Ⅲ そこまで思いつめる必要はないあるね。
底抜けに深い夜空を貫くように、雨は降る。
土砂降りに気づいたのは、地下鉄から出たときだ。傘を買うことさえ何となく億劫で、雨の中を走って帰ることとした。悔しさや恥ずかしさ、そして寂しさから逃れるように帰路を急ぐ。けれどもそれらの感情は、まるで影のように自分から離れなかった。
本当はレポートなどなかった――ただ、玉子と同じ時間を過ごすことが苦痛だっただけだ。どうせ、相手は自分の通う大学とは何の関係もない高校生だ――ばれるはずもないと思っていた。
――玉子は、何も間違っていないと思います。
この言葉が熾子にとっては重圧であった。
――先週にメッセージを受け取ったときから、ずっと気にかかっていたことです。
そして、先ほど玉子が見せた、あの勝ち誇ったような顔が再び浮かんできた。あらゆる軽蔑と侮蔑を込めたような笑顔であった。唇の両端を吊り上げ、目尻はたらりと垂れ下げられており、輝きのない真っ黒な瞳が熾子を捉えていた。
あの顔を見たとき、熾子はつい頭に熱いものを感じて手が出てしまった。しかし今は違う。あの顔を思い出すたびに、止めどなく降り注ぐ雨がなおのこと冷たく、そして寒く感じられる。
寮の中にひとけはなく、静まり返っていた。三階にある自分の部屋へと向かい、コンクリート製の硬い階段を昇ってゆく。
三階まで昇ったとき、初めて人の姿が目に入った。彼女は、埃っぽい廊下から今まさに自分の部屋へと這入ろうとしているところであった。しかし熾子へと気づき、顔を向ける。ひときわ明るい蛍光灯の下、天使のような顔が映えた。
「おや――あんた何かあったあるか? ずぶ濡れのことよ!」
熾子は急に恥ずかしくなり、顔を逸らす。
「別に――何でもないよ。」
「ふぅん。」
しかし春江は冷えた目をしていた。
「けど、あんた今、とても悲しそうな顔してるあるよ? ずぶ濡れになっただけじゃ、なかなかそんな顔にはならないある。」
熾子は目を伏せる。そして、目の下が微熱を持ってくるのを感じた。瞼から溢れてきそうな涙を、熾子は片手でそっと拭い取った。それでも頬に温かいものが流れてきて、顎の先から落ちていった。
春江はそんな熾子のことをじっと見ている。
「お腹はまだ空いてないあるか?」
急にそんなことを問われ、少し困惑した。
「別に――まだそんな空いてないよ。」
「そっか。」
春江は寂しげな表情を見せ、そして再び問う。
「じゃあ、温かいお茶でも一緒にどうあるか? ちょうど、中国から
正直なところ、そんな気分ではなかった。けれども、これから部屋の中に這入ったあとはどうなるのか。恐らくは、今よりもっと寂しい、堪え難い気持ちに駆られるに違いない。
熾子はうなづき、いいよと言った。
春江はようやく破顔する。
「じゃあ――早くシャワー浴びてくるあるよろし。でなきゃ風邪引いてしまうある。浴び終えたら、私の部屋に来たらいいある。」
「うん。」
「じゃ、準備して待ってるあるよ。」
そう言って、春江は自分の部屋へと這入っていった。
熾子もまた自分の部屋へ這入る。
髪と服が身体に貼りついて気持ち悪かったため、真っ直ぐバスルームへ向かう。濡れた服は洗濯機へ放り込んだ。浴槽へ入り、シャワーの栓を捻る。水は最初、雨水と同じように冷たかったが、やがてじんわりと温かくなっていった。
シャワーを浴び終え、ドライヤで髪を乾かす。
洗濯機のスイッチを入れてから部屋を出た。
春江の部屋の呼び鈴を鳴らす。物音がして、すぐにドアが開いた。
「待ってたあるよ。這入るあるよろし。」
「――お邪魔します。」
春江の部屋は片付いており、物といえるものがほとんどなかった。蛍光灯は点けられておらず、代わりにスタンドライトの温かい光のみが灯っている。
「私、蛍光灯の光は嫌いある。これだけで我慢するあるよろし。」
「うん、いいよ。こっちのほうがお洒落っぽいし。」
テーブルの上にはティーカップとガラス製のティーポットが用意してあった。熾子を坐らせると、春江はティーポットの中へと熱湯を注いだ。硝子の中が透明な熱湯で充たされて、茶葉がふわりと浮かぶ。やがて、熱湯はみるみる琥珀色に染まっていった。
――
ここにもまた、六畳の異国がある。春江にとっても異国の六畳が。
やや時間が経ってから、春江は琥珀色の液体をカップへと注いだ。
どうぞ――と言い、香片茶を熾子へと進める。
「うん――ありがとう。」
そして春江はテーブルの上の小箱を開ける。中には月餅が入っていた。春江は自分から先に月餅へと手を伸ばし、噛り付いた。
熾子はカップを一口すする。最初は舌を焼くように熱かったが、喉元を過ぎれば、それは優しい温かみとなって胸元へと昇ってきた。
ふと、別れた恋人との記憶が蘇った。
あれは昨年の十月ごろのことであったか。日本とは違い、韓国の十月は冬の真っただ中であった。落ち葉で
――ねえ、私のこと好き?
ふと意地悪な気持ちが浮かんできて、熾子はそう訊ねた。
もちろんさ――と念仁は答えた。
――そうでなきゃ、二人でこうしてないさ。
その答えを何となくつまらなく感じ、熾子はさらに問うた。
――じゃあ、私のどういったところが好き?
念仁は困ったような顔をする。
――言わなきゃならないかな?
――言ってよ。難しいことなんかじゃないでしょ?
――難しいかな、ちょっと。
本当に難しそうな顔をしている念仁に、熾子は不愉快感を覚えた。
――そんなに?
念仁は苦笑してみせる。
――だって、俺が好きなのは君だから。賢いとか、歌が上手いとか、綺麗な声をしてるとか、ちょっと我が儘だとか、俺が君から受けた印象の全部を挙げてゆくと、切りがなくなるよ。
熾子は念仁のこういうところが好きだった。念仁は熾子の全てを受け入れてくれていた。
――私だったら、そこはあえて触れないでおいてあげますけどね。
昼間に司の言ったそんな言葉が思い出された。
「ねえ――大切な友達なのに、もう二度と会いたくない気持ちになることってある?」
春江は不思議そうな顔をする。
「それは何あるか? 喧嘩したということあるか?」
「いや――喧嘩したわけじゃないけれども。」
「じゃあ、一体、何あるね?」
「うーん。」
玉子とはともかく、司とは喧嘩などしていないのだと思っていた。ただ、考え方に違いがあると分かっただけだ。司は熾子の以前の恋人に肩入れをし、そして玉子へと味方をした。それだけだ。けれども、以前の恋人も、玉子も、熾子にとっては大嫌いな人間なのだ。
「まあ――私にも色々とあるわけよ。」
熾子は溜め息を一つ吐いた。少しぼうっとしてきたためと、相手が他でもない中国人であるために、熾子の心は少し緩んだ。
今までのことを、ぽつりぽつりと少しずつ語り始める。司と出会ったときから――先ほど起きたことまでを。
窓の外で夜雨がささやいている。樋を流れる雨粒の音は鉄琴の音だ。
「なんか、相手が日本人だってこと忘れちゃってたのかな、私。」
言っているうちに、再び目に熱いものが感じられてきた。
「ほんの何週間か前までは、嫌韓を警戒してあそこまで大人しくしてたのに。あの玉子って子が言ってたことって、日本人として普通のことなのかな? もしそうなら――司は、今までそれを隠してたてことになるじゃん。だったら、私が言ってたことって、知らじゅ知らじゅのうちに司を傷つけてたっていうことにはならない?」
――玉子が今まで言ってきていたことは、私がずっと思ってきた、
――そして今でも思っていることと同じですから。
大嫌いな玉子と同じことを考えており、大嫌いなかつての恋人を擁護したということが、熾子にはショックであった。
「私のこの一年の経験じゃあ、そんなふうに議論を吹っかけてくる日本人はあんまいないかったあるな。いたとしても、かなり遠回しな嫌味みたいなのばっかだったあるよ。」
「そうなの?」
「ああ。――というか、その玉子って子は怖いあるな。本当にまだ高校生あるか? なんか話を聴いてると、あんた誘導尋問されてるような気するあることよ?」
「――普通、そう思うよね? だから好きじゃないんだけど。」
しかしその誘導に乗ってしまったのは、他でもない熾子なのだ。先週は堪えられていたはずなのに、今日は失言をいくつも重ねてしまった。それは、念仁の件に触れられたためでもある。彼のことを俎上に上げられると、熾子はどうしても感情的になってしまうのだ。
「金熾子は、その司って人のことは嫌いになってしまったあるか?」
春江の質問に、熾子は首を横に振る。
「司さんは今でも大切な友達には違いないよ。そうであったとしても――再び会いたいとは思えないんだ。」
「そこまであるか? ただすれ違いがあっただけのことよ。」
「そりゃ――そうだけど。」
「加えて、吐いてた嘘がばれてて恥ずかしいってだけのことね。」
春江も春江で、あまり他人に遠慮のないことを言う。
そうだけれども――と熾子は言った。
「けれども、それだけじゃないの。」
「他にもなんかあったあるか?」
「ううん。」
そうではないのだ。
「また会ってしまったら、さらに大切なものを壊してしまいそうな気がするんだよ。これからの司さんにも、今までの司さんと同様に接してゆける自信があまりない――というか。」
「まあ――喧嘩をしたあとじゃ、それも仕方ないあるな。」
「だから――喧嘩ってほどじゃないって。」
そうは言うものの、頑なに否定するほどの気持ちは衰えていた。
熾子の頭の中に、今度は念仁の顔が浮かんできた。日本留学が始まれば離れ離れになることが決まっていた関係であり、できる限り二人で一緒にいたいという気持ちがあった。しかし、念仁は自分から気を遣うような真似は見せたことはなく、それで苛々してきて、つい自分本位になってしまったことも事実である。
「私が悪いからなのかな――これは。」
自分を苛む気持ちは、溜息のように口から零れた。
「私が悪いから――彼氏とあんな酷い別れ方をしてしまって、その上に友達も去ってゆくんだろうか。私が、あまりにも他人に色々なことを要求しているのが、全て悪いのかな?」
それはいくら何でも考えすぎだよ――と春江は言う。
「私も、あんたの言うことは分からなくはないからさ。ネトウヨが韓国や中国を嫌ってくるのには理由なんかない――ただ、人間をカテゴライズ化して嫌ってるんだよ。」
春江は、柄にもなく寂しそうな表情をしていた。
「日本人は、確かに中国人や韓国人にはないものを持っている。それは例えば、強い遵法意識だとか、いざとなったときの結束意識だとか――。けれども、その裏返しというべきもの――強い排他意識や排外主義の伝統なんかも確かにあるんだよ。」
「排外主義の伝統?」
「ああ――」
うなづき、春江は遠い目をする。
「例えば――さあ。日本語をしゃべる非日本人に対して、『日本語が上手いですね』って日本人はよく言ってくるだろ? あんた、言われたことないか?」
「そんなんしょっちゅうだよ。」
「そうか――。けれども、もしリアルでそれ言われたら、まだ日本語が上手くないっていう意味だよ。本当の意味で日本語が上手いと、そんなことは言われない。今度は、『いつまで日本におられるんですか?』って訊かれてくるから。」
ただ、窓の外から雨音が聞こえていた。
「それだけじゃなくって、にこにこと笑顔を浮かべながら、日本も不況で就職口がありませんよとか、自分の国の言葉を大切にしたほうがいいですよとか、そんなことを言われたこともあったな。何を言いたいのかは、すぐに判ったけど。――要するに『出ていけ』だよ。」
底抜けに暗い気持ちとなった。日本で暮らすことの困難が、今さらになって波のように胸へと打ち寄せてきた。しかも熾子の場合は、留学して一か月にも満たないあいだに不和が起きたのだ。これからも似たような――あるいはそれ以上の困難があるのかもしれなかった。
同時に、そのような排他意識が司のなかにあったかは、疑問であった。あの子猫のような笑顔や、心地の良くなるような声の裏側に、外国人に対する嫌悪の感情が隠れていたとは思えない――いや、思いたくないのだ。そんなことはあってはならない――はずだ。
「司さんは、多分そんなんじゃないとは思うけれども。」
なので、熾子は正直にその旨をこぼした。
「多分――そんなんじゃないとは思うんだけれども。韓国が嫌いだからとか、外国人に出ていってほしいとか、そういうつもりで言ったんじゃないとは思う。もちろん、心の中までは判らないけれども。少なくとも、そんな嫌味な人じゃないから。」
「じゃあ、そこまで思いつめる必要はないあるね。」
長い睫毛を伏せながら、春江は言う。
「人間である以上、意見の相違があることは当然のことあるよ。ましてや、違う民族のことならば仕方はないある。司という人も、恐らく金熾子のことは嫌いにはなっていないの思うある。」
「そう――かな?」
「そうに決まってるある。むしろ、向こうのほうこそ金熾子の気持ちが分からなくなっているの違うあるか? それなら、今こそきちんと心を通わせることが大切ある。」
「まあ――そうかもしれないけれども。」
確かに、司も熾子の気持ちが分からないに違いなかった。
もちろん、お互いの正確な気持ちを探り合うということは簡単な話ではない。相手を思いやっている分、触れたくないものにあえて触れることは、辛いことであるはずだ。
スマートフォンを確認しようと思い、熾子はポケットに手を遣る。司から何かメッセージが届いていないかと思ったからだ。しかし、手を遣って、そこにいつもはあるはずのものがないことに気づいた。しばらく経ったあと、背筋が冷えるのを感じた。
「どうしたあるか?」
「いや――スマホが。」
隣の部屋からは微かに振動音が聞こえてきている。部屋から出る前、熾子が点けっぱなしにしてきた洗濯機の音であった。
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