Ⅱ そろそろ出撃の時間だな。

夕暮れにも匂いはあるのであろうか。


アジトの縁側で煙草を吹かしながら、猟人はそんなことを考える。


夕暮れは独特な匂いがしているような気がする。単純に、家々から漂ってくる夕食の匂いではない。雨上がりに土の匂いがするように、何かしらの自然の匂いが感じられる気がするのだ。最近は、夕暮れを目の当たりにするたびにそんなことを考える。


人生の黄昏に当たって、このような感覚によく襲われるのはなぜか。


猟人の人生は今まさに斜陽が射していた。老衰は身体にばかりではなく、優秀であったはずの脳にも及んでいる。何よりも、自分と自分の考えが時代の流れから取り残されてゆくのを感じる。


戦争と貧困のない世界を創ろうと考えてきた。負傷兵や孤児や餓死者などが充ち溢れ、猟人自身も食糧の確保に奔走した壮絶な貧困の時代がそう決意させたのだ。


しかし、自分の考えとは何の関係もない理論によって、世の中は豊かになっていった。紅軍が世間から忘れられていったのは、世間が紅軍を――ひいては猟人自身を――必要としなくなったからだ。自分の考えが間違っていたかどうかは別として、少なくとも必要とされていないことは事実なのである。


それならば、やはり自分の人生の意味は何なのであろうか。


ゲヴァルトを行い、真麻山まで逃げたあとはどうなるのか。


真麻山の山岳ベースで老衰と死を待つ自分の姿は、想像するだけでも耐え難いものがあった。これでは姥捨て山に捨てられた老人と何も変わりがない。むしろ斗いの最中に全滅してしまったほうが、後の人々は自分のことを覚えるのではないか。


これは、意味のない人生に意味を持たせるための斗いなのだ。


猟人は煙草を灰皿に押し付けた。


空の色はより濃さを増していった。縁側から立ち上がり、居間へと這入ってゆく。居間には八名の革命戦士たちが屯しており、煙草を吸ったり他の過激派の機関誌を読んだりしている。猟人と行動を共にする部隊、『さそり』のメンバーである。柱時計に目を遣ると、既に十七時五十五分であった。出撃の五分前である。


「そろそろ出撃の時間だな。」


革命戦士たちの視線が一斉に猟人に集まった。


「東同志、準備はもうできておろうな?」


「もちろんだ。ヘルメットもゲヴァ棒も、爆弾も火焔瓶も、鉄砲もバズーカ砲も、石礫いしつぶても、必要なもんはみんなワゴン車に積み込んだだ。あどは『蠍』のみんなが乗り込むだけだ。いつでも出撃できるだよ。」


「『白鳥くぐい』『わし』『射手いて』のほうは?」


「さっぎ、連絡とっただ。みんな、完璧にでぎでるって言ってただ。」


「うむ。よかろう。」


ゲヴァルトを行う四つの部隊には、それぞれ『蠍』『射手』『白鳥くぐい』『鷲』のコードネームが宛がわれていた。一つの部隊に動員されるメンバーは九人。猟人の属する部隊が『蠍』である。『蠍』および『射手』はデモ隊を横から攻撃する役割を、『鷲』および『白鳥』は『レイシズムに反対する市民の会』に偽装し、デモ隊を喰い止める役割を担っている。


アジトは、ワゴン車を四台も収容できるほど広くない。ゆえに『蠍』が乗車する一台のほかは、革命戦士の家などに停められていた。蹶起のときは、ワゴン車の停められている地点にそれぞれの部隊のメンバーが集まり、時間を決めて迎撃地点に集結する予定であった。現在このアジトには『蠍』に所属する九人しかいない。


しかしこれだけの準備をしておきながら、猟人はふと疑問に思うときがあるのだ――はたして、公安は本当に自分たちのことを監視しているのであろうか、と。


もやもやとした気分を振り払うかのように、猟人は言う。


「ガスの元栓は閉めたか?」


「閉めただ。」


「全ての戸締りは終わったか?」


「全部終わっただ。」


「電気はみんな切ったな?」


「切っただ。」


「忘れ物はないな、みんな?」


ありません――とほぼ全員が異口同音に答える。


「よろしい。」


猟人は深くうなづいた。


「ここ半世紀間、本当に色々なことがあったな。」


同志たちの目に、不安の色が浮かんだ。


「まるで走馬灯が流れているようだ。紅軍を結成したときのこと、山荘に立て篭もったときのこと、飛行機をハイジャックしたときのこと――それらは昨日のように思い出せるのに、時は目まぐるしく過ぎていった。大衆は偽りの繁栄と奴隷の平和とに飼いならされ、我々のことを忘れていってしまった。しかし、その繁栄と平和の中に、はたして大衆が望む本当の幸福はあるのだろうか。光り輝く高楼が都会には建ち竝び、その中には富が蓄えられているが、それらに全く触れられないまま、大部分の人民は生活をしておる。」


革命戦士たちは息を呑む。猟人はなおも続ける。


「もはや、我々には若い頃の体力は残されていない。だが、この斗いが、やがて来るべき世界革命戦争の嚆矢こうしとなることに間違いはない。どうか、儂と最後まで斗い抜いてほしい。むしろ、この戦場を自分の死に場所と考え、反動権力の犬どもとルンプロどもに肉薄し、一人でも多くの敵を撃滅しようではないか!」


「異議なし!」


「異議なし!」


「異議なす!」


全員の言葉が、ほぼ同時に揃った。革命戦士たちの瞳を猟人はざっと見渡す。そして、語り掛けるように歌いだした。


「起ァーてェー、飢えと寒さぁーをー、強いィーられし者よォー。」


革命戦士たちは怪訝な表情を猟人に向けた。


「セーイーギのほむらはァー今、こそモーエあーがるー。」


しかしながら、その歌詞は非常に懐かしい響きを持って、革命戦士たちの記憶を揺さぶり動かした。やがて、彼らの口から、全く同じ歌詞が零れ始めた。歌声は重なり、部屋の外にまで大きく響いた。何十年か前まで、暴力斗争を行う前には必ず歌っていた歌である。


  抑圧の社会倒せ 起てよ奴隷たち

  我らに敵う者は 今やなかりけり


斗いの前の士気を燃え上がらせるように、彼らは歌う。


世界でもっとも有名な革命の歌――。


『インターナショナル』を。


  この最後となる 斗いのあとは

  インターナショナルが 人類を繋ごう


  この最後となる 斗いのあとは

  インターナショナルが 人類を繋ごう


  インターナショナルが 人類を繋ごう


(作者註:『インターナショナル』はフランスで誕生した革命歌であり、日本においては佐々木孝丸により作詞されたものが広く歌われている。しかし、著作権の有効期限が切れていなかったので、原文を参考にしつつ作者が独自に作成した歌詞をここに載せる。)

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