第33話 これは挨拶だ、とっときな。
「無いな」
順当に、手がなくなった。
「ふむ、そうかね?」
「無い」
正確には、有るといえば有る。動かせる駒が一切ないわけじゃあない。が、『意味のある手』が無い。残っているのは、まったく意味のない手番を飛ばすための一手と、(俺流にいうところの)『テメェの金玉をステゴロ相手の掌に乗っけるみてぇ』な悪手だけだ。
で、だ。
「わからん先生でもあるまいし」
「その通りだ。失礼した」
こいつがそれを理解していないわけもない。
俺には『ここからは悪くしかならない』と理解するだけの棋力があり、ランベルトにも同じだけの棋力がある。
となると、どうなるか。合理的に、俺の想定通りに俺が手を指し、俺の手の通りにランベルトが手を指せば、必ず俺が負ける。
必ず負ける以上、これ以上手を続ける意義はない。
意義はないならば、それをする必要はない。
――将棋は、『詰まされたら負け』じゃあない。『王を取られたら負け』でもない。
『負けを認めたら負け』
『続ける意義を見失ったら、負け』
そして俺には続ける意義がなく、俺はこの局の負けを、確信している。
「さて」
「ああ」
互いに目を合わせ、うなずきあい、俺は唇を舌で舐めて湿らせた。
「負けました」
***
それはアルフォンシーヌ・デ・ロッスォが求めていた姿のはずだった。
「
感想戦もせず、そういってリョマ(と呼ばれる異邦人)は道場を去った。
何の因果か手元に置くことになった、無礼で不躾で無思慮で不見識で、およそ人間性に見るところのない男は、アルフォンシーヌにとっては『計画』の為の心強い手駒ではあったが、同時に自分や、自分の部下をさんざんに扱き下ろした仇でもあった。内心、あの人格破綻者がこの国の実力者と戦い、まっとうに打ち負かされる姿を見たいと――どんな悪態をついて、負け惜しみをばらまき、地団太を踏んで泣きわめくのか見物してやりたいと――思っていたはずだった。
だが実際にはどうだ。
確かに、思っていた姿ではなかった。意外なほどに潔く、信じられないほど淡泊に、背を丸めもせずに男は立ち去った。拍子抜けした。だが、感じているのは、そういう感情ではない。
覚えがある。
(私は)
――父が、赤鬼ウベルドが『負けた』日のそれに、近い。
(あいつが負けて、
「リョマがケェるならオレもケェるナ。ジュウニンチョ、オツカレサンサン」
「――あ、ああ。そうだな。引き続き頼む」
「了解チャーン――もう一点、パン焼き竈は一刻も早く用立ていただきますよう重ね重ねお願い申しげます」
「あっ、うん」
「デワノ! アバヨー!」
そういって後を追う自分の『犬』を見送ってもまだ、感情の整理がおぼつかない。
(――いや、違う。この際それは些末なことだ)
寂しい、悔しい、残念無念。感情の正体がどれであろうと、今突き詰めるほどのことではない、と、判断する。
(重要なのは、プブリオの『囲い』が、リョマを上回っていた、ということ。――それは、計画に支障をきたす)
立て直しが必要だ。なればこそ、今このチャンスに少しでもランベルトを見定め、情報を集めなくてはならない。
咳ばらいをして、今一度道場内に向き直る。
「流石だなプブリオ殿。大した指し手だ」
郷腹だが、事実だ。
「プヒヒィ! まったく! 行幸というものだ! 全く流石だわい! のうピウス!」
「ええまったく! いやぁ驚きとはこのことで! このピウス開いた口がふさがりませんで! 世の中には滅法でたらめに想像もつかないような指し手がいるものですねぇへっへっへ!」
「ですな。いやはや。あの異邦人。流石に大したものですな。このランベルト感服の至りというもので」
「「「えっ?」」」
三者三様に、固まる。
「逃げ切られました、完全に」
そういう男の目は、道場の戸を突きささんばかりに、光っていた。
「試合に勝って勝負に負けた。――見切るつもりが、見切られた」
***
「リョマー、ようやく追いついたナ。落ち込むナイナイ。ショーブは時の運。ショーギは指の運っていうナ」
「ぉお、パァチ公ぉ。なんだよオイなんだって俺が落ち込むってぇっへへへぇ」
「……ようやく口キィタと思ったら気持ちワリィナ。なんでワロテンネン。パーナンカー?」
「そりゃあおめえ笑うに決まってら」
将棋は、『詰まされたら負け』じゃあない。『負けを認めたら負け』『続ける意義を見失ったら負け』
「『将棋』ができる。――『将棋』ができる! ようやく、まともに、『将棋』ができるぜ!」
そして今回、俺は、
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