第8話

 ――日曜日 


 和也はふと何かが触れた気がして目が覚めた。はて、なんだろう。寝ぼけまなこをこすると、和也を見下ろすように、ユミがにっこりと微笑んでいるのが見えた。

「和也さん、おはよう」と、ユミが挨拶をするので、おはよう、と返そうとした和也の唇がさっとふさがれた。軽いキスである。まったく予想していなかったので和也はキスに驚くのだが、寝起きのせいか気の利いたセリフがまったく思いつかない。


「お、おはよう。ユミちゃん」としか言えなかった。

「へへへっ。和也さんに、おはようのキスをしたかったんだ」

 朝から愛情のこもった嬉しいセリフのユミに、半ば寝ぼけていた和也の気分は一気に高揚した。カーテン越しの光に照らされて、彼女のセミロングの髪がきらきらと光っている。


 時計を見れば九時四〇分。昨晩はユミのことを考えていて、何時に寝たのか覚えていないが、きっと六時間以上は寝ているだろう。

「ありがとう。起きるよ!」

「食材がないから、朝ご飯を作れなかったけれど、コーヒーはれてあるよ」

「ありがとう。さっそくいただくよ」

 コーヒーを飲まないと一日が始まらない、といっていいほどのコーヒー党の和也にとって、淹れたてのコーヒーは最高の贅沢だ。顔を洗ってダイニングテーブルに和也が向かうと、さっとユミがコーヒーカップを出してくれた。本当に気が利いて心地がいい。まさに痒い所に手が届く様子で、和也の気分はさらに高まる。ユミはダイニングテーブルの和也の向かいに座って、安らかな笑みを浮かべて和也を注視している。


「どうした? 俺の顔になんかついてる?」

 物言いたげなユミの表情に和也は尋ねた。ユミは、昨日買った部屋着用のシャツワンピースの上に、ニワトリのイラストが描かれているエプロンを着ている。

「私が和也さんのお嫁さんだったら、こんな朝なのかな、って思ってんだ」

 ユミと夫婦だったら本当によかった、と和也はしみじみ思う。だけどユミは幽霊だから、和也どころか誰とも結婚できない。突きつけられた現実に和也の胸が激しく痛む。


 ――だがユミが生霊の可能性もある。

 和也は一縷いちるの望みに賭けたくなった。手がかりは現時点で、ユミの元カレと親友だけ。彼らの名前さえ思い出せば――何かが分かるかもしれない。自分の記憶力のなさを和也は呪った。


 ユミの抜群な記憶力が自分にもあれば、と考えたところで和也はユミに尋ねる。

「ユミちゃんは記憶力に自信がある、っていってたよね? いろいろな物事を記憶したり、思い出したりするコツはあるの?」言葉を選んだだけに、さすがのユミでも元カレや親友と質問は結びつかないだろう。


「うーん、そうね。まず人間の脳の記憶容量は、理論上無限大と言われているの。俗にいう『頭のいい人』も『頭の悪い人』も老若男女ろうにゃくなんにょ含めて全員、基本的に無限大なんだよ」

 和也は意外なことを教えられて、感嘆の言葉しか出ない。

「へえ。そういうものなんだ?」

「うん。それから一旦覚えた物事――長期記憶というタイプの記憶は、忘れているようだけど、実は思い出せないだけだったりするんだ」

「と言うと?」

 和也はユミの言っていることが、よく分からなかったのでいた。


「例えばね。ある人の顔を見て、知り合いなんだけど、名前が出てこないときってない?」

「あるなあ」

 和也は即座に同意する。

「そういうケースで、他の誰かにたとえば『あの人は中……』と言われた場合に、『中田さん』だ、と分かるときがあるでしょ?」

「ああ、あるなあ。ははは」

 ユミのたとえに思い当たる節があって、和也は苦笑した。


「『中島』でなく『中山』でもなく『中田さん』と分かる事実が、『忘れたわけでなく思い出せないだけ』の証明になるでしょ?」

「確かに、忘れていないね」


「私は、物事に『検索タグ』を、うまく付けられて、うまく検索できる能力が、記憶力の良さだと思うんだ。だから、一つの事を覚えようとしたら、なるべくいろいろな関連付けをして覚えるようにしている。そして、もし思い出せなかったら、何度も覚え直すようにしているんだ」

「なるほどな。検索タグに、繰り返しが記憶力なのか……」

 ユミの説明に納得した和也は、うなずいた。


「うん。私の経験上で一番かなあ」

 ユミは静かに微笑んでいる。和也はユミの博識さに驚くとともに、ユミの説明の中に、元カレと親友の名前を思い出すヒントがあった事に気づいた。仮に男の名前を思い出せば、親友の名前も思い出すかもしれない。男の名前か……確か三文字だったような覚えがある。ならば三文字の男性名を片っ端から、読み上げればピンとくるかもしれないぞ。和也は考える。


「記憶力の問題はおいといて。私、和也さんにお願いがあるんだ」

 和也がユミの元カレの名前について考えていたら、ユミから声がかかる。

「なに? お願いって」


「第一に、コンビニへ、和也さんの朝ご飯と昼ご飯の調達。第二にレンタカーがあるうちに、食材調達とホームセンターへの買物。第三に、タブレット端末を貸してほしいの。そして第四に、レンタカーを返しに行くときに、私も連れていって、買ってほしいものがあるんだ」

 理路整然としたユミの答えに笑いがこみ上げてしまう。第一と第二のお願いは全く問題ない。お願いというよりは、和也のための行動だ。


「ああ。買い物は問題ないけれど、タブレット?」

「いろいろな調べ事をしたいからね……ちらっとタブレット端末の箱を見かけたから、和也さんは持ってるんじゃないかなって」

 まったくユミのおっしゃる通り。最近は仕事が忙しく、殆ど使用していなかったが、和也はタブレット端末を持っている。もちろん、ユミに貸すのは問題ない。ただ智美との写真などは消去だな、と和也は考えを巡らせた。


「ああ。タブレットは後で渡すよ。で、買ってほしいものって?」

「えっとね。私ね、化粧品がほしいんだ。和也さんとお出かけするとき用に……ダメ?」

 ユミの上目遣いのお願いだ。この目でのお願いにはまったくあらがえないし、そもそも化粧したユミを見てみたい気もする。

「いいね。問題ないよ。楽しみだ」

「やったあ。和也さん、ありがとう」

 嬉々とした表情でユミは満面の笑みだ。ユミのいうお出かけは、デートのことだろうか。ユミとのデートのことを思うと、期待が半分。そして、ユミの今後についての不安が半分で、和也は複雑な気分になる。ユミに悟られないように、明るく提案した。

「よしっ。まずはコンビニに行こうか?」

「うん!」

 ユミは和也に向けて柔らかに微笑んだ。

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