Ⅴ 何やら浮かない顔をしているね?

月曜日は同時に五月の始まりの日でもあった。今日と明日を除けば、あとは来週までゴールデンウィークだ。


登校中の電車の中で、司は何度もスマートフォンを確認した――確認するたびに、落胆する。ココアトークの対話ルームには、先日の晩、司が送ったメッセージのみが表示されている。


先日は、呆然として動けなかった。降り始めた雨の中で、紅い頭が遠くへと消えてゆくのをただ見つめていた。


そんな司の前で、玉子はまるで何も起きなかったような顔をして振り返った。頬を紅く腫らしながら、降り始めた雨を身に受けていた。


「雨、降ってきたね。どっかで雨宿りしなきゃ。」


雨がビル風に煽られて、司の頬に貼りつく。


「玉子――いま一体なに言ったの?」


「何――って、見たままのとおりでしょ?」


玉子は不思議そうな顔で微笑んだ。


「熾子さん、レポートなんかなかったんだよ。早く帰りたいから嘘ついてたんだね。」


司は、熾子が去って行ったほうと玉子を交互に見比べる。


雨の勢いが強まってゆく。そして玉子は司の手を握った。


「とりま、どっかで雨宿りしよ? CD屋にも行かなきゃ。」


司は思わず腕を引っ込めた。玉子は少し驚いたような顔をしている。


「ご免――今、そんな気分じゃない。」


そして司は熾子が去って行ったほうへと目を遣る。唐突に、このままでは熾子と永久に離れ離れになってしまうような気がしてきた。


熾子は司と同じく、上野駅から帰るに違いない。


「私――熾子さん追いかけてくる。」


司は、熾子が消えていった方向へと駆け出した。


待って――と言って玉子も背後からついて来る。


その商業ビルから上野駅までは遠くはない。しかし、上野駅の構内は広かった。ましてや、司には熾子がどこから帰るのか知らない。


それから一時間ほど上野駅の中を彷徨さまよい続けたであろうか。人の激しく行き交う駅の構内には、どこからか雨の匂いがしていた。


熾子の姿はどこにもなかった。


「熾子さん――もう帰っちゃったみたいだね。」


玉子のその言葉に、司はただ黙ってうなづく。


「まだ時間あるっぽいけど、どうする?」


「ご免――もう今日は帰りたい。」


「――そっか。」


それから電車に乗って神田まで帰った。


家に帰ってからは、熾子へ向けて一件のメッセージを送った。自分と玉子の対応を詫び、気分を害して申し訳なかった旨をつづった。


いつもならば、一時間もしないうちに返信があるはずだ。どれだけ遅れても翌朝には返信が来ていた。


しかし、今回は今に至るまで返信がない。


篠突しのつく雨は一晩で止んだ。先日と同じく、空は半分ほど雲に覆われている。晴れ渡った日の海のように、白い雲の合間に青い色が見える。


学校へ着いた。教室へ這入り、窓際にある自分の席につく。鞄から教科書や筆箱を取り出し、机に仕舞い、そして再びスマートフォンを確認してみる。やはり返信は何も来ていない。


「何やら浮かない顔をしてるね。」


ふと聞こえてきた声に顔を上げると、目の前に代美が立っていた。


「あ――」


おはよう――と司は言う。


「うん、おはよう。」


そして代美は小首を傾げる。


「何か、あったのかい?」


「うーん、まあ。」


「そっか。」


代美は少し困ったような顔をする。


「昨日は、僕は行けなかったけど、大丈夫だった?」


「うーん。」


さすがは代美というべきか――察しがいい。


「それが――ちょっと大丈夫じゃないような――」


「――というと?」


一体、何から話したらいいか分からなかった。とりあえず、先日の複雑な出来事について、思いつくことから語り始める。断片を一つずつ拾っていって、パズルピースのように全体像へと近づけてゆく。


そのあいだ、代美は熱心に耳を傾けていた。司は、話しているうちに少しずつ気持ちが楽になってゆくのを感じた。自分の友人は、何も熾子だけではないのだ。


「そういうわけで――返信が今も届いてないの。」


「――そうか。」


代美は少し残念そうな表情をしていた。


「それは確かに気にかかるね。けれども――ひょっとしたら忙しくて返信ができていないだけかもしれないんじゃないかな?」


「そう――なのかな。」


「とりあえずは、僕からもメッセージを入れてみるよ。」


「ありがとう。」


代美はスマートフォンを取り出し、呟器に接続し始める。


教室に玉子が這入ってきた。荷物を自分の机に置き、近寄ってくる。


「おはよう。」


司も代美も、おはようと異口同音に答える。


ちょうどよかった――と代美は言う。


「今、昨日の話をしてたんだけど――」


玉子は無邪気な表情で首をかしげた。


「熾子さんのこと?」


「うん、そうだけど。――」


代美は、窘めるような視線を玉子へと送る。


「司から聴いたよ、昨日のことは全部――。君が熾子さんに失礼なこと言ったことも、それでたれたことも――。」


しかし玉子は他人事のような顔をしている。


「そうなんだ。」


代美は眉間を翳らせた。


「ぶっちゃけさ、ああいうことを言っちゃったら熾子さんが怒るのも当然じゃないのか? ましてや、三人で気まずい話題が出ちゃったあとだっていうのに。――」


「そんなこと言ったって、嘘ついてたのは向こうのほうじゃん。」


「いや――それとこれとは違うだろう?」


「私もつい腹が立っちゃったんだよ。しかも、それで怒って手を出したわけだし、向こうも私のことなんか責められないでしょ?」


代美はしばし怪訝な視線を向けていたが、やがて溜め息を吐いた。


「メッセージが返って来てないんだってさ、昨日から。」


玉子は小首をかしげる。そこへ代美は、司と同じ説明を繰り返す。


しかし玉子はやはり悪びれた様子もなく、へえと言った。


「へえ――って。」


「だって、よりによってあんなことがあったあとなんだもん――仕方ない部分はあると思うよ。レポートがあるから早めに帰りたいだなんて言ってたのに、本当はなかったんじゃん。」


司は心に疼きを感じた。


「だからって――やっぱり、あの言葉はないと思う。」


「――そう?」


「日本にいる留学生に、日本人から嫌われるなんて言って――ヘィト以外の何ものでもないじゃない。普通、嘘ついてたとしても、こういう場合は何となく察してあげるもんでしょ?」


「けど、嘘ついた上にぶん殴ってきたのって、向こうだよね?」


玉子の言葉に、司は何も言えなくなった。


「そもそも、何で熾子さんは司のメッセに返信しないわけ? もし私が送ったメッセに返信しないんだったら、その気持ちも分かるけど。気まずくなって送れないか、忙しいかのどっちかなんじゃない?」


代美は軽蔑の視線を玉子へ向ける。


「どうかしてるよ――君は。」


朝学活が始まり、午前中の授業が始まった。授業中、司は何となく上の空であった。視線はしばしば窓の外へと泳いだ。外には、既に桜も散ってしまって、青い葉をこずえに茂らせる樹々がある。


そうして、十分間休憩となった。


代美は次の授業の準備に呼ばれ、教室から姿を消した。


司はおもむろにスマートフォンを取り出す。やはり、熾子からの返信はない。


それを目にしてか、玉子が近寄ってきた。


「そんなに気になるの? 熾子さんのこと。」


「うん――そりゃ、まあね。」


スマートフォンを握る手に少し力が入るのを感じた。


「やっぱ、この一年間ずっと呟器やメッセで会話してきたわけだから。そのあいだは、何も問題なく言葉を交わしてきたはずなのに――熾子さんに逢える日も、今までずっとずっと愉しみにしてきたのに――こんなことになっちゃうとか。――」


「ほんと何でだろうね。せめて司には返信してあげてもいいのに。」


温かい風が窓から入ってきている。夏の始まりを告げる温もりだ。


「玉子――熾子さんに謝ったほうがよくない?」


「何で?」


ここにきて、さすがの司もひたいに微熱を覚えた。


「玉子のせいじゃん――熾子さんが返信してくれないの。」


「司が謝っても返信してくれないのに、私が謝ったら、熾子さんは返信してくれる?」


「それは――分からないけど。」


玉子は明らかに責任をはぐらかしている。


それでも、自分のメッセージにも返信がないことは確かに気にかかった。特に、先日熾子が喫茶店で見せた残念そうな顔を思い出すたびに、得体の知れない不安が込み上げてきた。自分は――やはり言ってはいけないことを言ってしまったのではないか。


「確かに――熾子さんが返信してくれるかどうかは分からないよ? けれど、玉子が失礼なこと言ったのは事実じゃん。だったら、そこはやっぱ謝るべきだと思うよ。」


「そう言うんなら、私もメッセ入れてみるよ。けど、どうかな?」


「何が?」


「昨日、熾子さんも言ってたじゃん。人間、そもそも自分と意見の違うグループに属する人間とは仲良くなれないもんだって。どうしても激しく憎しみ合うんだって。――司に返信が来ないのは、そのへんが原因じゃないかなって思ったりもするんだけど。」


言いわけには違いなかったが、司は不安をえぐられた。


「私のせいだって言うの?」


「だって――気づいてなかったの? 司の昨日の言葉は、自分も韓国のことが嫌いだって言ってることと同じなんだよ?」


司は黙り込んだ。


窓から、心地よくない生ぬるい風が吹いてきている。


「それと同じように、熾子さんも日本のこと嫌ってるんだろうね。」


「それは――」


「大体、司だって恐くないの?」


何を言われたか分からず、司は首をかしげる。


「――何が?」


「今、留学や就職のために日本にやって来る韓国人が増えてることくらい、分かってるはずじゃん。韓国人だけじゃなくって、中国人やインド人も、そのほかの国の人たちもね。けれどもそうやっていったら、いつかは日本人の就職口がなくなっちゃうんだよ?」


生ぬるい風が強く吹いて、司の頬を冷やす。玉子はなおも続ける。


「韓国に関心を寄せて、韓国人の対応に怒って、相手も反日韓国人だって知って――そんなやつは日本に居着いてほしくないって思うのは当然じゃない? けれども熾子さんは友達だから例外なわけ?」


「いや、それは――」


――そんなことはないよ。


気持ちの上ではそう言いたかった。しかし、どうしても口に出せない。


できれば外国人には居ついてほしくない、用が済んだら帰ってほしいと、漠然と考えていたことは事実であった。それなのに、熾子に対してはそう感じない。いつまで日本にいたとしても構わない。しかし、それは「友人だから」という理由で例外だからなのか。


「それってただのままだよねえ?」


――そんなことはないはずだ。


そう言いたいはずなのに、はっきりと口にすることはできなかった。

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