空中散歩劇場

ツカノアラシ

空中散歩劇場

 目を開けると、そこは見知らぬ小さな劇場の中だったと、彼は言ったのだった。


 その日、目覚めると枕元に空色の封筒が無造作に置かれていたのだった。表書きは特に書いていない謎の封筒。それにしても、昨夜、寝る前には確かこんなものはなかった筈だがと首を傾げながら、封を開ける。封筒の中には、夜空の色をしたチケットらしきものと『準備が出来たら、目を瞑ってミシン目に沿ってチケットをもぎって下さい』と書かれた紙が入っていた。不思議なことに、チケットには何も印字されておらず、ただミシン目があるだけ。寝ぼけた頭でチケットの表裏を確かめながら、私はどうしようかと考える。

 このチケットをもぎったら、いったい何が起きるのか。普通なら、何も起こらずに、チケットが二つに分かれるだけだろう。しかし、この時は、根拠はなかったが、何かが起こるような気がしてたまらなかった。何かが起こって欲しいと思っていたのかもしれない。

 身支度をして、部屋の中心でチケットを両手で持つ。目を瞑り、ゆっくりとチケットをもぎる。ミシン目が千切れる音がして、チケットが二つに分かれる感触がした。

 そして、ゆっくりと目を開けると、いつの間にか自分の部屋ではなく、見知らぬ劇場の中に立っていたのだった。

 血のようにどす黒く赤い幕が上がっているのに役者も観客もいない劇場は、耳が痛くなる位静まり返っていた。いったい、どうなっているのか。まるで、夢でも見ているようだと思う。幕が上がった小さな舞台の上には、誰もいず、ただ青空が描かれた書き割りの前に奇妙な機械が置かれていた。

 遊園地にあるポップコーン売りのワゴンを思わせる、奇妙な機械のガラスケースの中身は空で。何となく、残念になる。暫く、どうして良いか解らず立ち尽くしていたが、ふと奇妙な機械に何か書いてある紙が貼ってあることに気づく。いったい、何が書いているのだろうか。恐る恐る近づいてみると、白い紙には『ハンドルを回して』と、書かれていた。

「ハンドルを回して」

 と、私は口の中で繰り返す。ワゴンの横にあるハンドルを回したら、何が起きるのだろうか。何故か、無性に目の前のハンドルを回したくなる。回したくて、回したくて、どうしようもなくなる。

 ごくりと息を飲んで、ワゴンの横にある円形のハンドルの取っ手を握りしめる。

 キーコ、キーコ、キーコ。

 ハンドルは重く、動く度に軋む。

 キーコ、キーコ、キーコ。

 ハンドルを回し始めると、ワゴンから音楽が流れ始める。そして、これ以上はハンドルが回らないと言う所まで回した時だった。

 ガコンと音がなって、ワゴンの上から燕尾服を着て土星の頭をした男が落ちてきた。ガラスケースの中の土星男。ワゴンのガラスケースの中で四肢を縮ませた姿は、何だかとてもシュールに見える。私が驚いていると、土星男はガラスケースの中でじたばたと動き出す。まるで、外に出たいと言わんばかりに。ワゴンがガタガタと音を立てて左右に揺れたかと思うと、上部の蓋がパタンと開いて、土星男はガラスの牢獄から解放された。パタン、パタン、パタン。

「空中散歩劇場へ、ようこそ。ここは、朝昼晩とまる空中を散歩しているかのような気分になれる場所です」

 と、土星男は立ち上がると、両手を広げて言う。気取りきった態度で。それにしても、空中散歩劇とは、いったい何の事だろうか。もしかして、劇場の中と言うだけで、別に劇が行われるわけではないのだろうか。私の頭の中は、疑問符でいっぱいになる。土星男は、私の戸惑いには気づいていないらしい。彼はワゴンから飛び下りると、ポーズを取る。何かのお約束だろうか。土星男は、ポーズを取ったままピクリとも動かなくなった。

 それから、三分位経過しただろうか。土星男はくるりとターンをすると、舞台の奥へ踊るような足取りで向かう。舞台の奥には、写真館に置かれているような背景スクリーンが上から吊り下げられていた。

 そして、

「これが、空です。誰が何と言っても空だと、言い張ります」

 と、土星男は青空が描かれたスクリーンをもったいぶった態度で指差す。確かに、空なのだろうけれど、何かが違うのではなかろうか。私が呆れていることに、土星男は気づいたらしい。彼は慌てたように、舞台の袖に走っていく。これで終わりなのかしらんと思っていると、舞台の袖から白くてふわふわした雲のような椅子を押して土星男が現れた。西遊記に出てくる、筋斗雲のような感じと言えば、お分かり頂けるだろうか。

 椅子を押してきた土星男は、スクリーンから少し離れた所に置くと「ちょっと、待って下さいね」と言って、再び舞台の袖に足早に戻ってしまう。次は何が起こるのだろうか。暫くして、土星男は丸くて小さなテーブルの上に朝焼け色をした紅茶ポットと紅茶茶碗、そして銀色のドーム型をした何か載せて現れたのだった。

 椅子の前にテーブルを置いた土星男は、私の方を振り向くと椅子に座るように指示した。土星男の有無を言わさぬ態度に、私は思わず雲のような椅子に座る。椅子の背もたれは人を駄目にしそうな位に柔らかく、うっとりする位に優しく躯を包みこむ。まるで、雲にでも座っているかのようで。私は思わず、うっとりとする。このまま、ずっと座っていたくなる。しかし、この椅子に座っていると、二度と劇場から抜け出せないような気がしてくる。いったい、どうしてしまったのだろうか。

 私が椅子に座ると、土星男は青空が描かれたスクリーンの隣に直立不動の姿勢になる。そして、土星男は「第一幕、朝焼けの空の下でモーニングセット。雨雲つき」と高らかに宣言して、スクリーンの横につり下がっていた紐を引く。次の瞬間、青空だったスクリーンは朝焼けの色をした空になった。それだけではなく、天井から『空』という字の形をした白いオブジェが、パラパラと音を立てながら幾つも落ちてきて中空で止まる。何か間違っているような気がするが、何が間違っているのか指摘ができない。

 土星男は厳かな態度で、銀色のドーム型の覆いを持ち上げる。すると、ドームの下からは、カリカリになった赤いベーコンと赤いケチャップが掛けられた黄色いオムレツと雲のようなふわふわのパンが現れた。ご丁寧に、添え物のニンジンは太陽の形になっている。美味しそうな食べ物を見て、私のお腹はきゅうと鳴く。そういえば、朝食前だったと思い出す。

 私が食い入るようにオムレツを見つめている前で、土星男は紅茶ポットを大仰に傾ける。コポコポコポ。茶碗に紅茶が満たされる音がした。

「どうぞ、お客様。朝焼け色のモーニングセットをお楽しみ下さい」

 土星男は、紅茶ポットを持ったまま一礼をしながら言う。どうやら、目の前のモーニングセットは私が食べて良いらしい。じゃあ、お言葉に甘えようと、フォークとナイフを両手に構えた時のこと。

 舞台の袖から、灰色の雲に足が生えた何かが登場すると、真っ直ぐ私の方に向かってきた。何となく、嫌な予感がしたのは言うまでもなく。その予感通り、灰色の雲もどきは私の前にやって来ると、雲のようにふわふわとした所から両手を突き出す。右手に鈍い銀色の如雨露、左手にでんでん太鼓。どうやら、目の前の名状しがたき何者かは雨雲らしい。しかも、良く見ると灰色のふわふわした間には、稲光のようなものまでが走っていた。

「ここで朝焼けの空を切り裂いて、雨雲登場」

 名状しがたき何物か、もとい雨雲は甲高いキイキイ声で名乗ると、でんでん太鼓を鳴らしながら、そこら中に如雨露で水をかけ始める。もちろん、私の躯やモーニングセットも例外ではなく。全てが、水の泡になる。恨めしそうに目の前の台無しになったモーニングセットを眺めていれば、「お客様、空と言うものは気紛れですから」と、土星男は気の毒そうに言う。何か違うと、私が憮然としていると土星男は何か思いついたように、ポンと手を叩く。

 そして、

「第二幕。昼の北風と太陽」

 と、土星男は言うと、再び舞台の袖に消えた。次に現れた時には、北風と書かれた大きな団扇と太陽のイラストが描かれたドライヤーのようなものを持って登場する。私の前まで来ると、土星男はいきなり、「お客様、逃げて、逃げて」と、言い出す。その途端、雲のような椅子の両側から、ペダルがにょきっと突き出てきた。ペダルが突き出てきた途端に、土星男は団扇とドライヤーを頭上に掲げて、私の方へ突進してくる。土星男の言葉の意味は、これから襲うから、ペダルを漕いで逃げてと言うことだったらしい。鬼気迫る様子の土星男から逃げたい一心で、わけも解らないまま、私はペダルをキーコキーコと踏む。その途端、雲の椅子は舞台上を走り回り出す。背後に熱風と寒風を交互に感じながら。恐らく、団扇が北風でドライヤーが太陽なのだろう。そして、私が土星男から逃れる為に舞台の上をぐるぐる回り出すと、ご丁寧にも空の文字だらけの天井に、息を吐いている雲と、げらげらと笑っている太陽のオブジェが下りてきたのだった。

 暫くして、第一幕でびしょ濡れになった服が乾く。これは良かったのだろうかと思っていると、土星男がにこりと笑う。土星らしく頭の周囲に一本の輪っか付きのでこぼこした目も口もない顔なのに、何故か笑ったのが解ったのである。

「お客様、空中散歩気分が味わえた上に、お召し物が乾いて一石二鳥でしたね」

 土星男は胸を張る。いや、絶対に、そこは自慢する所ではない。これは流石に、土星男に嫌味の一つでも言ってやろうとした時だった。

「最終幕、星空の下で土星殺人事件」

 と、土星男は宣言するように言うと、また舞台の袖に消えた。次は何が起きるのだろうと思っていると、土星男は舞台の袖からえっちらおっちらと古風な街灯を持ってくる。土星男は街灯をスクリーンの前に置くと、例の紐を引っ張る。すると、スクリーンが闇夜の色になった。同時に『空』の文字のオブジェがするすると天井に引き上げられると、代わりに色とりどりの小さな『星』の字が下りてきたのだった。

 土星男は街灯の明かりを点けると、どこからともなく空色の大きな空の瓶を取り出す。そして、土星男は字を一個ずつ果実のようにもぎ取ると、大事そうに瓶の中へ入れる。

 からん、からん、からん。

 最初は、ガラスにぶつかって硬質な音を立てていたが、数が増えるにつれ、鈍い音へと変化した。『星』の字を瓶一杯に集めた土星男は、『空色の瓶詰め』とラベルを貼ると、お土産ですと私に渡してくる。思わず受け取れば、土星男は満足したように頷き、スクリーンの前の街灯までゆっくりと歩いて行ったのだった。今度は何が起こるのだろうか。私が瓶詰めを抱えたまま、生温かい気分で見守っていると、土星男は口を開く。でこぼこした顔に口はないのだけど。

「あれは満月の夜のことでした。私が星空の下、道を歩いていると、目の前にするすると梯子が現れたのです」

 そんなことを土星男が語ると、私の目の前にするすると梯子が降りて来た。梯子の先には、何があるのだろうか、誰がいるのだろうか。

「梯子から下りてきたのは、昨日の冷えたおかゆで口の中を火傷をした月の男。月の男は、土星男を見るなり鉄砲をドンと撃って彼を殺害したのでした」

 土星男は、朗読をするかのように、そんなことを言う。どういうことだと思っていると、梯子の上から誰かが下りて来た。下りて来たのは、満月の頭をした男。黒い服を着た満月男は、片手に銀色の鉄砲を持っていた。月の男はニヤリと笑うと、問答無用とばかりに銀色の物騒なものを土星男に向ける。次の瞬間、銀色の筒から火花が迸ったかと思うと、ドンと鈍い音がした。

 慌てて、土星男の方を振り向くと、彼は胸を真っ赤に染めて床の上に倒れる所だった。

 土星男のあまりにもあっけない悲劇的な最期。何故彼は、月男に殺されなければならなかったのだろうか。

 思わず立ち上がろうとするが、何故か躯は金縛りにあったかのように動かない。どうしたら良いだろうかと思っていると、月男が大股で倒れている土星男に近づく。そのまま、月男は土星男の躯を肩に担ぐ。どこへ連れて行くつものなのだろうか。

「これでお終い。そう言って、月男と土星男は、スクリーンの夜空の中に消えたのである」

 と、月男は言うと、土星男の躯を担いだまま、スクリーンの中に消える。まるで、スクリーンが窓だったかのように。そして、私以外は誰もいなくなる。無人の劇場に取り残されて、私は当惑するしかなかった。


 少し前に、そんな夢を見たのですよと、彼は言う。ここは、空中散歩劇場。奥行きのある青空の書き割りが森のように配置された舞台の袖から、筋斗雲のような乗り物をキコキコ漕ぎながら現れた彼が手に持っていたのは、ブルーやピンク等の『星』の字が半分以上なくなった瓶。町で貰った空色のチケットをもぎった途端に、妙な劇場辿りついて途方に暮れていた私に向かって、夢のような昔話をした彼は瓶の中から一つ取って差し出す。おひとつ如何ですかと勧められて、私は思わず受け取ってしまう。『月』の字をした彼曰くお菓子は雲のようにふわふわとしていて、マシュマロに良く似ていた。『月』の字を口に放りこむと、「実は瓶詰めの中身を食べたら、こんな風になってしまったんですよ。土星がいるなら、月も必要ですからね」と、目の前の土星男がニヤリと笑いながら言ったのだった。


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空中散歩劇場 ツカノアラシ @tukano_2018

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