第32話 連絡員ヴィーシャ
カランコロン、とドアベルが鳴ったので「いらっしゃいませ」と呼びかけながら顏を上げたら、客じゃなかった。
「なんだ、グランツか」
「ひどいなぁ」
くたびれたスーツ姿のグランツが客の姿のない店内の待合席にどっかりと腰を下ろす。
シャベルのマークの代書屋さん、は時代の変化に取り残され、閑古鳥が鳴くのがすっかり常態になりつつあるが、それは意図的に演出されたものだ。
今や代書屋業は表向きの偽装であり、その実態は〝原初の大隊〟の連絡所だ。一般人が不用意に接触してしまわないように、いろいろ気を配っている。
「はるばるアルジェンナから帰って来た同僚に、ねぎらいの言葉もないのかい」
「はいはい。お疲れ様」
珈琲を淹れてあげるね、と言って席を立つ。
「それで、どうだった?」
「残念ながら空振りだった。ヴァルデン軍団の残党とは接触できたけど、もう一方の方は」
「そう」
給湯室から珈琲を持って行くと、グランツは取り出したフラスコからブランデーと思しき液体をごそっと自分のカップに注いだ。
「戦友に」
「戦友に」
ヴィーシャも自分のカップを軽く持ち上げて唱和。
何を見てきたのか一々問わないが、後で辛い報告書を読むことになるんだろうな、とヴィーシャはぼんやりと思った。
「
早く中佐殿が行動を起こしてくだされば良いのに、とグランツは
安心してこんな話ができるのは、この街だけだ。この街の防諜に関しては、まず完璧だと言って良い。なにしろ眼の前にいる人物が防疫官だ。手抜かりのあろうはずがない。
その防疫官はグランツの愚痴にいつもの如く応える。
「まだ準備期間だよ。分かってるでしょ」
「それは分かってる。分かってるけどね」
中佐の意図を疑う者など〝原初の大隊〟には皆無だ。皆、
それでもバルバロッサ司令部や中佐殿の目として耳として世界を飛び回らされている身としては、思うところもあるのだ。
「中佐殿からは、何か?」
「相変わらず時々指示が来てる。今度は〝はんどーたい〟だって」
「
「私に聞かないでよ。学はグランツの方があるでしょ」
中佐殿の工作は多方面に及び、〝次の戦争〟に必要な諸要素技術に次々と手を付けている……のだが、ヴィーシャには理解の及ばないものも多い。特に昨今の電気関係は本当によく分からない。
秋津島の自動車会社や光学機器メーカーくらいならまだ理解の範囲内なのだが、炭酸飲料会社とかだと関係性は全く読み取れなくなる。
自分たちの能力の限界を感じるところだ。
「はあ、中佐殿は本当に底が知れないな。俺も大学にでも行った方が良かったのかも」
「入れるの?」
「失敬な。こう見えても士官学校卒だぞ」
帝国の魔導士官学校は確かに名門だった。たとえ戦時の短縮過程で促成栽培されていようとも、だ。だが、残念なことに一般教養は完全に切り捨てられていたため、通常の大学へ入り直すには些か厳しいものがあった。
「そういえば、ヴァイス少佐、また転職したって」
「また? あの人も長続きしないなぁ……前はなんだっけ? 駐車場の整理係だっけ?」
「ロードサービスだよ。もうそれは前の前でしょ」
悪い人ではないのだが、どうにも軍人稼業が骨の髓まで染み込んでしまって、一般社会に馴染めないのだ。仕事振りは真面目なのだが……。
「まあ、点検しない自動車に触るのは俺も怖いけどさ、毎回爆発物チェックしてたら、そりゃ怒られるだろ」
「どこか良い就職先があると良いんだけど」
毎回手配するヴィーシャとしても、溜息が隠せないところだ。
「中佐殿にご相談した方が良いんじゃないか。あのままだと少佐の精神に問題が生じそうだし」
「そうね。今度相談してみる」
カランコロン、と再びドアベルが音を奏で、二人がふっと振り向いた先に、噂をすれば影、空軍士官の制服を纏った上司の姿があった。
「いらっしゃいませ、シャベルのマークの代書屋さんへようこそ!」
弾かれたように立ち上がる二人に座れと手で示し、帽子を取った彼女はなんでもないことのようにこう告げた。
「退役することにした。
思わず顏を見合わせた後、二人は背筋を伸ばして敬礼した。
「ライヒに黄金の時代を‼」
その時が来たのだ!
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