第10話
「まあ、お聞きなさい。遠い昔のことです。果たして、どのくらい正確に話せるでしょうか。まだ五歳の頃、私にはAという友人がいました。生家のすぐ近所に住んでいましたが、彼は私よりもずっと裕福な家庭に生れついていました。親同士が仲が良かったことから、私とAはいつも一緒に遊んでいました。私はたいして腕もない大工が安い賃金を我慢して建てたような、木造の小さな家に住んでいましたが、Aの家は二階建ての一見城のような、立派な現代建築だったので遊びに行くのが楽しみでした。
大抵の人間は幼い頃は、家系や資産のことなど気にしないものですが、私はまだ恋も知らない頃から、自分の家と彼の家、お互いの生活を比べあっていましたので、庶民の間にも、財産の量には大きな差があることを知っていました。他人への嫉妬や妬みという感情を、誰にも教えられることもなく知っていました。彼の家の広い庭には、揺れる木馬やお洒落な細工が施されたシーソーがあり、家の中には可愛い動物が描かれたパズルや、ダーツなどの遊び道具がいっぱいでした。私が遊びに行くと、彼は庶民が滅多に口に出来ないような、食べ物やお菓子をくれました。しかし、私の家は貧しかったので、彼が遊びに来ても喜ばせるようなものは一つもありませんでした。それでも、Aは嫌な顔をせずに週末ごとに来てくれて、夕日が落ちるまで、一緒にボールを蹴って遊びました。
裕福な家に生まれることが出来なかった私は、心のどこかに負い目を持っていました。一緒に遊んでくれるAをとても頼りにしていましたが、Aの方はどう思っていたのでしょう? いつも一緒にいても、他人の心は容易によめず、不安に思うこともありました。家が近いから友達になれただけで、地理的に他の選択肢があれば、彼は私のことは選ばなかったでしょう。おそらくは、彼の心のどこかで、私のことを足手まといと思っていたことでしょう。
時は進み、七歳にもなると、二人とも学校に通うようになりました。多くの生徒と接することとなり、私にもAにも自分たち以外の多くの友人が出来るようになりました。周囲の大人、両親や教師の目から見れば、それは良いことでしょう。出会いや競争を続けることで、子供たちの世界が拡がっていくのです。
ただ、私の心のどこかには、このAという友人を、自分だけで独占したいという思いがありました。自分たちだけの世界に、他人を入り込ませたくなかったのです。私は自分に新しくできた友人たちの誘いも断ってAの家に遊びに行くことがありました。しかし、その頃にはAにも私の知らぬ新しい友人が出来ていて、彼の家にこれまでは居なかった見知らぬ顔が出入りするようになっていました。Aは私のことを他の友人たちに紹介してくれましたが、彼らは人間的にも経済的にも魅力のあるAと遊びたいのであって、私には興味はないという顔をしていました。
その頃から、私とAの間の距離が少し広がったように感じました。私は自分に心許せる友人が出来ないのは、家柄が悪いからだと思うようになりました。私にも豪華な家やたくさんの遊具があれば、もっと他人から好かれるはずだと思っていました。そんな思いを抱き続けながらも、私とAは時間を見つけて遊ぶようにしていました。しかし、私の心には不信感が渦巻いていました。Aは幼少の頃からの義理で私との時間を仕方なく作ってくれていますが、本当はもう私から離れて、他の金持ち連中と付き合っていきたいのではないかと。私は毎夜布団の中でそれを思うと、悔しくて涙を流すようになりました。私とて、生れつき顔立ちや家柄が良ければ、もっと恵まれた人生を歩めたかもしれない。私はAとの友人関係を続けながらも、心のどこかでAを憎むようになりました。彼が私に見せる笑顔一つ、優しさ一つにしても、内心の同情から投げ掛けられているのだと思いました。彼と私は住む世界が違うのだと思うようになりました。私は自分の方からAと別れる決心をしました。」
そんなある日、夏の盛りの頃でしたが、町内会の主催で夕涼み会という催しがありました。夜、町の片隅にある小さな集会場に子供たちを集めて、様々なゲームが行われるというものです。私をこの会に誘ってくれる友人はおらず、自分から参加するつもりもなかったのですが、誰もが開催を知っているイベントに参加しないで家に引きこもっていては、母に心配をかけることになるかと思い、意地を張って参加することにしました。ええ、そうです。私には自分の本当の思いとは逆の行動に走る癖がありました。
会場ではコマ廻しやトランプゲーム、絵合わせパズルなど一通りのゲームに参加しましたが、ろくに友人のいない私には何の楽しみも見出だせませんでした。子供たちはAを中心にしてグループを作り、ゲームの点数に何か動きがあるごとに手を叩いて喜び、大きな笑い声を発して楽しんでいました。私はなかなかその輪に加わることは出来ませんでした。自分が邪魔物のように思われていると感じました。いつも学校で感じているのと同じ疎外感を感じていました。
ゲームやイベントがすべて終わっても、他の子供たちは余韻が冷めないようで、まだ雑談に花を咲かせていましたが、私は孤独に耐えてまで、その場にいるのが辛くなったので、誰に声をかけることもなく会場を離れ、一人夜道を帰ることにしました。町で目についた建物や動物や看板のキャラクターなどのすべてが、自分をせせら笑っているように感じました。このまま家に着いても、自分の寂しい気持ちを両親に話すことは出来ません。友人の出来ない、情けない子供と思われたくないからです。親はいつの世も視線も合わせぬままにこう言うものです。『自分の力で友達も作れないなんて、まったく困った息子だ、いったい誰に似たんだろう?』
頭に浮かぶのは自分以外の子供たちの楽しそうな姿だけで、誰にぶつけていいかわからない憤りを感じていました。何か軽い物音が聴こえた気がして、ふと振り返ると、暗がりの中を後ろからAが追いかけて来るのが見えました。私は嬉しいような苛立たしいような複雑な心境になりました。実のところ、彼を待っていたのだと自分で認めるのが嫌だったのです。まだ、彼の友達でいたいのかと、もう一人の自分に尋ねられるのが嫌だったのです。二人で肩を並べて、まるで人気のない商店街を歩きました。いつもなら、すでに寝付いている時間です。すべての店のシャッターが下ろされていて、街はすっかり寝静まっていました。こんなに暗く蒼い世界を見たことはありません。野良猫がゴミ袋をひっくり返す音。遠くの民家から微かに聞こえてくる笑い声。感覚に入ってくる全てが、昼間とはまるで違う世界に思えました。上空には満月が輝いてこちらを伺っていました。まるで、これから私がすることを見ているかのようでした。
「なんで、今日は楽しそうじゃないの? ずっと、何も話さなかったね」
Aの方から話しかけてきました。彼もきっかけを探していたのでしょうか。私はもう彼に話すことはないと思っており、下を向いて黙って歩き続けました。彼が嫌いになったわけではなく、自分の器量に絶望していました。幼少の頃からくすぶっていた嫉妬心を、あえて友人に話すわけにもいきません。しばらくの間、彼にぶつける言葉を探していました。
「僕はこれからは一人で生きる。もう、君とは遊ばない」
私の方からそう告げました。Aは目を見張って驚きを表しました。
「どうしたの? 何か嫌なことでもあったの?」
「自分の人生の何もかもが面白くないんだ」
私は思いきってそう言いました。彼がそれを聞いて何を思ったか、どんな表情を浮かべたかはわかりません。返しの言葉を聞くまでもなく、私はすでに暗がりの道を走り出していました。足音が聞こえてきたので、後ろから彼が追って来ているのはわかっていました。
「追ってくるな!」私は夢中になって大声で叫びました。
一度も後ろを振り返ることもなく、私は息を切らせながら、安全の確認もせずに大きな道路を渡りました。遠くからヘッドライトを照らして黒塗りの自動車が走って来るのが見えました。
「待ってよ」
そう言いながら、Aが私に次いで道路を渡って来るのが見えました。走る速さはAの方が上なので、いずれ追いつかれることはわかっていました。その時、私にどんな感情が沸いたのでしょう。ここで立ち止まり、いまさら話し合ったところで何もわかりあえないのに。それを思うと、余計に辛くなり腹が立ちました。Aが私に追いつこうとしたその時、私は振り向いて、Aの身体を力任せに突き飛ばしました。この瞬間に後悔はあったのでしょうか? 自分の行為は誤りだと気づいていたでしょうか? 今はもう何も思い出せません。Aの身体は道路の真ん中に転がっていき、走ってきた自動車に跳ねられました。彼の身体はゴムマリのように跳ねて、ガードレールを乗り越えて歩道まで飛ばされました。その車は子供を轢いたことをまるで気づかないように、減速もせず、そのまま走り去りました。時間が止まったように感じました。我に帰ると、恐る恐る彼の方に近づいてみました。Aは目を閉じていて頬をピッタリと地面につけており、身体中血まみれでした。もう助からないことは一目でわかりました。周りを見回しても、今起きたことを見ていた人間はいませんでした。現場からほど近い、普段は人通りの多い十字路も、事件の後とは思えないほど静まり返っていました。私は身体が燃えるように熱くなっていました。目撃者がいないことは幸いで、今夜のことを、神が許してくれたと解釈することにしました。私はそこから脇目も振らず、全力で家まで走りました。両腕は恐怖でずっと震えていました。上空には先ほどから一向に変わることなく満月が輝いていました。
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