Ⅶ 玉子!

不愉快感と焦燥が司の心を苛んでいた。


玉子の家から駆けてきて、靖国通り附近でデモ隊に追いついた。彼らがどのあたりを行進しているのかは、呟器を通じて簡単に知ることができた。最後尾からデモ隊に交わり、玉子を探し始めた。


デモの参加者は千人――司が所属する高校の生徒よりも数百人ほど多い程度か。そこから玉子を探し出すのは容易ではない。しかし、絶対にできないというわけではない。


もちろん、本当に玉子がいるのであればの話であったが。


デモの参加者の顔を確認しながら前へと進む。特に若そうな女性の姿を探してゆく。このような場所には、できれば長居はしたくない。


都会の中に突如として現れた蝋燭の群れは、いつか見た化野あだしの念仏寺の画像を思い起こさせた。蝋燭の明かりが死者達の霊魂を表現していたように、デモ隊の灯火ともしびは彼らの憎悪の数を表現していた。


秋葉原を行進しているとき、突如としてデモ隊の動きが停まった。


前方が騒がしくなり、そして不愉快な声が聞こえてきた。


「ドネ――でクソネ――のみ――さあん! こお――にち――。こちらは――世界へい――てき、日本の――である恥ずかしーぃは――しい――止めるための――団体です!」


猫の嬌声のような、妙に甘ったるく甲高い響きを持った声であった。


一体なにが起きているのであろう。


玉子を探しながら人込みの中を掻き分けて進んでゆく。


デモ隊は動きを滞らせていたが、決して止まっていたわけではない。だが、それはデモの参加者たちが前のほうへ詰め寄せているためであった。第一車輌通行帯を大人しく行進していたはずの彼らは、やがて歩道にも溢れ出はじめた。後ろから人が押し寄せ、司は次第に身動きが取り辛くなるのを感じた。


やがて、その不愉快な声が明瞭に聞き取れるようになった。


「ああああーあ、恥ずかしぃーい、恥ずかしぃーい。どネトウヨでクソネトウヨのチェリィーボォーイ君たちがァー、ヘィトなんかして恥ずかしぃーい恥ずかしぃーい。ポルノ漫画に囲まれてェくらーい青春を送ったァーれいしすとのクズどもがァー、鬱憤晴らしで愛国オナニーだなんてェー、恥ずかしくて見ていられませんワァー。」


襟足がぞわりと粟立つような感覚があった。


デモ隊は昂奮し、口々に罵声を放っている。


「さっさと退きやがれ朝鮮野郎!」


「反日極左ぁーっ! ルンペン極左ぁーっ!」


「お前ら許可取ってねえだろぉーっ!」


本当は今すぐにでもこの場から離れたかった。しかし、まだ玉子を見つけられていない。何よりも、後ろから押しよせてくる人込みのせいで自然に前へと進まざるを得ない。


やがてデモ隊の先頭が見えた。


街宣車を中心として黒い頭がひしめいていた。その向こうは機動隊員たちが固めており、さらにその向こうには虹色の旗が見えた。不愉快な声はそこから聞こえてきている。


デモ隊は機動隊と衝突し、罵声を投げ掛け、透明な盾を殴りつけたり体当たりしたりしている。街宣車の上には小太りの男が立ち、虹色の旗に向けて罵声を浴びせ続けている。


「このクソチ■■コども! てめーら誰の許可取ってそこでデモしてんだ! ■■■■がデモするほど俺ら日本人は害■に寛容なんかじゃねえんだよ! とっと帰れや朝鮮半島に! ゴミはゴミ箱に! 朝鮮人は朝鮮半島に! 売■■の成り上がりみたいな朝鮮糞ババアと取り巻きの九センチ男! とっとと帰ってお前らその入れ歯で■■■と■■■を■■■■てろってんだよ! ■喰う民族、犬喰う民族! キムチ臭いでぇーっ!」


周囲の人だかりも、口々に同意の声を上げる。


「■■■■に日本で暮らす権利なんかねぇんだよ極左ども!」


「手前ら■■■■朝鮮人どもを■すために俺ら来てんだよ!」


「どかんとホントに■しに行くぞ! 皆■しにするぞ! 不潔で不衛生な九センチ■■■■!」


「■■■■■■な■■■■った■■■■■■■■■■■ってろ!」


大通りでこんなことを叫ぶ大人を、司は初めて見た。いや、男子と男子が喧嘩をするときにしろ、こんな言葉が使用されたところは見たことがない。衝撃という意味では、現実として目の前にある分、ネットであのデモの画像を見たとき以上であった。


そんな彼らの上には、一竿の巨大な日章旗が翻っていた。


高い竿の上に、その旗は翻っていた。横幅は両腕を拡げても収まらないほどもある。純白の中央、神体が鎮座するかのように、真紅の日輪が描かれている。自分の国、その歴史、国土、そこに住む人々を象徴した旗が、ビル風に煽られ、誇らしげに翻っている。


それなのに司は傷ついていた。


あの小さくとも温かい灯火は今ここにいくつあるのか。自分たちの行動の醜さに誰も彼もが気づいていないことは明らかであった。そんな只中にあり、自分の国の矜持ほこりが掲げられているのを司は見た。


戻ろう――強くそう思った。


前方は、ほぼ入り込む隙などないほど人が詰め寄せている。ここに玉子がいるのかどうかはもはや関係がない。これ以上この場所にいることは耐えがたかった。それに、早く帰らなければ父親に叱られてしまう。こんな処にいるだけの意味はない。


司は踵を返した。しかし、上手く身動きが取れなかった。後ろから人が詰め寄せてきて、もはや周囲はぎゅうぎゅう詰めである。


ひときわ甲高い声が聞こえてきたのは、そんなときであった。


「お前ら帰れや反日極左ァ――――――――ッ!」


聞き慣れた声であった。司は思わず振り返る。


「在日は祖国へ帰ってくださァ――――い! 正規のデモ隊の邪魔をしないでくださァ――――い! この■■■■反日極左ァ!」


数メートルほど前方に小柄な人物の姿があった。頭には厚焼き卵の飾りが載せられていた。拡声器を片手に、虹色の旗へと叫んでいる。


間違いがなかった。


司は人込みを掻き分け、彼女のほうへと進んだ。


後ろへ進むことでさえも難しかったのだ。たかだか二、三メートルの距離がとても長いもののように感じられる。それでもじりじりと近づいてゆき、彼女との距離を一、二メートルまで縮めた。


彼女はなおも叫んでいる。


「ゴミはゴミ箱に! 朝鮮人は朝鮮半島に!」


耐え切れなくなり、司は叫んだ。


「玉子!」


しかし、彼女は気づいていないようであった。


「クソ在日の極左は日本人の邪魔すんなァ――――ッ!」


司はさらに身を乗り出し、大声で叫んだ。


「玉子!」


その一言で、彼女は振り返った。


夜だというのにサングラスをかけ、口元にはマスクをしている。黒いレンズの向こうに、どんな目があるのかは分からなかった。


彼女は幾度か狼狽したような様子を見せたあと、すぐに目を逸らし、前方へと逃げ出した。


「玉子!」


司は再び叫び、彼女の後を追おうとする。


物の裂けるような音が聞こえてきたのは、その直後であった。

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