらはほぼ何も感じないに等しかった。


「――司!」


とても聞き慣れた声とともに、司の目の前に何者かがしゃがんだ。


「――大丈夫? 立てる?」


顔は隠されていたものの、それが玉子であることに変わりはない。


司は再び身体に力を入れる。しかし、身体のあちこちから痛みが奔って動けない。特に右脚の痛みは、打撲による痛みとは明らかに違っている。何か刃物で切り付けられたような痛みであった。


「――駄目。動けない。」


「そう。」


言うと、玉子は司の左の二の腕を持ち、起き上がらせようとする。


鈍痛のせいで右腕を立てることはできない。司は玉子の力を借り、左足を立てて起き上がろうとした。しかし、右足が引き摺られて、再び強い痛みが奔った。


「――痛い痛い痛い痛い!」


玉子は司の二の腕を離した。司の胸は、未だ地面に接したままであった。ほんの少しも起き上がれなかったのだ。腕ばかりか、右肩や胴にも打撲で強い痛みが奔っている。


「――どうすれば。」


玉子の乾いた声がする。


自分の右脚がどうなっているのか、当然ながら分からなかった。


どこからか、何かを煽動する声が聞こえていた。


「――モ隊諸君――いに――べき――したのだ! しかし――」


こんなときに一体なにを言っているのであろう。一体、何に怒って、何と戦って、あんな声を出しているのであろうか。


司の右側に、再び何者かがしゃがみ込んだ。


「――二人で運びましょ。とにかく、早く逃げなきゃ。」


こちらもまた聞き慣れた声であった。しかし右肩から倒れている体勢では、顔を上げて彼女の顔を見ることはできない。


そして彼女は、司の左の二の腕に腕を回してきた。


「貴女はそっち側の腕を持って。――早く!」


玉子もまた司の二の腕に腕を回す。二人に抱えられるようにして司は再び身を起こす。肩と右腕の両方から再び痛みが奔った。


「――痛たたた。」


「ゆっくり起き上げましょ。――ゆっくり。司は自分で起き上がろうとしなくてなくていいから。私たち二人で持ち上げるから。」


彼女の声に従い、司は力を抜く。このまま痛みを訴えているばかりでは、起き上がられるものも起き上がられない。二人に肩を抱えられ、司はゆっくりと地面から離れた。左脚を引き摺らせる形で、右脚を少しだけ浮かせた。


「――とにかく、ここは危険だから、どっか逃げなきゃ。」


彼女の言葉に、はいと玉子はうなづく。


司を抱えながら、二人はデモ隊の後方へと逃げ始める。


司は顔を上げ、左肩を抱えている人物の顔を見た。


韓紅の髪に、肌理きめの細かくて白い肌――。


「――熾子。」


なぜ熾子がこんな処にいるのか、当然ながら分からなかった。


現場はますます混乱の様相を極めていた。あちこちで爆発が起こり、火の手が上がり、張りぼての象が勢いよく燃え始めた。そのたびに人々は別々の方向へ逃げようとする。路上には幾人もの負傷者が倒れ、うめき声を上げている。


しかし、人込みは先ほどより動きやすいものとなっていた。三人は車道から歩道へと出た。とにかく安全な場所に逃げなければならない。


クラクションの鳴る音がして、司たちの十数メートルほど前方に一台のワゴン車が突っ込んできた。何人かを跳ね飛ばし、停車する。さほど速度はなかったため大事にはならなかったが、ワゴン車を避けるべく人々が一斉に動き、周囲は再び鮨詰めとなった。


昂奮状態に陥った人々は、寄ってたかってワゴン車を殴ったり蹴ったりし始めた。


「朝鮮人だ! こいつ朝鮮人だ!」


「こいつらが爆弾投げつけてきたんだ!」


「殺せ殺せええっ!」


ワゴン車の扉が開き、ヘルメットを被り、口元にタオルを巻いた人々が出てきた。彼らが左翼であることは一目で判った。


周りにいるデモ隊を、左翼たちは鉄パイプで殴り始めた。


デモ隊たちも負けずと左翼たちに掴みかかる。


それを止めようとして、今度は機動隊員たちが、左翼もデモ隊も見境なく警棒や盾などで殴り始める。左翼とデモ隊もこれに反撃した。なかには両方から袋叩きにされている機動隊員もいる。


「権力の犬め! なぜワシらの邪魔をするんじゃ!」


「もっと喧嘩させろよ!」


どこからともなく現れたモヒカン男が、周囲の人々を見境なく投げ飛ばし始めた。


「ヒャッハー! レィシストォォォォォ! デストロイ!」


前方は人込みと騒乱で埋め尽くされていた。それは後方もまた同じであった。あちこちで機動隊とデモ隊が殴り合いをしている。


「とりあえず、あそこに避難しましょうか。」


玉子が視線で示した先には、一件の本屋があった。


「このまんまじゃ、逃げられそうにない。」


熾子はうなづき、司を抱えたまま玉子と共に人込みを掻き分け、本屋へ向かって進んでいった。

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