第四章 日韓断交デモ襲撃事件
Ⅰ そりゃ、君、あれじゃないかな――
熾子との連絡が絶えて一週間が経った。
ゴールデンウィークも最終日となっていた。日は既に傾きかけている。窓の外には、灰色にくすんだ蒼い空が拡がっていた。
司はベッドに横たわり、ぼんやりとスマートフォンを眺めていた。ココアトークの対話ルームには、先週自分が送ったメッセージのみが表示されている。その返信は今になっても来ていない。
スマートフォンを手に取るたびに憂鬱に駆られる。呟器を覗いてみても、どういうわけか熾子のつぶやきは全て途絶えていた。
熾子との関係はもはや終わってしまったのであろうか。
いずれ会うときを待ち望みながら、一年間もネット上で交流を続けてきたのだ。それが、こんなにもぎくしゃくとした気持ちを抱えたまま、無視されたまま別れるのは耐えがたかった。
ゴールデンウィーク中、司はどこにも遊びに出ることはなかった。
代美は祖父母の家に帰省したというし、玉子は家族と旅行に出ているという。しかし、司に家族は父親しかいない。その上、ゴールデンウィークのような長期休暇に最も忙しくなる。司をどこかに遊びに連れて行けるだけの余裕などない。図書館から本を借りてきた以外、司はずっと家に篭って過ごしていたのである。
ココアトークを閉じ、スマートフォンをポケットに仕舞う。
しばらくは、ぼんやりとただ窓の外を眺めていた。
やがてあることを思いつき、ベッドから起き上がった。
部屋から出て一階へと降りる。
父は仕事中であり、家には仕事場を除いて人の気這いがない。居間は薄暗く、司の孤独を象徴するように静かであった。
パソコンの電源を入れ、インターネットへと接続する。
司は自分のパソコンを持っていない。スマートフォンだけで不便なことをする場合は、いつもこのパソコンを使っている。
韓国にもヤフー知恵袋のような質問投稿サイトがあると聞いたことがあった。ただし、何という名前のサイトなのかは知らない。ゆえに、まずは「韓国」「質問サイト」というキーワードで検索をかける。
それらしきサイトは複数みつかった。
そのなかでも、最も人気がありそうなサイトへアクセスしてみる。当然、全て韓国語で書かれていた。機械翻訳に頼りながら利用規約を読み、そしてユーザー登録を行った。
続いて別の
相手が書いた文章を機械翻訳にかけるのであれば、多少読みづらくとも問題はない。しかし、今回は韓国人を相手に韓国語で質問をするのだ。機械翻訳した文章をそのまま貼り付けるわけにはいかない。
なので、再翻訳をしても日本語として違和感がない文章となるまで何度も推敲した。違和感のある部分は、原文の表現を変えたり、韓国語の辞書を引いたりして直した。
質問の題名は『韓国人は政治的に意見の一致しない友人とどう付き合いますか?』である。日本語の本文を記すと次のようになる。
「韓国語をほとんど理解できない日本人です。機械翻訳を通じて文章を作っています。至らないところがあったら申し訳ありません。
仲の良い友人でも、政治的に意見が一致しないことはあると思います。例えば、イルペの会員とロリウェブの会員でも、現実社会では趣味が一致して友人となることがあるのではないかと思います。そういう場合、雑談などで政治的な話となったらどうなるのでしょうか?
日本では、お互いを尊重します。友人としての交際と、政治上の意見は別のものと考えるからです。友人同士、政治的見解が違っても意見を交し合うことがあります。けれども、韓国人の場合はどうなのでしょうか? 私は、こんなことは言うべきではなかったのでしょうか?」
文中に出てくる「ロリウェブ」とは、韓国のアニメファンが集まるサイトである。その名のとおりロリコンが多いと噂されている。政治的傾向は左派であり、右派であるイルペとは犬猿の仲にある。
一時間ほどかけて文章を完成させ、サイトに投稿した。
返信が来るまで、動画サイトで暇つぶしをすることとした。Tilacis の作品や、あるいはその韓国語版などを数珠つなぎに聴いた。韓国語の歌声は、今はどこか遠い国の民族楽器の音色のようであった。
日は傾きかけている。窓の外から射し込む光が次第に薄くなってゆく。居間の中が暗くなり、パソコンの画面が明るく見え始めた。
しばらくして、質問サイトを確認してみた。すると、回答は思いのほか多数来ていた。司はそれらを機械翻訳に放り込んでいった。
その日本語訳を記すと、次のようになる。
「韓国では、現実では政治的な話はしません。ましてや友人なら。――」
「韓国では、政治・宗教などの話は、できるなら自制します。政治の話をしていて意見が対立する場合、議論が白熱して、口論のせいで対人関係が悪化することがあるからです。」
「普通はしません。政治と宗教の話題が韓国ではタヴーだからです。例えば、人工知能が存在する時代に宗教だなんて、なんてことを言ってしまえば、宗教を信じる人と敵になってしまうことは予測できます。政治と宗教の話をしてしまえば、短い時間で百人以上の敵を作ってしまいます。もし言いたいのであれば、相手が肯定してくれる場合に限ります。」
「友人になることは可能でしょう。しかし、そのような話はしません。政治的性向とは先天的なものです。左派に生まれたら左派、右派に生まれたら右派で、変わることはありません。政治的に性向が違うことを知って友人になるよりも、元から友人だった人が、自分とは政治的性向が違うことをあとになって知ることが多いものです。」
三番目のコメントが特に気にかかったので、司は返信をする。
「政治的な話をすると、お互いに傷つけてしまったり、喧嘩になったりすることがあるからですか? 日本では、政治上の論敵であっても友人になることがありますが。――」
すると、さらにしばらくして返信が届いた。
「激しい喧嘩になることもあるからだと思います。日本のように思想的に統一されておらず、最初から最後まで政治的に思想が異なれば、尊重することができるでしょうか?」
何度かその文章を読み返した。
――どういうことだろう。
「思想的に統一されておらず」という言葉が特に気にかかった。多種多様な意見があるという点では、日本も韓国も変わりはないはずだ。
しかし、心当たりがないわけでもない。
自分の考えに自信を持つことができなかった。できれば、誰かと話してみたい。ここ五日間ほど友人の誰とも会っていない寂しさが、それに拍車をかけた。司はスマートフォンを取り出し、二、三度ほど踌躇してから、思い切って代美に電話をかけた。
呼び出し音が何度か鳴って、代美が出た。
「もしもし?」
久しぶりに友人の声を聞けて、司は内心ほっとする。
「あ、代美――今、いい?」
「うん、どうかしたかい?」
実は――と言い、先ほど投稿した質問について説明する。説明しているあいだ、代美は熱心に耳を傾けてくれていた。
「それで――思想が統一されておらず、ってどういう意味なんだろうなって思って。いや――心当たりがないこともないんだけど。」
うーんと、代美は難しそうな声を出した。
「そりゃ、君、あれじゃないかな――韓国じゃあ、様々な意見が激しくぶつかり合ってるっていうことじゃないかな?」
心の中にこびり付いていたものが一つ剥がれたような気がした。
「やっぱり――そう思う?」
「だってさあ――日本人は自己主張が弱いとか、自分の意見をはっきり言わないとか、よく言われてるじゃん。まあ、韓国のことはよく分からんけど――少なくとも日本人よりかはできるってことだろ。」
「そうだよね。」
「それでも、日本大使館前でのデモの映像とか見ると、やっぱスゲエなって思うよ。とにかく日本を憎んでるってことが痛いほど伝わってくるから。けれども――それって日本に対してだけなのかな?」
ふと、かつて熾子が口にした言葉を思い出した。
――人間、そもそも自分と意見の違うグループに属する人間とは仲良くなれないもんですから。
韓国で起きた様々な事件の記憶が蘇った。何年か前の客船沈没事故のこと、前大統領への退任要求デモのこと、それに関連する大騒動の映像が次々と頭の中に浮かんできた。
「日本だけじゃないかも。韓国は政治的な対立が激しいって私も思うし。男女でも、なんか色々と対立があるみたいで。――」
韓国の男女対立について知ったときも、司は理解に苦しんだ。
男性が女性をキムチ女と呼んで
――なぜそこまでしなければならないのか。
さっぱり分からなかった。
「まあ――そりゃ日本にも色々な対立はあると思うよ。けれど、日本人と韓国人って、やっぱり民族が違うわけじゃん。言葉や文化が違うだけじゃなくって、お互いの価値観や常識も違うわけで。じゃあ」
対立したときの対応も違うんじゃないかなと代美は言った。
「日本のほうは、もうちょっと穏健に済まされてる感じじゃないかな。空気を読んで決めてるっていうか。それを外側から見れば、思想が統一されてるように見えるってこともあると思う。」
「そうだね。」
――ならば。
やはり、司はあのとき何も言うべきではなかったのだ。
日本人と韓国人のあいだでは、意見など統一されていないのだから。司と熾子のあいだには、日本と韓国のあいだに長らく横たわっていたものと等しい、最初から最後まで異なる政治的思想があったのだ。
「玉子は――それ、分かってやったんだと思う?」
軽く溜め息を吐く音がした。
「そうだと思うよ。そもそも、熾子さんにレポートがないだなんて、何でわざわざ映画を観ている最中に、啓史大学の知り合いに訊いたんだい?」
「それは――」
喧嘩を売る理由を探したかったからなのか。
「ましてや、会ってから時間も経ってない相手を遊びに誘うなんて、あんまあの子らしくない。それに、たまたま熾子さんが興味を持ちそうな映画を知ってたとか、たまたま熾子さんと同じ大学の学部の知り合いがいたとか――それって偶然なんだろうな?」
司は首をかしげる。
「どういうこと?」
「いや、最初から仕組んでやったんじゃないかなって思って。」
再び静かになった。薄暗い居間の中で、司はスマートフォンを耳に当てて独りで立っていた――そんな自分の姿を急に客観視したのだ。
「実は、言うべきかどうかちょっと迷ったことがあるんだけど。」
ややあって、再び代美の言葉が聞こえてきた。
「何日か前にさ、母さんが言ったんだよ。今年は、寿さんや敦巻さんとは遊びに出掛けないのね、って。予定が合わないから仕方ないよ、って答えたら、まだ仲良くならないのって訊かれたんだ。」
受話器の向こうから、なぜか言い知れぬ違和感がやってきた。
「――それって?」
「さあ――。けど、変だと思ったんだよ。熾子さんとのあいだに悶着があったことは、それまで家族には誰にも話してなかったのに。」
窓の外から、近所の子供たちがはしゃぐ声がする。
「だから、僕はそのことを説明したうえで訊いたんだよ――僕が司や玉子と仲良くないだなんて、誰から聞いたの、って。」
「うん。」
「そしたら――二週間前ほど前に玉子から電話があったんだって。代美さんは三日から六日まで帰省するそうですけど、本当ですかって。」
しかも。
平日の昼に――と代美は言った。
「もちろん母さんは、そうですけどって答えたらしいけど、不審に思って、何でそんなこと訊くんですかって尋ねたんだ。そしたら、今は代美さんと微妙な雰囲気になっていて、ちょっと疑心暗鬼になっているからですって。だから、自分が電話したことは代美さんには内緒にしてください――ってさ。」
司はますます混乱してきた。代美の言葉を整理して考えることは、絡まった紐を解きほぐすことと似ていた。
「どうして――そんな電話を?」
「僕の予定を知りたかったかもしれない。というより、そうだろう。」
厭な予感がする。胸の中に熱が溜まってきている。
「けど、玉子は代美の予定を知ってたんじゃないの? 電話をかけたときも、代美がいつからいつまで帰省するか言ってたわけじゃん。」
「いんや――帰省するなんて僕は君らに言ったことなかったが? 少なくとも、熾子さんと会った日より前には。玉子も、あのとき始めて僕の予定を知ったかのような顔してただろ?」
「じゃあ、何で――」
「当てずっぽうだったとしたら? 去年のゴールデンウィークも、僕は大体それくらい帰省してただろ? だから――ある程度の目算はついていたのかもしれない。けど、本当に帰省するかどうかは分からないし、正確な日程も分からない。」
司はしばし二の句が継げなかった。
「何で? 予定を知りたかったなら、代美に直截訊けばいいじゃん。」
「いや、考えてもみたまえ。玉子は明らかに喧嘩を売る目的で熾子さんを映画に誘ったんじゃないか。けれども、そうなると邪魔になるのは僕だ――何しろ、やばくなりそうになったときは止めるから。」
司の中で噛み合わなかった何かが、音を立てて噛み合った。
「代美を除外したかったって言いたいの?」
「そうそう。だから事前に予定を調べて、僕が行けそうな日に自分の予定を設定したか、そうでなきゃ、出鱈目な予定を言って行けないということにした――そうは考えられないか?」
窓から射し込む光が薄紅を帯びてきている。
映画が公開されるのは日曜日であり、代美は隔週の日曜日にバイトのシフトが入っている。代美の予定を知っているよりも、知らなかった風を装えば、自然に喧嘩に発展したと装える。
「嘘だっていうの? 玉子の予定が。」
一瞬、代美が息を吸い込む音が聞こえた。
「いや、まさかとは思ったよ。けど、確認はもうとってある。」
「え?」
「帰省してる最中、玉子の家に電話をかけたんだよ。玉子のお母さんが出てきたから、玉子さんは五日から七日まで家族旅行だそうですが、本当ですかって訊いてみた。そしたら、家族旅行なんかありませんよって言ってた。電話をかけた理由について質問されたから、玉子と全く同じ理由を答えておいた。」
子供たちの戯れる声と、ぽんぽんとボールを突く音が聞こえる。
「まあ――もし電話に出たのが玉子だったら、一発だったけど。」
胸に熱いものが昇ってきた――不愉快な、痛みにも似た熱が。
代美の言葉は半ば信じがたいものであった。
そうであっても――嘘をついているとは思えない。
嘘をついていたのは玉子なのであろう。代美ならば、どこかで玉子の言葉を止めていたのだから。そして、自分にはそれができなかった。
「あの子は用意周到すぎるんだよ。こんな、どこからばれるかも分からないことまでやって。それで、何をしたかったかは分からんが。」
「――そう。」
しかし、司には玉子の意図が分かっていた。玉子は――熾子の怒りに火が点くことと、司が玉子に同調することを狙ったのだ。
「私――ちょっと玉子に電話かけてみる。」
震える声でそう言うと、妙に優し気な声が返ってきた。
「うん、それがいいね。ちゃんと話し合って。」
「ありがとう。ごめんね、急に電話かけちゃって。」
「いや、いいんだよ。」
「うん。じゃあ――」
またね――と言って司は電話を切った。
司は再び居間に独りとなった。いや、それまでも独りだったことには変わりがない――それでも、独りだとは思えなかったのだ。
スマートフォンの電話帳を開き、玉子へと電話をかける。出てくれるのかどうかは分からない。ましてや、自分と話してくれるのかどうかも分からない。それでも話してみたかった。
呼び出し音が鳴っているあいだ、司の胸は高鳴っていた。何も食べていないはずなのに、酷い胸焼けがする。
しばらくして、幸いと言うべきか玉子が出た。
もしもし――と不機嫌な声で玉子は問うた。司の鼓動が一つ鳴る。
「あ――玉子、今どこ?」
「今? 電車の中。」
しかし受話器からは、玉子の声以外は聞こえてきていない。線路の上で車輪が立てる音や、乗客たちの声もしない。
「――ちょっとあとでかけてもらえる?」
「本当は家にいるんじゃないの?」
少しのあいだ、玉子は何も答えなかった。
「ごめん、あとでかけて。今、電車の中だから。」
「ゴールデンウィークはどこにも行ってないんでしょ?」
再び音がなくなり、そして通話の途切れる音がした。
司は何度もスマートフォンの画面を見返した。玉子からここまで冷淡な態度を採られたことは、今まで一度もなかった。画面では、銀の梢にたわわの桜が、珠のような雫を滴らせている。
再び鼓動が鳴った。
玉子はいま東京にいる。代美が言っていたことは本当だったのだ。その事実を突きつけられて、どういうわけか通話を一方的に切った。
司は、もどかしくて、いてもたってもいられなくなった。
二階へと駆け上がり、自分の部屋へ這入った。バッグを一つ掴み、再び一階へと降りてゆく。そして、玄関で靴を履いて家から飛び出た。道路で楽しそうに遊ぶ子供や、主婦達を横目に、玉子の家へ向けて一目散に駆けていった。
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