第37話 在って良いこと悪いこと
アルフォンシーヌが語りだすまで、さほど間は挟まなかったはずだが。
俺たちの間に、重く、長く、煮詰まった時間が横たわって、それが無性に長く感じた。
ちろり、ちろりと揺れる影だけが動いて、まるで命がこの世からなくなっちまったみてぇな沈黙だった。
「この、建屋はな」
絞り出すように。
「父の持ち物なんだ。――遺産なんだ」
女が話し始めた。
:::
父は、流浪人だった。
住処を持たず、納税の義務がなく、それ故にどの町に暮らすわけでもない。『市民でも農民でもない者』のことだ。この国には、一定数、いる。
お前も今、法的にはそういうことになる。が、近いうちにそうも言えなくなるだろうな。
そうした流浪人は、なにかしかの
一つ所にとどまって暮らすなら、市民にならねばならない。市民には義務が生じる。父はそれを厭うてか否か、故郷を出て生きる男だった。
私は、気が付けばそんな父とともに、町から町へ、旅をして生きる子供だった。
物心ついたころには荷馬車の上に暮らしていた。――それも、街々を行きかう行商人のそれに都度乗り合わせるだけだ。自前の荷馬車に家畜なんてものを持てる暮らしではなかった。
父が持っていたのは、
その雑嚢の中には、ショーギの盤駒と、いくつかの詰め手が書かれた木板だけが入っていた。
――父は
お前が言うところの、『シンケンシ』だった。
お前とあの子がしているような商売をしながら、私と父は生きていて、この町にやってきたんだ。
そしてあの男。
プブリオが、父を見つけた。
:::
「あの男――プブリオは、流浪人を嫌う。自分の街にそれがいることを、とかく嫌う」
「ちょっとわかる。そういうイメージある、うん」
金持ちってそういうとこあるよな。
「あれな? 使用人とかに『あれをなんとかせい! 見苦しい! プヒプヒ!』とか言うんやろ?」
「その通りだ。私と父もそうだった。ある日、あの男がやってきて、全くそのまま使用人に告げた」
「なるほどなるほど」
そん後どうなったかは
「すぐさま使用人たちに囲まれ、私たちはその日の商売をたたむことになった……」
「かぁー! ゆるせねぇな! よっしゃ大体わかった!」
「そして、自分の屋敷に呼びつけた父に『この町で将棋道場を開かないか』と持ち掛けたのだ!」
「わかってなかった」
ごめん。もうちょっと聞かせて。
「プブリオは流浪人を嫌う。曰く、『できることをやりきらないのは世の損失だ』と。『衣を着せ、食わせ、住まわせて、職についたならどれほどの人を満たせようか』と。『したくないなら無理強いはせぬ。したくて出来ぬなら無理を通してくれる』と」
「おう。うん」
「あの男はそういって、町に来る流浪人に片端から目をつけては、自分の商会に抱え込み、時には取引のある
「…………」
「父はとかくショーギ以外はできない男だった。そんな父に、プブリオは、建屋の
「……うん」
……いや、まぁ。
「そんなうまい話ないわな。うん。タダでなんてな? なんかあったんだろ?」
「当たり前だ。この建屋の金代は父の名義の借金、ということになった」
「うんうん。なるほどな! みえたぜ!」
どうせあれだろ、えげつねぇ利子かなんか噛まされてケツの毛までむしられたんだな!
「このぼろっくせ道場にもなってねぇ代物わたされてよ? 手にとってもねぇカネの証文書かされたんだな?」
「えっ」
「えっ」
うん?
「いや? 現金で借りた。これは父が大工と交渉して建てた」
うーん?
「父の遺産をぼろくさいとかやめてくれないか」
「アッ、ハイ、ゴメン」
「続けていいか?」
「うん」
うーん?
「言ったが、この建屋は遺産なんだ。――その後、父は結局、道場を開くことはなかった。建屋と、借金の証文が私への遺産となった」
「ふん」
「そう、私はあの男に、借金がある身だということだ」
「おっ、そっか、なるほどな! みえたぜ!」
金持ちのプヒプヒいう太ったおっさん! 赤毛は若い女! 借金! 答えは一つだな!
「わっけわかんねぇ利子で膨らんだ借金をタテによ! やらしいことさせられそうなんだな!」
「えっ」
「えっ」
これもか?
「あー、借金は、無利子だ。いや、正確にはあるが、ほとんど無視していい。父が借りた時からほとんど増えていない」
「元金が返せねぇの?」
「いや、この建屋さえ明け渡せばチャラにするといわれてる」
うーん?
「チャラになんの? 額面的に」
「いや……。建てて十数年は経つし、その間私も手入れこそしたが、人は住んでなかったから……。価値は相当下がってるはずだ。半値にもならないと思う」
「なんで? あの旦那何考えてんの?」
わからん。全然わからん!
「あの男は、ここに子飼いのショーギ指しを住まわせて道場にする気なのだ」
「まって。というかそこからわからん。そんなに手間暇かけて釣り合うのか? 道場からせしめるアガリってのは」
「多分無理じゃないかな……」
「なんなんだよお前ら⁉」
こえぇよ! この国の連中! マジで何考えてんのかわかんねぇ!
「あの男は、自分の街にショーギ道場を増やしたい、それだけだ、と言っている」
「嘘つけぇ。その割にお前の父ちゃんには建屋つくるので一杯の金しか貸してねぇやんか」
見ろこの『道場』の有様。
屋根壁床だけ格好つけて、中身は一切合切空っぽなんだぜ。
あげく竈は(パチ公曰く)パンも焼けねぇときたもんだ。経年劣化かもしれねぇが、そもそも道場らしい支度がひとっつもねぇ。
「盤駒は? 敷物は? 裏手の炊事場の水瓶だってそろってねぇ。そんなカネしか出さねぇで『道場増やしたい』なんて、嘘だろよ」
「……うん。父に貸し付けたカネは、それらをそろえて余るくらいは、有ったんだ。うん」
はぁ?
「じゃあなんで空っぽなんだよこの『道場』ぁよ。馬小屋でも藁くらいあらぁ」
「…………」
……おい。
「父は……」
やめろ。なんだその心底言いづらそうな面。
身内の恥をべしゃる面やろがそれ。やめろ。
「いったな、父は」
「おい、おいおいおいおいおい……」
おい、やめろ。やめろマジで。
「お前と同じ、『シンケンシ』だったと」
「やめろ、やめろやめろおい。やめろ。やめて」
嘘だろ。
「父は、道場が建った後、借りたカネの残りをショーギで溶かした」
俺は、両手で顔を覆った。
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