鎮まる魂

三津凛

第1話

だらだら生き続けるよりは、よかったんやない。


乾いた冷たささえ忍ばせたその言葉に、私は一瞬だけ怒りを覚えた。

「なんで、そんなこと言えるん」

初ういは私に詰られても微動だにしない。

「誰も希以子の苦しさなんて分かってあげられるわけないやん。生きてることが良くて死ぬことが悪いなんて、そもそも誰が決めたんよ」

薄っすらと笑みさえ浮かべて、初は言葉を続ける。

「むしろ、このまま生き続けることの方がずっとずっと辛かったかもしれんやん。だから自殺したんやないと。希以子は自分で自分の落とし前をつけたかったんやない?あの子らしいやん」

私は話す気力を無くして、初を睨んだ。言いたいことは分からないでもないけれど、あまりにもそれではあっさりしすぎじゃないかと思った。

希以子は鋭くて聡い子だった。その分余計に傷ついて、余計に倒れるような子だった。私と初はそんなところも大好きだったけれど、同じ大学を卒業してからは自然と会うことも減り、一度だけ関東に上京した組でやった同窓会で会ったのが最後になった。

「知っとー?あの子私が蚊を叩いて殺したら、物凄く哀しそうな顔したんよ。…優しい子やった」

「いつから鬱病やったんやろう」

「さぁ、本人もわざわざ言いたくなかったんやろ」

初はもう私の方を見ずに、窓の外を眺めた。夜景が蕩けるように過ぎていく。

初の言うように、結局私は希以子の背中を押した苦しさや辛さを分かってあげることなんてできない。

もし分かってしまったら、とふと思う。

私も希以子と同じように、自分で自分の首を吊るようなことをしたのだろうか。


「まさか葬式で福岡に帰ってくるとは思わんかったばい」

初が困ったように微笑む。微かに泣きそうな顔をしているように見えた。

「年代的には結婚式の方が確率高いけんね…」

私も行き場のない思いを持て余す。

「初は誰か好きな人おらんとね」

「おらん。そういう自分はどうなん」

「おらん」

「人のこと言えんやん」

初と私はそこでようやく笑った。

「希以子はどんな人が好きやったんやろ」

「あぁ、どんな人やろ。あの子そういうことはいっちょん教えてくれんかったやんね」

まだ私たちはかろうじて「若い」と分類される際にいる。

だから一層、自殺の事実が重くて悲劇的になる。80歳で同じことをしてみたら、どうなるのだろう。

「早くお線香あげたいっちゃね」

初が星を見上げて言う。

「自殺した人はちゃんと天国にいけるんやろうか」

「天国も地獄も生きた人間の作ったものやけん、つまらんものやね」

「初は優しいのか優しくないのか、分からんばい」

初は軽く声を立てて笑う。

「ちゃんと優しいところもあるとよ」

「どうやろ」

少し初は黙ったあと、私に向かって言った。

「実はね、希以子に昔聞いたことがあるんよ。もし自分が死んだら、何をして欲しいか。あの子はお気に入りの本を何回も読み返すような子やったやろ?やけん、それも変わってないような気がすると」

「なんなん?」

「私が死んだら、モーツァルトのレクイエムをかけてほしいって言っとった。葬式でじゃなくて、私たち2人で静かに流して、音楽を聞いてほしいっち」

私はまだ聞いたことのない旋律を思い浮べようとする。

初も同じような顔をしていた。

「やけん、付き合ってほしいんやけど」

「うん。嫌っち言うわけないやん」

初はやっと、柔らかな笑顔になって少しだけ涙ぐんだ。


「泊まってよかったん?」

今更ながら、私は初に聞く。

「むしろおってもらわんといけんやろ」

初が笑いながら言う。

人が一人死んだところで、何も変わらない。それで私たちは救われているのか、涙を誘われているのか分からない。関東では馴染みのない方言と音と空気に包まれて、その中で首を吊った希以子の孤独を思う。

「レクイエムっち、死んだ人に贈る曲なんっちね」

初が振り返って言う。

「ふうん、知らんかった」

「ちょっと聞いてみたけど、暗い曲やんね」

「賛美歌みたいなもんなんかね」

うん、と初が生返事をした。

「ひと足先に希以子ちゃんに会いましょう」

初がおどけるように言って、缶ビールを三つ持ってくる。

私は言葉で表現できない優しさがあることを知った。

「希以子はビール好きやったけん」

初が窓辺に缶ビールを置く。

「飲み過ぎたらいけんばい。足踏み外して地獄に落っこちるかもしれんけんね、希以子」

初は淡々として言う。

こういう弔い方もあるのだと静かに思った。初がこういう人だから、希以子も死んだ後に何をして欲しいのか託したのだろうか。

私は結局何もできそうにない。ただ、後ろで立ち尽くすだけだ。

「…私は何もできなかったな」

言う側から、涙が溢れてくる。

私はやっぱり、どんなに辛くてもあの傷つきやすい友達に生きていて欲しかった。希以子のためにも、自分のためにも。

「そうやって、泣いてあげることができるやん」

初の頰は乾いている。

「自殺っち、究極の自己否定っち言われるやん。でもそうなんかな。自分の生き方を肯定するためにする自殺もあるんやない?金子みすゞも自殺したやろ、なんかで読んだわ。彼女の自殺は自己肯定のためだったっち」

私は応えることを忘れて、泣き続けた。

希以子は死ぬことで何を肯定したかったのだろう。なんとなく、泣き続けることしかできない私よりも、初の方がその答えを知っているような気がした。

まだ私は生きることの生温かさの中にいる。


「さぁ希以子、モーツァルトばい。おっしゃれやねぇ。あんたのためにちゃんとCD買ってきたけん。youtubeで再生するとかセコいことせんばい」

初が明るく言う。

死を纏った笛が響いてくる。それにつられて、希以子の魂もここへ降りてくるような気がする。

私はラテン語歌詞をなんとなく調べて、聞き入ってみる。

希以子のための、最期の音だ。


永遠の安息を彼らにお与えください、主よ、 そして絶えざる光で

彼らをお照らしください。

お聞きください、わたしの祈りを。 あなたのもとに、すべての肉体は還ることでしょう……


「ちょっと怖いけど、綺麗やね。希以子みたいやん」

「うん」

本当に魂を導くものがあるのなら、そして導かれるべき魂を私も初も希以子も持っているのなら迷うことが、どうかありませんように。


主よ、憐れみたまえ。

キリストよ、憐れみたまえ。

主よ、憐れみたまえ。


幾重にも祈りが重なっていく。死者の哀しみと、そのための祈りはこれほどまでに巨大なのだろうか。

また私は泣いてしまう。初は身動きもせずにレクイエムを聞いている。

魂を鎮めるための音楽。

不意に純度の高い雪が降ってくるような音が降りてくる。

「ラクリモサって、涙の日っち意味なんやね」

ぽそりと初が呟く。


涙に満ちたその日、

人が灰の中からよみがえり、

罪人として裁かれるとき、

どうかこの者を憐れんでください、神よ、

慈しみ深い主イエスよ、

彼らに安息をお与えください。

アーメン


希以子の魂といつか出会えた時、厳しく裁かれることがないように、今の私たちには祈ってあげることしかできない。

恐ろしいことなのに、不思議とラテン語の響きは優しい。言葉の雫はそのまま涙となって、希以子の魂も包んでくれるだろう。

だから希以子も最期に聞きたいと思ったのだろうか。


レクイエムの旋律はまた冒頭の繰り返しを奏で出す。

全てのものが終わりから始めへと繋がっていく。死んだ後に辿り着く先も、また見た景色だとするならば、希以子は救われるのだろうか。

魂の彷徨う途は、残酷なメビウスの輪のようだ。


永遠の光が彼らを照らしますように、主よ、

あなたの聖徒たちとともに永遠に、

あなたは憐れみ深くいらっしゃいますから。


「救われることっち、あるんやろうか」

私が呟くと、初は静かに頷いた。

「生きてる人たちが、こうして死んだ後でも繋いであげれば、それでいいんやない」

初は泣かなかった。

私も初も希以子のように生きなければならないのかもしれない。初は最初からそれを分かっていたのだろうか。

私は窓辺に置かれた缶ビールと、その向こうの瞬く星を見つめた。

擦り切れるほど繰り返されたラテン語歌詞で呼びかける。


「永遠の光が彼らを照らしますように。あなたは憐れみ深くいらっしゃいますから」





作中引用

W.A.モーツァルト「レクイエム(死者のためのミサ曲)」


入祭唱安息を永遠の安息を彼らにお与えください、主よ、 そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。 神よ、シオンで賛歌を献げるのはあなたにふさわしい。 あなたに誓いの供え物がエルサレムでささげられるでしょう。 聞いてください、わたしの祈りを。 あなたのもとに、すべての肉なるものは来るでしょう。 永遠の安息を彼らにお与えください、主よ、 そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。


キリエ

主よ、憐れみたまえ。

キリストよ、憐れみたまえ。

主よ、憐れみたまえ。


涙の日

涙に満ちたその日、

人が灰の中からよみがえり、

罪人として裁かれるとき、

どうかこの者を憐れんでください、神よ、

慈しみ深い主イエスよ、

彼らに安息をお与えください。

アーメン


聖体拝領唱

永遠の光が彼らを照らしますように、主よ、

あなたの聖徒たちとともに永遠に、

あなたは憐れみ深くいらっしゃいますから。




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鎮まる魂 三津凛 @mitsurin12

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