第11話

 翌日、Aの死体が発見され、やがて自動車の運転手も逮捕されて追及され、犯行を自供しました。しかし、私には何の疑いもかかりませんでした。夕涼み会の会場で、私とAが遊んでいたところを見ていた人間はいなかったからです。確かに、会場の中では私とAは一度も口をききませんでしたし、二人の位置はずっと離れていました。


 私がみんなと違う時間に帰ったことも、Aが私を追ってきたことも知っている人間はいませんでした。あの夜の帰り道でのことを叔母に聞かれても、一度だけ家まで尋ねてきた警官に尋ねられても、私は平静に嘘を答えることが出来ました。一人で夜道を帰ってきたから、Aには出会わなかったと、素知らぬ顔で答えてやりました。


 私の話を疑う者はいませんでした。逆に、多くの知人が友人を失って傷心した私を慰めてくれました。何日も思考が停止したような状態が続きました。勉強にも遊びにも、まるで身が入りませんでした。周りの人間の話しかける言葉が、自分に関係ない他人の言葉のように軽く感じました。大切な宝物を無くしてしまったときのように、頭の中が真っ白になりました。心の動揺を短期間で静めるのは容易ではありません。ただ、絶対に真実を語るまいと子供心に誓っていました。


 今となっては、彼の葬式のことも、直後の学友たちの反応も思い出せません。幼年時代ゆえの残酷さでしょうか、一人の人間が消えても、それまでと同じように行事は消化されていきました。日々の忙しさの中で、Aを殺してしまったことは、少しずつ記憶から消えていきました。ふとした瞬間に、Aという存在を思い出したときは、事故という判断を下した周囲の人間たちの反応を思い出して、そうだ、あれは事故だったのだと思い込むことにしました。心の傷は、時が経つにつれて小さくなっていきましたが、完全に消えることはありませんでした。どんなに慎重に生きても、心浮かれる局面はあります。他人と打ち解けて長話をする場面はあります。私は何かの弾みで秘密が口から飛び出してしまうのではないかと思うようになり、他人と会話をすることが怖くなりました。そして、ますます孤独になっていきました。私は生涯、誰にも心を許すことが出来ませんでした。


 さあ、もういいでしょう。これが全てです。私の一生の全てです。生前、友人を殺害したことを隠し通していました。今思えば、それは間違いだったのかもしれません。あの時に正直に告白していれば、例え、厳しい叱責や処罰が待っているにせよ、私はいずれ立ち直り、別の人生が開けていたのかもしれません。もっと明るい道を歩むことが出来たのかもしれません。ここで明かして、ようやく心が晴れ晴れとしました。今は誰に責められても罵られても怖くありません」


「本当にご自分が殺人を犯したと思っておられるのですか?」

話が途切れるのを待っていたかのように、女はそう問いかけてきた。その声には疑念がありありと篭っていた。


「もちろんです。私が話したことが全て事実なのです。あの夜の正しい記憶は、私の心の中にだけあるのです。当時の関係者の証言が残っていても、それは全て間違っています」


「あなたをお呼びすることを決めてから、当時の地球の記録を何度も調べているのですが、警察や司法局の記録でも、その一件は交通事故となっています」


「ほら、見なさい。みんな私の演技に騙されてしまったのです。当時の私は涙ながらに、自分は何も関与していないと語ったはずです。純真な子供の涙を、健気な証言を、誰が疑うでしょう? ですが、流した涙は偽りです。心中では、自分の犯罪を認めながら、助かりたかっただけなのです。未来に汚点を残したくなかったのです。私は臆病な人間でした」


 私は半ばやけになってそう訴えた。今では犯罪を犯したことを認める方が、かえって清々しい気分になるほどだった。私は人生を終えてから、ようやく他人と本心で向き合っているのだ。


「しかし、残された証言の全てが、そのような殺人行為はなかったと言っているのです。殺人があったことを知っている人間はいないのです。あなたの犯罪をどのように証明したらよいのですか?」


「それは簡単なことです。私はAを殺した直後、何度も何度も後ろを振り返りました。何者かが私の行いを陰から見ていて、親族や警察に告げ口して罰してやろうと、追いかけて来ると思ったからです。恐怖に脅えていたのです。人影は見えませんでしたが、上空には金色に輝く月があって、ずっと後ろからつけてくるように思えました。あの月はきっと知っていました。私がいつの日か罪を告白する日が来ることを。あの神々しい月はあの日だけのものです。あの美しい月の色を、私は今でも覚えています」


「わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら、当人から話を聞く他はありますまい。そのAという人物の魂に語りかけてみます」


「なんですって! Aの魂はまだ消されないでこの世界に残っているのですか?」


「本来ならば、次の世界へと向かう魂を引き留めたりはいたしませんが、あなたのことがありましたので、主が特別に消さないで残しておいたのです」


 その言葉の直後、本当に驚くべきことが起こった。私より五十年も早く生を終えたはずのAの身体が、私が座っている椅子の真横に浮かび上がってきたのだ。彼は子供のままで、服装も死んだ夜のままだった。私は彼の横顔に見入りながら、あの夜に引き戻されたような感覚に陥った。言うべき言葉を知らず、どんな表情をすればよいかもわからず、しばらくの間言葉を失った。


 Aは私の方に顔を向けると穏やかに微笑んでいた。私はこうなったからには、彼に対して何か言わねばと必死に脳を動かしたが、何も思い浮かばずもどかしかった。今更、あの事件のことを謝罪したところで許してもらえるわけはない。すでに、数十年の時が経過し、過去の友人として会うことも出来なかった。思い出は忘却の彼方である。一緒に遊んでいた頃の記憶ですら、心の中ですでに溶けあやふやになってしまっていた。今はただの加害者と被害者であり、私はとにかく頭を垂れて許しを乞おうと思った。


「Aさん、目の前にいるこの方のことを覚えていますか?」


 不意に審問者の女性が話し始めた。彼女の氷より冷たい声は、動揺する私の心中を全く思いやってくれていないようだった。この審問の世界では行き交う魂の感情など思いやる人はいない。真実だけが重要なのだ。私は後ろめたい思いでAから目を逸らして下を向いた。Aはもう一度私の顔をはっきりと確認すると、子供らしい元気な声で、「はい」と答えた。


「その方は、あなたが子供の頃の友人だったそうですが、ある催し物の帰り道、嫉妬による発作からあなたを車道に突き飛ばし、自動車にぶつけて殺してしまったと供述しているのですが、それは本当のことですか?」

女は続けざまにそう尋ねた。Aはそれを聞くと即座に真剣な顔になった。


「いいえ、そんなことはありません。僕らは出会ってから、ずっと仲の良い友達でした。どんなことも許せる間柄でした。どんなに時が経ってもそれは変わりません。僕が死んでしまったのは、運悪く交通事故に遭ったからです。あの偶然の事故さえ起きなければ、僕らはずっと仲の良い友達のままでいられたのです」


 Aは自信に満ち溢れた口調ではっきりとそう答えた。私は彼の言葉を聞いた瞬間、彼に伝えなければならない幾千万の言葉を思い出したが、それはすべて言葉にならなかった。自分を怨んで死んでいったと思っていた友人の一言が、自分の心の奥底で凍りついていた人間らしい気持ちを溶かしてくれた。だが、何を言えばいいのだろう? こんな時、凡庸な想像力しか持たないただの人間に、どんな言葉が言えるというのだろう? 生前もこれほど焦り、混乱したことはなかった。


「ねえ、僕たちはずっと友達だよね」


 Aはそう呼びかけてくれた。私の心を見透かしていたのだろうか? 事件以来、数十年も封印していた本当の心を。私はせめて彼の方に手を伸ばして抱き寄せようとした。今は、彼の魂にずっと寄り添っていたかった。しかし、それを待たずに証言を終えた彼の姿は、急に薄ぼんやりとなり、やがて消えてしまった。私の心の奥に生前からずっと積まれていた重い石の塊はいつの間にか消えており、ようやく自分の本当の心、子供の頃からずっと隠していた本心を知ることが出来た。


「ごめんね……」


 立ちすくんだまま、その言葉だけをようやく発した。私は自分にとって、一番尊い人間の許しを得ることができた。


「あなたの無実は証明されました。それなのに、なぜ、泣くことがあるのですか?」

さすがの審問者もその声には動揺があった。事実、私の目から透き通った水晶のような光の粒が溢れ出てきて、次々と床にこぼれ落ちていった。


「私はようやく人生を締めくくることが出来ました。なぜ、この世界に呼ばれたのか、ようやくわかりました。私は自分の心も知らずに、ただ人形のように生きていただけで、自分の人生を真に完結することが出来ていなかったのです。ただ、今のこの清々しい透き通った気持ちを、人の心を持たないあなたがたに説明しても無駄でしょう。確かに、この世界の主は完璧かもしれない。地球より優れた星は無数にあるのかもしれない。ただ、私は地球で人生を終えてよかった。やっと、そう思えたのです」


私はその言葉を残して女に背を向けて扉に手をかけた。


「次の世界に行かれるのですか?」

後ろから無機質な声でそう尋ねられた。


「ええ、あなたには世話になりました。この世界に来られてよかった。最も貴重な時間を過ごすことが出来ました。もう話すことはないでしょう。本当に人生が終わったのですから。すでに、この身体も記憶も惜しくはありません」


 私は人間以上のものに達することができたような気持ちでそう答えた。もう、この空間にも、この世界の住民にも敬意を払う必要はなかった。


「人間とは不可解です」


 間を置かず、後ろからそういう言葉が聞こえてきたが、私はすでに館の外に踏み出していた。この世界での数時間は人間の一生に迫るほど濃密だった。だが、ようやくすべてを終えた。もう何も必要ない。すべてを消されてもいい。今はそう言える気分だった。


「人生は二回だけ。しかし、すべての人生は素晴らしい」


この空間中に響くようにそう叫んだ。あの女の耳にも、創造主の耳にも届いているだろう。相変わらず庭を徘徊していた黒猫は驚いたように振り返った。あの女が言っていた通り、生前の記憶は少しずつ薄れていった。もう、自分の名前も生まれた故郷も思い出せない。だが、自分を許してくれた友人の名は、我が身が消える瞬間まで残るだろう。


 私の身体は大地を離れ、ゆっくりと宙に浮かび上がっていった。まるで、星々が呼んでいるようだった。周りには、今、人生を終えたばかりの無数の魂が浮かんでいて、それぞれがまばゆい光を放っていた。私は地上を振り返った。しかし、先程の館もバラの花も黒猫も、すでに見えなくなっていた。さあ、宇宙に帰る時だ。私の身体は次第に星の海に紛れるように白く溶けていった。


 次の世界はどこだ? どんな生活を、どんな出会いを提供してくれるんだ? もう今にも消え去る瞬間、私の身体から一筋の光が飛び出して、それが分散して七色の虹となり四方八方に飛び散っていった。


「地球からは見えるだろうか?」

最後にそう思ったとき、私も星の一つだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人生は二回だけ つっちーfrom千葉 @kekuhunter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ