大晦日、運命を変える喫茶店で。

中田祐三

第1話

大晦日、年内の仕事は二日前に終わり、普通ならば滅多にない連休に心を踊らしているはずなのに…。


俺は一人で寂しく椅子に座っている。


目の前にはカップに入ったコーヒーがあり、あとは綺麗に磨かれた木製のカウンターと静かに仕事をしているこの店のマスターだけだ。


焙煎されたコーヒー豆の香りはすでに途絶えた湯気と同じように何も感じない。


俺は黙って底の見えない黒い水面を見ている。


まるで時間が停滞しているように表面は波立たない。


ため息をつくと真っ黒い表面がユラユラと揺れた。


「何かありましたか?」


マスターが俺に声をかける。


「いえ、その…付き合っていた彼女にフラれまして…」

言ってから顔を赤らめた。


この心の痛みから思えば到底言えるような気持ちではないのに答えてしまった。


マスターの低音で不思議と落ち着く声に背中を押されたのだろうか。


「そうですか…それはお辛いですね」


マスターは無感情に返してくれた。


下手に同情されてもいまの気持ちではただささくれだつだけなのでその態度はありがたかった。


これがいわゆる大人の気遣いというものなのだろう。


それなりに年齢を重ねた俺でもこのような対応は出来ないだろう。


いやだからこそ俺は彼女と別れることになったのだろう。


きっかけは些細なものだったと思う。


だが彼女にしてみれば決して些細ではなかったのだろう。

それに気づかないでいつものようなはぐらかした態度をとって本気で怒らせてしまった。


後悔しても今更遅いというのに俺はいまだ堂々巡りをしている。


「後悔なさってるんですか?」


「ええ、まあ…でも過ぎたことですから…気にしてませんよ」


心にも無いことを言ってまた新しい傷が出来る。


俺は本当に駄目なやつだな。


こんなことで見栄をはってもしょうがないというのに…。


「大丈夫ですよ」


「えっ…?」


顔を上げるとマスターは無表情でありながらもこちらの顔を優しく見つめている。


「お客様が本当に後悔なさっているならきっと元に戻れますよ」


「…気をつかわなくても大丈夫ですよ」


よほど辛い顔をしていたのだろうか?


本音を見破られて気恥ずかしくなる。


「いえ、そうではないのですよ、ただお客様が本当に恋人とのことを後悔なさってるならきっと元通りになれます」


マスターの顔は真面目だ。


そうなんだろうか? 本当に戻れるのだろうか?


そっと左頬を撫でる。


あの時に感じた鋭い痛みを思いだす。


「そうだと…いいん…ですけどね」


「大丈夫です。きっと叶いますよ」


マスターがニコリと笑いかけてくれた。


「何故ならここは運命を変える喫茶店ですから」


「運命…ですか?」


「ええ、運命です」


マスターの顔は真面目そのもので冗談とは思えない。


慰めだとしてもあまりに生真面目な態度なので果たして笑っていいのかもわからない。


「…そうなるといいですね」


それだけ返すのが精一杯だった。


「ええ、きっと変わりますよ」マスターはニコリと笑うと、そのまま仕事を続けている。


運命を変える? 本当に変えられるのだろうか?


チラリとマスターの方を見る。


いつもと変わらず無表情で洗い物をしていた。


ははっ、馬鹿らしい。 そんな簡単に運命が変わるわけがないじゃないか。


マスターもあまりにも自分がしょぼくれているから気を使ったのだろう。


きっとそうさ、おそらく……いや、絶対にそうなんだ!


だから期待しちゃいけない。


いま俺に必要なのはこのコーヒーを飲み干してさっさと家に帰って年末と年始を寝て過ごすことだ。


酒をたらふく飲んで、寝て、また飲んで寝続けて忘れること。


そうしなければならない。


そうすることしかできない。


忘れるためには。前に進むためには。


緩く不味くなったコーヒーを一息に飲み干す。


よし!行くか!


「お客様、もう一杯いかがです?冷めたコーヒーを飲んで帰られてはせっかくのコーヒーが無駄になってしまうので」


「い、いや…ありがとう」


返事をする前に淹れたてのコーヒーが目の前に置かれた。

上げかけていた腰を再度椅子に下ろした。


しょうがない…マスターの気遣いを無駄にするわけにはいかないか。


この一杯を飲んでから帰るとしよう。


アチチ。


少し熱いけれどその分だけ香り高い。


「ふ~、美味しい」


「ありがとうございます」


なんだかホッとする。 こんなに美味しいコーヒーは久しぶりだな。


「コーヒーというものは落ち着いて飲むと美味しいものですよ」


「ははっ、そうですね」


俺の言葉にマスターは満足したそうにうなづくと、また新しく豆を用意している。


おかしいな?俺の他に客は一人も居ないというのに。


「マスターも飲むんですか?」


俺の問いかけにマスターは悪戯っ子のように微笑みながら首を横に振る。


「もうすぐ来るお客様用にですよ」


「予約客ですか?」


「予約はされていませんが、もうすぐ来ますから」


変なことを言う。 いつ来るかもわからないお客のためになぜコーヒーを用意するのだろう?


マスターは別段急ぐ素振りも見せずゆったりとコーヒーがポットに滴り落ちているのを確認している。


「あの…俺、そろそろ」


言いかけたところで店の扉が開く。


…まさか?


微かな期待を胸に振り返る。


「すいません、駅まではどちらに?」


扉から半身だけ出した中年の男が立っていた。


「駅ならこの前の道を真っ直ぐですよ」


「ああ、ありがとう」


扉は静かに閉められた。


視線をカウンターのコーヒーに戻した時には顔が赤くなっていた。


扉が開いた時に、僅かながらにも期待してしまったのだ。


彼女が扉を開いてそこに居ることを。


恥ずかしい。本当に恥ずかしい。


先ほどのマスターの言葉を疑っていたというのに…。


俺はなんて女々しいのだろう。


もう帰るとしよう。


…でもその前にこのコーヒーは飲んでしまおう。


マスターの気遣いを無駄にしないためにも。


未練がましく残っている最後の黒いそれを飲み干してしまおうとカップに口をつけたとき、


「コーヒーを最も美味しく味わえる方法を知っていますか?」


「えっとそれは落ち着いて飲むときでしたっけ?」


「それはお一人の時ですね」


「それじゃ、どんな時なんです?」


「それは…いらっしゃいませ」


カラリと扉を開き、誰かが隣に座った。


新しいお客だろうか?


ふと懐かしい気持ちになっている自分に気づいた。


フワリとした香水の香りがコーヒーの香りと心地よく混ざり、鼻腔を刺激する。


注文を聞く前にマスターは新しく来た客の前にコーヒーを出した。


俺がいつかプレゼントした香水をつけた女性の前に。


「誰か大切な人と語り合いながら飲むコーヒーこそが一番なんですよ」


マスターは朗らかな顔でそれだけ言うとまた仕事に戻っていった。


俺は慎重に唇を開く、離れた運命をまた手繰りよせようと、いまきっと二人にとって共通の話を。


「ここのコーヒーはとても良い香りだろ?」

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大晦日、運命を変える喫茶店で。 中田祐三 @syousetugaki123456

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