第27話 ネゴシエイション・ウィズ・ヴィーシャ

 その日、忙しい中を縫ってヴィーシャが訪れたのは、市内にある超高級ホテルだった。多少気後れしながらロビーに入ると、ホテルマンが恭しく出迎えてくれ、女性従業員の手でボディチェックを受けた後、専用エレベータに案内され直通で最上階に。

 降りるとそこは小さなエレベータホールだけの小屋で、正面に大理石でできた玄関が聳えていた。

「うわぁ」

 見渡せば、庭園。

 どうやらホテル屋上のペントハウスらしかったが、周囲は緑に囲まれ、まるで郊外の別荘地のようなおもむき

 出迎えに来た黒人メイドに連れられて、玄関を通らずに庭園を回り込み、屋敷の反対側に回ってみたら、今度はプールがあった。

(お金ってあるところにはあるんだなぁ)

 自分の持ってる宝珠何個分くらいだろうか、などと馬鹿なことを考えながら導かれるままにプールサイドまでやってきたところ、ビーチチェアに寝転がる男性の姿が目に入った。

 イルドア系らしい毛深い体の鍛えていない腹は弛み、サングラスで目元は隠しているが頭の方は大分寂しくなっている、初老の男性だった。

「お客様をご案内しました」

「おう、下がれ」

 ドスの効いた声に普通なら威圧感でも感じるところなのかもしれないが、不幸なことにヴィーシャには何も感じるものがなかった。

 制圧まで一秒要らないかな、なんて感想を抱かれているとは露知らず、男はサイドテーブルの向こうのもう一つのビーチチェアを指す。

「座りな、〝シャベルの〟」

「遠慮しておきます」

 このおっさんがいなければプールを楽しむのも吝かではなかったが、なにせシチュエーションが悪い。

 こういうところは、気の置けない友人や敬愛する上司と共に来るべきところだろう。

「ふん……。アンタんとこに逃げ込んだウチの会計士、どうするつもりだ?」

 呼び出しの用件はそういうことだったらしい。手紙一つで済むだろうに、足を運ばせる辺りが貫禄なのだろうか。とは言え、ヴィーシャとしては特に考えることはない。

「入団希望ということでしたので、希望通りに」

 今ごろ、他の団員たちに尻を蹴飛ばされながら一緒に五マイル走に精を出していることだろう。

 男がふーっ、とわざとらしい溜息を吐く。

「なあ〝シャベルの〟。軍隊帰りで腕に覚えがあるらしいが、世の中上には上がいるってこと、知らないわけでもあるまい?」

「勿論です。忘れたことなどありません」

 あの景色を、鈍色の空の下で黄金の髪を靡かせながら歌う中佐殿の神々しい姿を、忘れたことなど一度たりともない。幾多の敵兵がちりあくたのように散っていく様を、どうして記憶から消せようか。

 自分の少々の強さなど消し飛ぶような絶対的強者がこの世界には存在する。

「分かってるなら良い。俺もアンタみたいな若い娘が酷い目に遭うのは心が痛む」

「ええ、本当に」

 戦争は悲惨だ。

 あの地獄の時代が終わって漸く訪れた平和を、ヴィーシャは大切にしたいと心底思う。

「じゃあ返事を聞かせてもらおうか。会計士ごとウチの傘下に入りな。悪いようにはしねぇ」

「お断りします」

 断ることに、なんの迷いもなかった。

 彼女から見て、この人物は仕えるに足る人物には到底見えなかった。あるいは何かしらの器量は備えているのかも知れなかったが、ヴィーシャからしてみれば〝軟目標〟以上の存在ではなかった。

 それに、なんといっても。

「違法行為は良くありません。事業は合法的リーガルにやるべきです」

 彼女はそう教えられたのだ。

 呆気に取られる男を前に、ヴィーシャは一礼してきびすを返す。

 グレーまでは良い。法を適切に解釈するのも可だ。だが、黒は駄目だと、人一倍規律に厳しかった中佐殿。彼女は今でもヴィーシャのお手本だ。

「威勢の良いことだな。だが後悔するぞ!」

 後悔、か。

 戦争が終わってからこっち、私の人生は後悔だらけだ。

 中佐とともに空を駆けていたころは、後悔などとは無縁だったのに。

 ああ、自分は駄目だな、と思うのはこんな時だ。

 油断していたつもりはないのだけれど。

「やれ!」

 急速に膨れ上がる魔導反応が爆裂術式の形を取ってヴィーシャに叩きつけられた。

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