第3話 ヴィーシャのキッチン

 結局周囲を三周してバラックに戻ると、母と叔母がようやく起きだして来たところだった。

「おはよう!」

「おはよう、ヴィーシャ。あらあら、早起きしたのね」

「あの寝坊助ヴィーシャが早起きなんて。雨でも降るのかしら」

「やだなぁ。そんなの子供の頃の話じゃない。こう見えても将校だったんですからね。寝起きはしっかりしてます」

「そうよねぇ。将校さまだったのよねぇ……。手紙では聞いていたけど、どうも実感がなくて」

 親の世代にとっては、将校イコール貴族、という意識が強いらしく、娘が将校になったと聞いて、喜ぶよりも戸惑いが先に立つようだ。

「もう、今は別に将校だからって特別な時代じゃないんだよ。それに、もう軍隊なくなっちゃったしね」

「ヴィーシャがもう二度と戦争に行かなくて済むなら、それも悪くないわ」

 母はそう言ってくれるが、貰えるはずだった給料や年金がどうなるのか、ヴィーシャとしては心配でならない。この調子では、期待薄だろうか。

「水汲んで来るね!」

 桶を摑んで水場へ向かう。同じように水汲みに向かう人の群れに混じり、かつてのご近所さんを見つけては挨拶をしたり。

「おやまあ、セレブリャコーフさんとこのヴィーシャちゃんかい!」

「無事に帰ってこれたのね」

「上司と戦友に恵まれまして」

 声を交わすのはほとんどが年嵩の女性で、僅かな男性はみな足元も覚束ないような老人だ。若い女性は工場に駆り出されたのだとか。

(本当に根こそぎ動員したんだな……)

 近所のおじさんも幼馴染もそのお父さんも、みんないなくなってしまった。

 軍にいたときにはなかなか気づかなかった、銃後の様相。

 出征した男達、徴用された男女のうち、一体何人が戻ってくるだろうか。徴用された娘たちがどこの工場で働いているのか、殆どの人は知らないのだという。手紙が届いたが文字が読めなかった、という人もいた。

「後で読んであげますよ」

「それがねぇ、家の中なのよ」

 つまり、あの瓦礫の下ということか。

 壊れた家の撤去はしたいが、男手もなく、作業は遅々として進んでいないため、あの有り様なのだという。

「工兵隊が動員できればなー」

 小川から汲んだ水を運びながら、ひとりごちる。

 排土板ドーザーを付けたトラクターが素晴らしい勢いで滑走路を作る様をヴィーシャは見たことがあったが、ないものねだりだ。今や軍隊は解体され、兵士たちの多くは捕虜収容所暮らしを強いられている。

「仕方ない、か」

 そんな諦めを、あの人はきっと許すまい。

 川とバラックを何往復もして水樽を満たし、浄水剤を投入したところで、母と叔母が「今朝は配給がなかったわ」と言って帰って来た。昨日の残りと缶詰があるが、これだっていつまでも保つものじゃない。

(食料調達も課題だね)

 心のメモ帳に追記。

 ともあれ、朝食にすることとして、バラックの前の石を積んだだけの竈に薪を組み、焚き付け用にとシャベルの刃で薄く削いだ木片にオイルライターで火を点ける。

「あら、洒落たものを持ってるのね」

「このライター凄いんだよ。風が吹いてても火が消えないの」

 薬莢のようなデザインのボディに円形の火打ち石がついたライターは、兵士の友だった。煙草は吸わないヴィーシャだったが、着火具として手放せなかった。

「ヴィーシャがお鍋を見つけてくれて助かったわ」

 叔母がそう言いながら、昨日の配給の残りを入れた鍋を火にかける。

 地べたに座ってシャベルで火の具合を調節していると、まるで戦地にいるような、落ち着いた気分になってくる。

なごむなー」

「随分手慣れてるのねぇ、ヴィーシャ」

「あ、うん。こういうのは、軍隊ではいつものことだったから」

 野営で火を起こして、ヘルメットを鍋にして食事を作るなんて日常茶飯事だった。

 温食は人の心を豊かにする。

 これまた昨日開けた缶詰ソーセージの残りをシャベルの上で炒めて母と叔母に分配する。

 二人が何故か微妙な表情を浮かべるのを見て、もしかして昼か夜に回す予定だったのだろうか、と慌てたが何も言わずに食べてくれた。

「それで、今日はどうするの?」

 食事が終わった所で背囊から豆を詰めた瓶を取り出しながら訪ねてみる。

 母と叔母は、川に洗濯をしにいったり、午後の配給に並んだりする気らしい。

 ふうん、と煎りパンに豆を少し乗せ、残り火で煎り始める。

「私はさ、家の方を片付けようかと思ってるんだけど」

「道具もなしじゃ大変でしょうに」

「大丈夫。コレがあるし!」

 そう言ってシャベルを燦めかせれば、叔母が昨日あったことを母に説明するがどうにも半信半疑なご様子。

 なかなか信用ないなー、とか思いつつ、焙煎が終わった豆を冷ます間にコーヒーミルを取り出す。

「ねえヴィーシャ、あなた何をしてるの?」

「何って……コーヒーを淹れようかと……あ」

 しまった。なんということか。いつもの癖で。

「あー……お母さんも叔母さんも、コーヒー飲む?」

 呆れ顔の二人に、たははと笑いながら、一人でブラックコーヒーを消費するヴィーシャだった。

 心の中で何処かにいる上司に謝りながら。

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