番外編

回想話 情人節のヴィーシャ

 年中無休状態で業務が回り続けるザラマンダー・エアー・サービス社にも、時折忙中閑あり、といった空いた時間が生じることがある。

 そんなふとした時間にカレンダーを眺めていたら、社長に気遣われてしまった。

「どうした? 休暇の検討かね?」

 そう尋ねてくる社長は、微妙に喜ばしそうだった。

 カンパニーの下請け民間軍事企業、という業態にもかかわらず、ZAS社は福利厚生が充実している。社長に言わせれば〝だからこそ〟なのだというが。高度な技能を持った人材を優遇しなければ人材流出を招き、事業継続性が危うくなるとか。

 部下としては一体何の心配をしているのか不思議でならないが、そのような社長の信念に基づき、有給休暇消化率などはしつこく注意される傾向にある。

『まったく、うちの社員ときたら仕事中毒ワーカホリックが多くて困る』

 普段からそうボヤいて憚らない社長からしてみれば、自主的に休暇計画を考えている社員は歓迎すべきものなのだろう。

 もっとも当の社員たちに言わせれば、七日に一日も完全休養日が与えられるのであれば東部より遙かに楽だという意見が支配的であり、このように無理矢理休暇を押し付けてくる社長の姿勢を何かの策謀ではないかといぶかる向きもないではない。某部長が『上級管理職になれば有給取得の必要がなくなるからな』と発言したことにより、あれは上級管理職を目指せという遠回しの圧力であるとの通説が流布しつつあった。

 とまれ、そんな環境だったから社長秘書が自らの意思で休暇を取るのだと勘違いした社長が喜色を浮かべるのも已む方ないところであったが、ヴィーシャは期待を裏切ることを後ろめたく思いながら、正直に告白せざるを得なかった。

「いえ、単にその……もうすぐ情人節バレンタイン・デーだな、と」

 うっかり憂い顏を浮かべてしまい、それを見た社長が一秒ほどの硬直の後に、深刻な表情に切り替わった。

「まさか……社員の男共から何か要求されているのかね? 要対処案件か?」

「え? いえ、そういうわけでは……」

「そうか。それなら良いのだが……ということは、深刻そうなのは本命へのプレゼントだからかね?」

「ち、違います!」

 プライベートには踏み込まないが配慮はするぞ、と当日と前日に休暇を入れようと言い始める社長を慌てて押し留める。

、今のところ誰からも贈り物を届けられる予定はありません!」

「……?」

 発言の意味が摑めずに微妙に目を眇めたのを、咎められたのだと勘違いしたヴィーシャはさらに言葉を付け足す。

「今は大丈夫です。新大陸こちらに渡ってきたばかりの頃は、新大陸の風習に疎くて少々トラブルになりまして……昔の話です」

 ああ、なるほど、と社長の瞳に理解の色が浮かぶ。

「所変われば、微妙に習俗が異なっていたりするからな」

 バレンタインにはチョコレートを贈る風習のある土地もある、と軽く続いた言葉に、ヴィーシャは感心した。

「チョコレート。それは平和でいいですね」

 きっと愛と和解を主題とした贈り物に違いない。

 なんと素晴らしいことか。

 それが、この国ときたら。

 この国に渡ってきて最初の冬のことを、ヴィーシャは思い出していた。


 まだ駆け出しの代書屋稼業。心理的余裕もあまりなく、毎日一杯一杯になっていたあの日。

 その日の営業を終えてさあ帰ろうかとボックスに鍵をかけたところに声をかけられた。

「あんたがヴィーシャさんか?」

「はい?」

 振り向けば制服警官を連れた、私服の男性。見たところ、刑事のようだった。

「ちょっと話を聞かせて貰いたいんだが。前は違うヤツがここで仕事してたろう?」

「ええ、はい、始めたのは結構最近です。前の人からは、公正な競争でシェアを奪いました」

 そう答えつつ書類入れからグリーンカードを取り出そうとするヴィーシャを押しとどめて、刑事は鷹揚に言ったものだった。

「まあ、詳しい話は署で聞くよ。ここは寒いしな」

 親指で指し示す背中側に、黒い警察車輛がエンジンをかけたまま停まっていた。

「……逮捕ですか?」

「任意だよ。拒否しても罪にはならんが――まあ、心象は悪くなるな」

「はあ」

 ヴィーシャ自身には何一つ後ろ暗いところはなかったが(何しろ偽装カバーは完璧だ)、断って警察の不興を買うのも後々響きそうだと判断し、促されるままに車の後部座席に乗り込んだ。

 左右を制服警官に固められた時も、特に危機感は覚えなかった。

 違和感を覚えたのはようやく車が市街地ではなく、倉庫街へ向かっていることに気づいた時だった。

「あの~、警察署こっちじゃないですよね?」

「よく知ってるな。臨時の分署があるんだよ」

 しかし助手席の私服刑事にそう言われると、そういうこともあるのかと納得してしまう。

 間の拔けた話だが、後で思えば、制服を着た人間に対する警戒心が微妙に足りていなかったのだろう。

 ようやく危機感を抱いたのは、車から降ろされた後だった。

 そこには臨時の分署などというものは影も形もなく、見るからにただの倉庫だった。

「えーと……」

「お嬢ちゃん、こんなこと言うのもなんだが、もう少し人を疑うことを覚えな」

 続いて車から降りてきた男たちの手には、黒光りする短機関銃トミーガン

「あなた達、本物の警官ではありませんね!」

「名推理だ」

 馬鹿にしきった声音で男たちが嗤う。

「お嬢ちゃん、あんたやり過ぎたんだよ」

 いくらヴィーシャが正当な市場競争でシェアを奪ったのだとしても、この街では市場のルールよりもが幅を利かせる。

「新大陸じゃ情人節バレンタインにゃ鉛弾の贈り物で血の雨が降る。次の機会があったら憶えておきな」

 四つの銃口が、一斉にヴィーシャに狙いを定めた。

さようならアッディーオ

 イルドア語の挨拶を搔き消して静寂しじまつんざく銃声の連弾。発砲マズルフラッシュいかづちの如く夜闇を切り裂き、硝煙が霧のごとく立ち込める。銃弾が弾け、薬莢が地面を叩く金属音。

 ほんの一分足らずの演奏が終わり、閃光と轟音に叩かれた耳目が平常に戻るまで、男たちは暫し余韻を楽しんだ。

「女を殺すのは後味が悪くていけねぇな」

「しかしアイツら、こんな間拔けな女にシマを奪われるとはね」

たらし込まれたんじゃねぇのか」

「確かに殺すのが惜しい上玉ではあったな」

「とはいえ、四五口径で穴だらけじゃ上玉も何もあったもんじゃ――」

 ふと死体のある方を見れば、ズタズタになったコートが目に入った。払い下げ品だろう、軍用の厳ついコートだったが、しかしが見えなかった。

「ん? おい、死体はどこだ?」

「何言ってんだ? 死体なんて――」

 ゴスッ、と鈍い打撲音と共に、一人が崩れ落ちる。

「ご忠告感謝します。二度と忘れませんとも!」

「な⁉」

 ゴツッ!

 二人目がやられる間に泡を食って銃を向けて引鉄を引くが、カチン、と弾切れの合図。そしてその眼前に急速接近する光る物体。

「ショベルだと⁉」

 ガッ。ガッ。

 汚れたショベルを一振りして血を払うと、敢えて手加減しておいた息のある男を引きずって車へ向かう。

 てっきりこの地ではヴィーシャにとって馴染みの薄い市場競争がルールだと思っていたが、一皮剝けば大変馴染み深いやり方が伏流していた。

 さあ、反撃の時間だ。

 中佐殿の教え通り、反撃は素早く、そして徹底的に、だ。

 その年の情人節バレンタインに流れた血の量は、かつての虐殺を遙かに上回ったという。


 楽しいとは言い難い思い出話を、ヴィーシャはため息で締めくくった。

「特に気に入っていたわけじゃなかったんですけど、少尉任官時に仕立てた思い入れのあるコートだったんですよ」

 兵卒・下士官とは違い、士官の被服は自弁が原則。仕立て屋を呼んで軍服一式を揃えた時は、その着心地に感動したものだった。

 その時仕立てたコートは、その後大戦を共に潜り拔けた、言わば戦友だった。泣くほどではなかったにしろ、悲しいと感じるくらいには思い出の詰まった一品だった。

 それから毎年、情人節には失ったコートのことを想い、一層周囲の安全に気をつけてきた。怪しい動きを察知すれば、先制攻撃も辞さなかった。

「今年は何事もなければ良いなぁ、って、そう思うんです」

 心の奥底から、彼女は平和を願った。

 その願いがどこへ届いたのかは定かではなかったが。

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