尊厳死希望届

@toumei-ningen

第1話

私は役所のとある窓口業務をやっている。

といっても、あまり人は訪れない。

もっぱら送られてきた書類に目を通し、ファイリング、書棚に収納するのが仕事といっていい。


扱う書類はたったひとつ。

「尊厳死希望届」だ。


尊厳死を希望する資格を有する成人が、公的な手続きをもってそれを実行するための書類。

氏名、生年月日、現住所、同居の家族の有無、尊厳死を希望する理由など、書き込む項目は履歴書とそう変わりない。

履歴書と異なる点は、尊厳死の資格があると判断されれば誰でも、何名であってもその希望は叶えられる点であり、望みが叶うことが初めから確かである点だ。

したがって尊厳死に競争はない。早く申請すればするだけ、死の機会は近づくだけ。


さて、ちょうど今、閑散とした廊下に靴音が響きわたった。


足取りはゆっくり、ともすれば気後れがちに聞こえるのは、単に私がこの施設の雰囲気を感じた相手の心中を邪推してしまっているからかもしれない。残念ながら、ここは決して明るい場所ではない。


ようやく私の正面に立った老人は、ためらいがちに口を開いた。


「あの、すみません。ここにある書類のことでお尋ねしたいのですが」


私はこれまでに膨大な量の書類を確認してきたが、この老人が希望者のうちのひとりかどうかは判別できようもなかった。

したがって、容姿からおおよその用件を察するというサービスの提供は諦めるしかない。誤った推量は、うっかり相手の心を傷つけることにもなる。


「こんにちは。では、どのようなご用件でしょうか」


老人は私を見て、さてどこから話しはじめ、どこまで話し終えるのが最適かどうか、ということを10秒足らず考えたようだった。

意を決したのか、前のめりになる。


「私は死ねなかった。だから、届け出を取りやめてほしい」


老人はそう端的に言ったあと、補足の情報が必要だと勘違いしたのか、単に気まずさからか、さまざまな経緯について語り出した。

届け出を出したあと受理のハガキが届いて現実味が湧いてきたこと。

施設へ向かう前に身辺整理をしなければならない煩わしさ。

心なしか持病の症状が緩和されている気がしだしたこと。

最期に友人に会いに行って、届け出のことを打ち明けると涙ながらに反対されたこと。

要するに、積極的に死ぬ必要がなくなったエピソードを、私に向かって滔々と話したのだった。


「それは良かった。それでは届け出削除の手続きをいたしますので、こちらの届け出にご記入ください。それとも、今後のために原本をこちらで管理しておきましょうか」


私は老人に「尊厳死希望届削除願」と一緒にボールペンを渡しながら言った。


「いや、その、できれば原本ごと削除してもらいたい」

「では、その一番下の欄の『原本の削除希望』に丸をつけてくださいね」


老人は、どこだ?と目を泳がせたあと、真っ先にそこへ丸を付けた。

慌てた様子で、ほかの箇所にも記入していく。

まるで、早くしないと「意図せず死んでしまう」のだといわんばかりの慌てぶりに、私は安心させるべく声をかける。


「大丈夫ですよ、ここにはあなたと同じ理由で訪れる方が一定数いらっしゃいます。だから、私はここで受付として雇われているんです」


笑顔で言うと、老人はパッと破顔し、よかったとため息をついた。


「いやあ、今どき役所の窓口に人が立ってるだなんて滅多にないから余計に緊張してたんです。でも考えたらそうだ。相手がAIだったら、生き直したいだなんて言えば逆にリスクを並べ立てられそうだ」

老人も、私もクスリと笑う。

「そうです。人間は間違う。だから私はあなたの話を鵜呑みにして、あなたのこれからの生を無責任に応援することができるんです」

「全くそうだ。ありがとう」


老人が去ったあと、私は届け出をスキャンし、データベースに変更を加えた。

彼のステータスは「施術期間中に来院なし」の黄色い帯から、「届け出棄却」の青い通常状態となった。


作業を終え、背後に立ち並ぶ書棚をしばし見つめる。

そこに納められた書類は皆、もう死んでしまった人のものだ。

だから、先ほどの老人の書類は添付書類のひとつだってここにはない。

仮に原本の返却を希望したならば、本部から郵送するための手数料をもらうことになるはずだった。

そう、本来ここは尊厳死を遂げた人の紙資料原本を25年保管する書庫であり、第三者(遺族や弁護士)が照会するための資料室なのだから。

私は単なる窓口担当だが、墓守りとも言えるだろう。

できれば、いつだって仕事をしない三途の川のカーロンでありたいと思っている。





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