Ⅵ 多分、俺だけじゃないんだろうな。

金槌で脳天を叩かれたかのような頭痛に念仁は苛まれていた。


気分は最悪と言ってよかった。


目が覚めたのは、腹の中に泥でも詰まったかのような吐き気を感じたからだ。それから何度もトイレへと駆けこみ、嘔吐を繰り返した。胃液によって喉がひんやりと痛くなった。喉が渇いて何度も水道水を呑み込んだが、腹が満たされると再び吐き気が襲ってきていた。


先日、いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。どうやら、杯を交わしているうちに酔い潰れてしまったらしい。目を覚ましたのは、やはり誠の部屋であった。しばらくして誠もまた目を覚まし、蒼い顔をしてトイレへと駆けこんでいった。激しい頭痛と倦怠感・吐き気を覚えているという点では、二人は全く同じであった。部屋に充ちる酒の臭いは、腐った花の香りに似ていた。


失敗した――と思った。『국뽕グッポン』は酒精アルコール度数の高い粗悪酒であり、呑みすぎると悪酔いしやすいのだ。


誠は今、ベッドの傍らに横たわって、蒼い顔をし、ううっとかおおっとか唸り声を上げている。


しかし、さすがは活動熱心というべきか――あるいはネット依存症というべきか――そんな状態であってもスマートフォンから熱心に何事かを書き込んでいた。千人も集まるデモを明日に控えているのだ。恐らくはその準備に追われているのであろう。


「なあ――何か、酔い止めとか買ってきたほーがいいかな?」


そう言ったのは、活動に追われる誠をおもいはかってのことであった。そもそも、自分の買ってきた土産でこんな惨状になったのであるから。


誠はその蒼い顔を上げ、買ってきてくれるのかと問うた。


「ああ。たから、そー言ってる。」


「おお。そうか。すまねえな。――じゃあ、マンションから出て向かい側にコンビニがあるから、そこで液キャベっていうドリンク買ってきてくれねえか? それと、何でもいいからスポーツドリンクと、できたらインスタントの梅茶漬けを。」


「ええっと、スポーツドリンクと、何だって?」


「液キャベと、インスタントの梅茶漬けだよ。」


割れるような頭で注文を記憶し、念仁はマンションから出た。


空はどんよりと曇っていた。まだ午前中であるというのに、日差しは暗い。一方、風はほんのりと温かかった。先日と同じ服を着ているため、仄かな湿気が汗の臭いとともに身体にまとわりついている。念仁は日本に来て、今年で初めての夏を感じたような気がした。


コンビニに這入り、注文の品を買う。酔い止め薬は念仁の分も含めて二つ買った。


マンションへ戻り、誠の部屋へ帰る。酔い止め薬を渡すと、誠はスマートフォンから手を離し、その小瓶を一気に呷った。念仁もまた真似をして呑んだが、独特のえぐみのある薬品臭さにづきそうになる。しかし、呑み終えて少し経ったあとは、心なしか腹の中の不快感が軽くなったような気がした。


「すまなかたな――俺が買ってきたお土産でーこんなことになって。」


「気にする必要なんかねえよ。」


ベッドに持たれつつ、誠はふぅーっと息を吐く。


「呑みすぎちまったのは、どうせ俺も同じだし。いつもは呑みすぎないように自制してるはずなんだけどよ。それなのに、おかしいな。俺、普段は酒に強いほうじゃないんだけどな。」


誠はおもむろに煙草を取り出し、火を点けた。ネットでの活動は休憩に入ったらしい。それを目にし、念仁もまた煙草を取り出し、火を点ける。煙を吐きながら、念仁は言う。


「辛いのに、熱心に活動してんだな。」


誠は首をかしげ、ううん、とうなった。


「いや――さっきからー、何か熱心に書き込んてるじゃねえか。」


「ああ、そうか――。いや、俺がさっきから書き込んでたのは、左翼パヨクのアカが呟器で噛み付いてきたからだよ。最初は、確かに広報活動のために書き込んでたんだがな。」


念仁は少し失望を抱いた。


「はあ――。何だ、そーいうことだったのか。」


「まあ、何も悪いことじゃない。どうせ相手も中身は在日だろうから。連中はそうやって常にネット工作を行ってるんだ。けれども、そうやって噛み付いてきては論破されてるわけだから、在日の本性がますます日本人に拡まるばかりだけどな。」


念仁は首をかしげざるを得なかった。


「お前ー、昨日からやたらと在日と戦ってることを話しているけどー、それって本当に在日なのか? ただのパヨクっていうだけであって、日本人とゆー可能性もあるんじゃねの?」


誠は急に真面目な表情となる。


「ふむ――。まあ、確かに日本人のパヨクである可能性もあることにはある。そうであったとしても感覚が日本人じゃないな。俺のことネトウヨ呼ばわりして火病ってるわけだから。」


「へえ、日本人って素晴らしい存在だったんだな。反日教育のせいで知らなかった。」


しかし――要するに、誠は「在日」という言葉を「非国民」という意味で使用しているのであろう。少なくとも、念仁はそう理解することとした。そうでないのならば、もはや「미친놈ミチンノム」の領域である。


「それじゃさ、在日と左翼どっちが嫌いか言われたら、とう答える?」


念仁の問いに、誠は深刻そうな顔となる。


「難しい問題ではあるな。けれども、最初に嫌いになったのは間違いなく左翼だ。」


そして、おもむろに起ち上がり、本棚へと歩み寄った。端から一冊の本を取り出し、テーブルの上に開く。アルバムであるらしく、ページの一面には写真が貼り付けてある。その全てに、九、十歳ほどの男児が写っていた。


念仁でさえも見とれるほどの美少年であった。目には草食動物のような優しさが灯り、鼻筋と口元は気高い気品が感じられる。おかっぱ頭といい、サスペンダーと半ズボンの装いといい、ちょうど西洋のおとぎ話に出てくる王子のようだ。


「誰だこれ? 日本の皇族とかか?」


「俺だよ。」


何を言われたのか、一瞬わけが分からなくなった。何度も誠と写真とを見比べた。


「え、ギャグ?」


「失礼なやつだな。確かに随分と変わったが、微妙に面影あるだろ。」


念仁は、再び写真の中の美少年と目の前の誠とを見比べる。口元と鼻は分厚い脂肪によって原形を留めていない。しかし、そのレンズの向こうにある目は、写真の中の美少年と同じように、確かに草食動物の優しさを灯していた。


「写真が指し示すように、小学五年生のころまでは、俺は純粋な心を持つ少年だった。野生の草花を愛で、この世に生きる全てのものを慈しんだ。夕暮れを舞う鷹の勇姿にも涙をこぼした。大人が持つ汚らわしさなどは、まるで路傍の石のように無関係だった――むしろ、やがて自分を迎えるであろう大人の世界は、希望の光に充ち溢れた冒険の世界であるように思えた。少なくとも――小学五年生になるまではな。」


言いつつ、誠はぱらぱらとページを捲る。どのページにも、喜怒哀楽に溢れる美少年の姿が華やいでいる。


しかしあるページから別人が写った。おかっぱ頭といい、蝶ネクタイにサスペンダーの姿といい、その直前のページと変わりはない。ただし全体的に贅肉がついていたし、就中なかんずく喜怒哀楽のいかなる表情も消えている。その姿こそ、誠の子供の頃として相応しく感じられた。


「お前、何があったんだよ、この年に?」


「とんでもない左翼教師が俺の担任になったんだよ。」


誠は蒼い顔をしたまま、すんと鼻をすすった。


「小学五年生のときだったな。金本という名前の女教師だ。そいつは俺の担任になる前から異常なやつだった。国旗掲揚と国歌斉唱に反対していて、入学式や卒業式が近づくと、校門の前でプラカード立てたりビラを配ってたりしてた。式の途中、いざ国歌斉唱となったら、『やめてやめてぇーっ!』と大声で金切り声を出したこともあった。」


念仁は、その場面を想像しただけで少し不快な気分となった。


「確かにとんでもない教師だな。ってか、その教師は、よくそんなんで担任になれたな?」


「そもそも、俺の通ってた学校全体がそんな感じだったんだよ。」


誠はアルバムに目を向けたままそう言う。


「教師たちが口を酸っぱくして唱える道徳は、とにかく『戦争をするな』だった。戦争をしたらこんなに酷い目に遭うんだぞ、殺すだけではなく殺される側になるんだぞ――そんな言葉は耳に胼胝たこができるくらい聞いた。『差別をなくせ』という言葉もよく聞いたな。学習発表会で、差別をなくすための歌も歌わされた。」


誠は唇を歪ませる。


「そんななかでも、特に異常な教師が金本だったんだよ。」


誠は震える手でアルバムのページを捲る。遠足か何かなのであろう――芝生の上に、体操着を着た数十人程度の児童が写っていた。端には五十代程度の女性が写っている。


「これが金本だ。」


その初老の女性を指さし、誠は言う。


「俺はどういうわけか金本から嫌われていた。何が原因なのかは分からない。それらしい心当たりがあるとすれば――クラスの中に苛められっ子がいたことかな。クラスの誰もがそいつを苛めていたように、俺もそいつを苛めていたから。これ自体は完全に俺が悪い。実際、俺もその件で金本から怒られたし。けれども、金本が俺に対して変な態度を取り出したのは、それからだったな。忘れ物をしたり、歌を上手く歌えなかったり、あるいは問題を間違えたりすると、悪い例として俺だけなじられた。団体行動のできない、ルールの守れない人間みたいに扱われたんだ。」


語っている最中、誠の視線はずっと写真に向けられていた。


「俺は、学校に行くのが段々と憂鬱になってきた。そんな日々が何か月か続いただろうか――冬のある日のこと、例の苛められっ子の下足が隠されるという事件が起きた。学校へ来たら、下足場からなくなってたらしい。そしたら――朝学活で、金本はいきなり俺を犯人扱いしだした。みんなが見ているなかで――俺にはそいつを苛めた前科があるんだから、今回は靴を隠したんだろうと言って責めてきた。当然、冤罪だ。俺は違うと言い張ったけど、子供だったから上手く自己弁護できなかった。金本は散々に俺のことを罵った。歌も歌えなければ忘れ物も多い、簡単な問題も解けない、団体行動もできなければルールも守れない人間なのだから、靴を隠したのは絶対に俺だと言った。俺は、悔しくて涙が出てきて、何も言えなくなってしまった。」


念仁は何も言えなくなった。ただ、窓のサッシが輝くのを見ていた。


「最終的に、靴をどこに隠したのかと問い詰められたが、知らないものは知らないとしか言いようがない。すると、金本はクラスの一人一人に、俺の欠点や短所を一つずつ言わせた。金本が言うところによれば、それを直さなければ、俺は人間として成長できないんだと。俺は――徹底的に人格を否定された。俺は苦し紛れに、窓から校舎の裏側に放り投げたけれども、そのあとは知らないと嘘を吐いた。」


誠の声は、次第に小刻みに震えてきた。


「ことの真相が発覚したのは、放課後になってからだった。その苛められっ子が、靴を隠したのは自作自演だったと自白したからだ。何でも、金本に構ってほしくってやったんだそうだ。金本は笑ってそいつのことを許した。けれども、俺には謝罪もなにもなかった。むしろ、嘘の自白をしたことを責めてきた。」


念仁は暗澹たる思いに駆られる。相応の年齢にある大人が、そこまで執拗な人権侵害を子供に対して働いたということが信じられなかった。しかし、誠の言ったことは恐らく事実なのであろう。少年が負った傷は、今でもその瘢痕きずあとを浮き上がらせている。


「成長して――ネットで政治問題について触れるようになって、俺は金本が左翼だったということを知るようになった。それからだ――俺が左翼という左翼を憎むようになったのは。言葉と行動の一致しない左翼を目にするたびに、俺の頭には金本の姿が浮かんだ。戦争と差別に反対し、弱者の人権を守れと左翼は言う。けれども、連中にとっての『人権』っていうものは、要するに自分が認めた『弱者』に与える特権なんだよ。自分の意見と敵対する側には、いくらでも中傷の言葉を浴びせられるし、暴力だって震えるしな。」


誠は落ち着かない動作をしたあと、二本目の煙草に火を点ける。


何と言ったらいいものか、念仁はしばし迷った。


「いや、ほんと信じられねーよ、その金本っていう人。左翼とかゆー以前に、人間としてどーかしてるだろ。多分、そいちゅの被害に遭った子供って、お前一人だけじゃねーと思うじょ?」


「ああ、そうだな。多分、俺だけじゃないんだろうな。――」


誠は黒くまるい瞳を虚空に向けている。その視界には、恐らくは、それほど遠くない過去の景色が写っているに違いなかった。


「だから――まあ、左翼と在日のどっちが嫌いかっていう話は、左翼のほうに軍配が上がるかもしらんな。俺の望みは、世の中の左翼という左翼を根絶アウスロッテンすることだ。あれ以来、俺はこの三千世界にある左翼という左翼を怨み、呪い続けている。」


「――なるほどな。」


誠は長い帯のような煙を吐く。


「むろん、朝鮮のほうも左翼と似たり寄ったりだとは思うが。あの金本という名字も左右対称だし、在日であった可能性が高い。日本の左翼なんてものは、朝鮮の意見を代弁してるようなもんだから。まあ、日本で嫌韓が拡がりつつあることと、左翼どもが衰退しつつあることも当然だとは思うよ。」


「右派としてはー、その点においては日本が羨ましーな。」


念仁は二本目の煙草に火を点けた。


「ふむ――まあ、確かにそうか。」


誠は不愉快そうに煙草をもみ消す。


「よく考えたら、日韓関係をここまで混乱に陥れてるのは韓国の左翼だからな。韓国の左翼どもがいなくなったら、まあ日韓関係もそれなりに改善するかもな。怪々でイルペ民の翻訳記事とか見てると、そう思うときもあるよ。」


「まあ、博明ミョンバクとか槿恵グネとか、右派でも日本人から嫌われてる大統領もあるけどな。それでも、少なくとも軍事独裁時代くらいまではこじれないかも。韓国も日本も、結局は国民の思うよーに政治をするわけだから。韓日関係がここまでこじれてるのは、国民かうるさいからと言うこともできる。もし民主主義を徹底してたなら、韓国では右派に対する粛清が始まてたかもしらんし、日本は独島に攻め込んてたかもしらん。」


冗談交じりにそう言うと、誠はようやく微笑んだ。


「それは一理ある。愚民ではなく、一部の賢い連中に政治を行わせるべきなのだ。もしも朝鮮の右派がクーデターでも起こしてくれたら、俺は応援するよ。というか、俺も日本でクーデター起こしてやるから。日本と朝鮮に軍事独裁政権を樹立し、反日左翼どもを戦車で轢き■すのだ。自分たちが犯してきた罪を、やつらはその流血で償うのだ。」


「いいアイデアだね、それ。光化門クヮンフヮムン前が天安門前になるわけか。」


「そのとおりだ。どうせ、あいつら中国が大好きだろうだから。」


二人はほぼ同時に、ふふふと笑いあった。


誠は調子づいたように続ける。


「俺も、何が何でも朝鮮と国交を断絶したいというわけじゃない。現在の日韓関係を鑑みるに、やむにやまれぬ理由から国交断絶を主張しているだけだ。しかしそうでないのならば、断交などする必要はない。三十八度線の北には、ちょうど日本と南朝鮮の共通の敵が存在してるじゃねえか。どうせいつ核ミサイル撃ってくるかも分からん連中だ。そうなる前に、日韓軍事同盟でも調停して協力して一緒に攻め込もうぜ?」


念仁は笑顔を翳らせる。


「ああ、まあ――それも、まあ、いいアイデアだな。」


非常に消極的な返事を聞いて、誠は意地悪そうな表情をする。


「なんだ、やたらと元気がねえじゃねえか――さっきは乗り気だったくせに。やっぱり、同じ民族に対して引き金を引くのは踌躇われるのかい? だらしねえな。」


「いや、悪いアイデアじゃねーんだよな、別に。ただ――」


ただ――ほんのちょっとばかり、困った現実があるだけだ。


「俺――今、まだ予備役なんだよ。たから――その、なんだ、もうあとちょっと七年くらい先だったら、やってもいいかなって思うんたけどよ。いや――勇ましーこと言っときながらそりゃないだろーって言われたら、それまでなんだがな。けれど、もし戦争になったら、俺、前線に出て戦わなきゃならんだろ? けれども、お前は後方で応援してりゃいいわけじゃん? それって、なんか不公平じゃね?」


今さらになって、誠は重大なことに気づいたような顔をしていた。


自分がいかに情けないことを言っているのかは自覚していた。けれども、このときの誠の表情ほど、念仁を勇気づけたものはなかった。自分には重たい銃床を担いできた経験がある。社稷くにを守るということが、いかに苦しくて厳しいことであるかを思い知らされた、汗と泥にまみれた記憶が。しかし、目の前のこの男にはそれがないのだ。


「まあ、お前が社稷くにのために喜んて死ぬ覚悟があるってゆーんなら、別だがな。」


薄荷ミントの強い刺激に当てられたときのように、誠は顔を歪める。けれども、あの清々しい感覚は、むしろ念仁の中にあった。恐らく、誠は今さらになって国防の過酷な現実に気づいたのであろう。銃床を担う覚悟のない人間に、安易な開戦論を唱える権利はない。世界中の平和を支えるのが、結局のところ銃床と剣であったとしても。――


しかし、誠の口から出てきた言葉は、念仁の予想をやや裏切るものであった。


「なるほど、確かにそれはそうであるな。」


顎に手を当て、誠は息を吸い込んだ。


「はたして、いざ國難の嵐が眼前に吹き荒れたとき、社稷しゃしょくのために命をなげうつて戰ふ覺悟が俺にはあるのだらうか。かつて 天皇陛下や祖國のために、銃彈の雨を掻い潜つて敵陣へと突撃していつた神風特別攻撃隊員やその他の英靈たちのやうに、硝煙のなかへと命を散らす覺悟が俺にはあるのといふのだらうか。――」


そして、すくっとその場から立ち上がった。


「海行かば水漬みづかばね、山行かば草生くさむす尸。――」


何事かをぶつぶつとつぶやきながら、部屋の中をぐるぐると回り始めた。言葉の端々から、特攻・散華・玉砕などと物々しい言葉が聞こえる。念仏のようなものを唱えながら一心不乱に歩き回る姿は、言うまでもなく気味が悪かった。


そして、『국뽕』を呑みすぎると起きるという「ある効果」のことを、今さらながらに念仁は思い出した。

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