第31話 ヴィーシャと敬愛する上司

 鮮やかな青のジャケットに、うねる線が特徴的な見慣れない肩章。ブラウスの襟には青のタブ。翼を広げた鷲の紋章の入った青の制帽。

 制服のようだったが、ヴィーシャが将校過程で習った敵味方識別の知識にない制服を中佐殿は纏っていた。

「中佐ではない。今はただの学生カデットだ」

 少し置いてから、気付いたらしく、改めて名乗った。

「ああ、そうだった。初めまして。私はターシャ・ティクレティウス。空軍エアフォース士官学校アカデミー学生カデットを務めております」

 中佐殿がさっと背筋を伸ばして敬礼してくる。思わず答礼しそうになって、上げかけた手をうろうろさせてしまう。そんなヴィーシャに問いが投げかけられる。

「お名前を伺っても?」

「え、えーと……ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフです。誓約同盟から来た移民です」

 お互いにカバーの身分を交換して、改めて中佐に席を勧め、ヴィーシャは素早く店を閉店にし、鍵をかけてカーテンを閉めて回る。

「ちょっと待っててくださいね!」

 奧の給湯室に飛び込んでポットを火にかけ、急いで密閉瓶から焙煎済みの豆を取り出し、コーヒーミルをがりがりと回す。慣れ親しんだ作業なのに、こんなにも心躍る。

 ペーパーフィルターと粉をセットしたドリッパーをサーバの上に載せ、鶴口のポットからしずしずとお湯を垂らせば、たちまち芳醇な香りが給湯室から店内に流れ出す。

「ん……」

 端然と椅子に腰掛ける中佐殿が目を閉じて鼻を動かす様が、見なくても手に取るようにわかる。

「お待たせしました」

 トレイにサーバとカップを二つ載せて戻れば、射るような目がサーバに注がれる。

 ことさら丁寧に淹れたわけでもない普通の珈琲だったが、カップを持ち上げた中佐殿の瞳は、うっとりと実に愛おし気だった。

「合州国は」

 カップに口をつけてから中佐殿がしみじみと語る。

「合州国は物資に不自由していないせいか、品質へのこだわりが鈍いのが欠点だな。惜しみなく珈琲豆を泥水に変えて顧みもしない」

 そんな愚痴を零す中佐殿に、ヴィーシャはそっとお代わりを注いで差し上げる。

「ああ、ありがとうセレブリャコーフ中尉……じゃなかった、セレブリャコーフくん」

「いえ、どうか中尉と呼んでください!」

 直立して、踵を鳴らす。

「私は常に、いつまでも、永遠に、中佐殿の副官です!」

 呆れた眼差しを向けられたが、噓偽りなき本心だ。疑念を抱かれるのは心外というもの。副長や、恐らくグランツあたりでも似たようなことを言うに違いない。

 溜息一つ吐いて中佐は受け容れることにしたようだった。

「……それにしてもセレブリャコーフ中尉、私は君を故郷のご家族の元に帰らせたと思ったのだがね」

 再会に喜んでいた頭がさっと冷える。そうだ。特務に従事するにあたって、中佐殿は身寄りのない者を選抜し、家族・係累のある者は可能な限り帰郷できるよう手配されていた。

 かくいうヴィーシャもその一人。それが今や合州国に流れつき、中佐殿のご配慮を無にした格好になっている。

「え、えーと、色々ありまして……そう! 故郷の町が連邦兵に襲われて壊滅してしまいまして!」

「なに? 君の故郷は確か合州国の統治圏内だったろう?」

「は。それがその、彼らは越境して非道を働いており、私の故郷も運悪く」

「そうか……それは不幸なことだったな。もう少し私も気を配っておくべきだった」

「いえ、そんなことはありません! 中佐殿の配慮のお陰さまをもちまして、町は〝最悪〟を避けることが叶いました」

 中佐が持たせてくれた演算宝珠は、故郷を助けるのに大変役だった。

 悲しい結末にはなったが、落とし前は付けた。

「それで新大陸にまでやって来て、今度は自警団ビジランテか」

「いえ、それは副業サイドビジネスでして、本業は代書屋です」

「そうなのか? 街で自警団のリーダーの家を教えてくれと言ったら、皆ここを教えてくれたぞ」

 そう言って中佐は新聞の切り抜きを取り出した。

 それはマフィアの大ボスが脱税の実刑判決を受けたことを伝える記事で、中には財務省捜査官の談話に加え、捜査に協力し大活躍したうら若き乙女に率いられた自警団の話が盛りに盛られて書き散らされていた。

「やだ、中佐! そんなものは見ないでください!」

 慌てて奪い取ろうとしたがすっと記事はポケットに戻っていく。

「ああ、恥ずかしい。そんなんじゃないんですから!」

「ともあれ、こうやって有名になってくれたおかげで、私の目にも留まったわけだ」

 そう言われれば、それはそれで良かったのかも知れない。いや、なんというか、再会はもうちょっとしっとりした感じが良かった。

「他にも、あちこちから矢のような催促があったがな」

「催促、ですか?」

「まあなんだ。管理責任とか、そういう話だ」

「はあ……?」

「あまり連邦政府職員をいじめてやるな」

「財務省とは、適度な距離を置いておりますが?」

「ああ、うん。貴官はいつも自然体ナチュラルだな」

 中佐殿は珈琲を飲み干すと、さて、と話題を改めた。

「派手にやり過ぎた」

「はッ。申し訳ございません!」

 言われてみれば、中佐殿は身分を捨て、カバーを得て潜伏しておられたのに、元部下の不始末に駆り出された形だ。己の不甲斐なさ、至らなさに、赤面する他ない。

「だが、悪くはない。次からはちゃんとコミーを相手にし給え」

「心します!」

 そうか。自警団は確かに地元密着型組織。赤狩りには力を発揮することだろう。自警団の教育課程の見直しを心のメモ帳に書き留めておく。

「それから、今後は私からの指示で動いてもらう。勝手な動きは慎むように」

「喜んで!」

 まだカバーが剝がれていない中佐殿の代わりに、報道に露出してしまった自分が陽動的な動きや表向きの任務をするのだと即座に察せられた。また大隊のために働けるのなら、望むところだ。

 胡乱気な面持ちでこちらの返事を受け止める中佐の(なんでこいつはこんなに嬉しそうなんだ?)という内心の声など、推し量れるはずもなかった。

「あと、私の私的な代理人も引き受けてくれると嬉しいが、これは任意だ」

「代理人、ですか? なんでです?」

 心底不思議そうに尋ね返してくるヴィーシャに、中佐は両手を広げて見せた。

「今の偽装身分カバーはまだ未成年でね。色々と不自由なのだよ」

 びっくりして、まじまじと中佐を見つめ返してしまった。言われてみれば、以前よりは成長しているが、確かに見かけはまだ子供の枠内に入る外見年齢だった。

「中佐殿、まだ未成年でいらしたのですね」

「いらしたのだよ!」

 合州国から貰った巨額の資産を運用するにもが毎度要らぬ詮索をしてくるのだ。これを成人の代書屋に代理人を変更すれば、煩わしさから開放される。

「ふふ。わかりました! 私が、中佐殿の法定代理人になりますね!」

「まあ、書類は面倒だろうが、引き受けてくれるならありがたい」

「お任せください」

 こういう案件について、幸いにも財務省にコネがある。口利きを依頼すれば否とは言わないだろう。

 色良い返事に安心したのか、中佐がテーブルの上に置いていた制帽を取り上げた。

「あれ? 中佐殿、昼食は食べていかれないんですか? なんならお泊まりも大丈夫ですよ?」

「学校がコロラドスプリングスでね。明日の門限までに戻るには、そうそう長居もできないのだよ」

 なんでもフィラデルフィアで開かれた国のなんとか委員会を傍聴するためにわざわざ許可を取って東海岸までやってきたついでに足を伸ばしたものらしい。

「暫く連絡は電信経由だ。戦闘団の暗号形式は忘れていないな?」

「勿論です!」

「よろしい。では健闘を祈る」

「はッ! 中佐殿もご壮健で!」

 ここ暫く感じていた今の生活への違和感が、融けるように消えていく。

――ああ、やっぱり私の人生には、中佐殿が必要なのだ。

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