Ⅵ-Ⅱ あの――大丈夫ですか?

しばらくして、歩き続けることに疲れてきた。


隅田公園に隣接した喫茶店へと這入はいった。アイスクリームが美味しいと評判の『兜率とそつの天』という店だ。窓辺の席へと二人は案内された。窓の外には、隅田川のほとりに続く桜竝木さくらなみきがある。


珈琲と共に、桜桃さくらんぼの添えられたアイスが運ばれてきた。


司はそれに、持参してきた醤油をかけて食べた。その様子を熾子は怪訝な目で見つめていたが、何も言わなかった。


「私は、三ヶ月くらい前まで髪の毛は黒いかったんですよ。」


前側面サイドの髪をいじりながら、熾子はそう言った。


司はきょとんとする。


「それは、黒く染めてたってことですか?」


「いえ、元々は黒いだったっていうことですよ。」


「生まれつき黒だった――?」


「正確に言えば、ちょっと茶色い染めてたんですよ。瞳の色も、普通に黒いかったはずなんです。けれども、どういうわけか、三日くらいかけて徐々に紅いになったんです。信じてもらえるかどうかは分からないんですけど。」


「それは、髪の毛が全部生え替わったってことですか?」


白髪にしろ、黒かった髪が白くなるわけではない。


「いえ、いきなり色が変わったいうことです。それに、髪や瞳だけじゃありません。私、それまでは色々な色の服を持ってたが、全部緑色になっちゃったんです。髪留めだって、それまで持ってたのは全部普通の形してたのに、何でか唐辛子の形になっちゃったんです。」


さすがに疑わざるを得なかった。一体どう反応すべきなのか。


「信じられませんよね?」


「ええ――まあ。」


「けれど、これ見て下さい。」


熾子は右の蟀谷こめかみを指さす。


おや――と思った。


熾子の指さした先に、唐辛子の形をした髪飾りがあったからだ。


しかしそこは、先ほど土産物屋で買ったヘアピンをしたはずの場所ではないか。あれ以来、熾子はずっと司と手をつないでいた。髪飾りは、手鏡でも見なければ挿せそうにない処にある。


「桜のアクセつけてから、ずっと一緒にいたはずですよね?」


「そうなんですよ。どういうわけか、頭につけたものも、こういうふうに変わっちゃうんです。服も同じで、何を着ても緑色に変わるんです。髪を黒い染めても、何時間かしたら、なぜか再び紅いなってしまいます。手品じゃない証拠に、何度でも同じことをできるんです。」


司は少し考え込んだ。ネットだけとはいえ、一年間も交流して来たのだ。手品か何かを仕込んで、司を揶揄からかっているとも考えられない。


「不思議ですね。――不思議っていうか、不便じゃありませんか? 色々とお洒落をしても、みんな紅や緑に変わっちゃうなんて。」


「不便だなんて程度じゃありませんよ――髪の毛どころか、瞳の色まで変わるだなんて。何かの病気じゃないかとも思ったが、病気どころじゃないですよ。」


理解できるような、できないような話であった。髪や瞳が紅くなったところで、何なのだろうと思う。けれどもいきなり変わったら確かに怖いだろうなと、矛盾した感想を抱いていた。


「熾子さん自身には、何か心当たりはないんですか? そうなってしまった原因に。」


苦し紛れに問うと、熾子はふっと黙りこんだ。


「彼氏と別れたあとなんですよね――髪の色が変わり始めたのは。」


「そうなんですか?」


熾子が恋人と別れたことは知っていた。ただし詳細は知らない。呟器には、あんな変態だったとは知らなかったと韓国語で書かれていた。


「別れた原因は、本当にどうしようもない戦いだったんですけどね。けど、別れ間際にあいつ、私のことキムチ女って呼んだんですよ? そのことを気にかかってますね。だって――ま、まるで、キムチみたいな色じゃないですか。よりによって――こ、恋人だった人間を、キ、キムっ――キムチ女だなんて言いやがたんですよ、あいちゅは!」


カップがソーサーとこすれ合い、かたかたと音を立て始めた。


「あの――大丈夫ですか? 汗が、すごいことになってますけれど?」


「あ――汗ね。はい。」ポケットからハンカチを取り出し、熾子は額を拭った。「汗は――拭かなければなりませんね。はい。ハンカチで。」


司は少し不安になる。熾子の変わりようが尋常ではなかったからだ。


「キムチ女」とは、韓国人女性を意味する韓国のネットスラングである。司も、例の翻訳サイトでよく目にするので知っていた。同時に、韓国のことは「キムチ国」とも呼ばれている。なので、「キムチ女」とはキムチ国の女という意味だと思っていた。


ちなみに、日本人女性を指す言葉は「寿司女」である。


「そんなに酷い言葉なんですか? その、キムチ女というのは?」


「もちろんです。女性を莫迦にする言葉です。」


言葉にはやや冷静さが戻っていた。


「韓国は男性が強い国なんですよ。儒教の影響から、今でも様々な性差別が残っているんです。同じように働いても、女性は男性の六割程度しか賃金を受け取れません。女性に求められるのは常に容姿で、それが就職差別につながり、就職してもセクハラにつながる。」


一瞬、飛ぶ鳥の影がテーブルの上に射した。


「六割だけなんですか? 本当に?」


「ええ――男女賃金格差は先進国でもトップの高さです。ただし、日本も七割程度ですので、決して低いとは言えませんが。」


「――なるほど。」


司は、自分の国に女性差別があると感じたことはあまりなかった。しかし数字にしてみると、確かに大きな隔たりがあるようだ。


「しかし――そういった不平等に声を上げると、それは女性のままだという音が聞こえてきます。韓国の女は自己中心的だ、お姫さま扱いを受けたがっている――ネット上では常にそんな煽動が行なわれております。そういうふうに、韓国の女は我が儘だとレッテルを貼る言葉がキムチ女ですね。例えば――結婚しなかったら傲慢な女だとしてキムチ女、結婚したら男に寄生するキムチ女、みたいな。」


よく考えたらそうであった。「キムチ女」なる言葉は、韓国の反応サイトでもよい文脈で遣われていない。しかし、それは司がよく閲覧するサイトが、イルペばかり翻訳するからだと思っていた。韓国人女性だけではなく、全てのものに対してイルペは否定的なのである。


「けれども、そう呼ばれたのは別れる間際だったんですよね? 一体、何が原因で別れられたんでしょうか? 元彼さんって、どんな方だったんですか? いつだったか呟器を覗いたときは、いい人みたいな印象を受けたんですが。熾子さんも、仲良かったようですし。」


実際、そうであった。去年の秋以来、少なくとも呟器の上では、熾子は幸せそうに見えた。恋人と出かけたこと、食事を摂ったこと、プレゼントをもらったことなどが、写真ともにたびたび投稿されていた。写真は熾子の手によって煌びやかに彩られており、霞みがかった画面いっぱいに星屑のような光彩が降り注いでいた。


だから――別れたと知ったとき、その夢のような世界が全て熾子による虚飾ではなかったのかという気がして、軽い幻滅さえ覚えた。


熾子は視線を横へとずらす。


そして、念仁と別れた経緯について語り始めた。


まさか自分のつぶやきが原因だとは思わなかった。それどころか、熾子の恋人が、あの秀逸なコスプレを行っていた者だったとは――。


「え――。じゃあ、別れたのって私が原因じゃ――」


「いいんですよ――そんなことは。」


しかし、どうも釈然としなかった。あの呟器に上げられた画像を思い出すと、なおのことそう思える。特定のサイトのユーザーだったことは、あの幸せそうな恋を手放すほどのことなのか。無論、彼の変態的書き込みについては擁護しようがなかったが。


「イルペのユーザーだったことって、そんなに重大なんですか?」


「まあ、そもそもイルペという処が、まともな処じゃないんですよ。」


「嫌われてるらしいことは知ってるんですけど。」


嫌われてるどころじゃないですよ――と熾子は言う。


「あそこは、誰が最も過激なことをするかを競って喜んでるんです。例えば、あの客船沈没事件が起きたときは、犠牲者のことを『おでん』と呼んで喜んでました。犠牲者と同じ高校の制服を着たユーザーが、事件現場でおでんを食べて『友達食べた』なんてスレッドを建てたこともあります。」


司の脳裏に、何年か前に韓国で起きた痛ましい事件の記憶が過った。


「確かに――それは酷いですね。」


「人間じゃないんですよ――あいつらは。」


司は視線を下に落とした。硝子製の蒼い器の縁が細く輝いていた。


「キムチ女や寿司女なんて言葉を創り出したのもイルペです。」


「そうなんですか。」


「ええ。――寿司女という言葉は、キムチ女という言葉と違って一見していい意味で使われます。けれどね、それは彼らが女性に従順性を求めているからなんですよ。日本のアニメやポルノの影響で、日本人女性は従順な存在と考えているだけですよ。」


「まあ、隣の芝は蒼く見えるって言いますからね。」


司は軽く溜め息を吐く。


「けれども、アニメの女の子だって、別に従順っていうわけじゃないと思うんですけれども。たとえイッショニサケノムカされても、ついて行かないんじゃないんでしょうか。」


熾子は苦笑する。


しかし、皮肉な微笑の中に満足そうなものがあった。


「そうですね。ああいう男どもは、韓国に帰って来る途中で飛行機から落とされて魚の餌になってほしいんです。けれども、司さんなら大丈夫とは思いますが、一応は気をつけてくださいね。そういう軽薄なことをするやつに、ろくな人はありませんですから。」


うなづき、もちろんそうですよと司は言う。


「私は怪しいナンパに引っかかるような女じゃありません。」


そして、会話の主題が、なぜ熾子の髪と瞳が紅くなったかというであったことを思い出した。結局のところ、これは解決策の出せる問題ではなさそうだ。しかしやはり、熾子の外見が擬人化されたキムチのように変化したことは気にかかる。


そして、キムチ女や寿司女という言葉は、本当にそこまで酷い言葉なのであろうか――という疑問が頭をよぎった。

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