第9話

 女の瞳は私を見つめたままだった。話し言葉ではなく、肉体を透過して心の奥底を見通そうとしているようだった。


「気丈に振る舞っていますが、この世界に踏み込んだときから、あなたの心は微妙に震えています。それはこの部屋に入って椅子に腰をかけ、私の審問が始まってからも続き、今は心に宿る炎がより大きく揺れ動いているのが見えます。我々が人間の信仰などアテにしていないことは、この世界に踏み込んですぐに理解できたはずです。中間の世界の突き通すような無機質を、肌で感じることが出来たはずです。


 自分の信仰心の薄さを騒ぎ立て、過剰に興奮する理由は何です? 

 あなた自身が我々を神にも等しい特別な存在だと認めているからではないですか? あえて自分の非を話し、神罰さえ気にしないのであれば、何をそんなに恐れているのですか? 自分の思想すらさらけ出して高笑うのであれば、それ以上強固にあなたを震えおののかせるものは何です? 我々の心は永遠の記憶。我々の目は永遠の水晶です。見えないものはなく、考えられないこともなく、人間どものちっぽけな行動のすべては理論的に証明され、この世界では否応なく人生のすべてが暴かれます。あなたの秘密など、子供にも知られる小動物の生態のごときです。何を知られるのが怖いのですか? 人生の中に置き去りにしてしまった何かがあるのですか?」


女性はすべてを見通したかのようにそう言った。

「誰にだって秘密はあります。見晴らしのいい、丘の上の道の途中で起きた小さな事件(幼子が転んで怪我をしたとか)に、小さな罪の意識を感じていても、それをいちいち言葉にしないように。知性ある人間ならば、自分のせいではないと自分の主張を強く言い張った後の、心の動揺はなるべく他人に見せないものです」

私はそう言い返すのが精一杯だった。焦りを感じていたのかもしれない。


「その秘密をここで話していきませんか? あなたに根深い隠し事があるからこそ、主はここへ呼ばれたのです」

 女は威圧的ではなく、まるで慰めるようにそう言った。


「あなたがたの前では隠し事はできますまい。それに、この秘密を隠したまま次の世界に行けるとも思いません。自分の中に自分でも見えないような秘密を作り、それを誰にも見せずに隠し通して来たことが、私の人生の過ちのすべてだったのかもしれません。私は自分の過去に、それも子供時代に一つの大きな傷を持っています。生前、きっとこのままでは済むまい。誰かにこの秘密を暴かれる日が来るだろうと、そう思いながら、常に他人の目を気にしながら、新聞や雑誌の情報までを恐れながら生きてきましたが、自分が死ぬまで、結局この秘密は暴かれぬままでした。叔母や両親から、疑いの目さえ感じることはありませんでした。他人の興味の目を避け、孤独を耐えて生きてみれば、過ぎ去る時間も山間を流れる小川のように淡々としていて、長くは感じませんでした。


 他人と酒を酌み交わして大騒ぎし、褒め合い、讃え合うことよりも、一人部屋の中で人生の哀愁を感じながら煙草を吸い、コーヒーを口に含むことだけを喜びに感じてきました。自分より年配の人間が次々と世を去り、いよいよ私の子供時代をまったく知らない者だけが後に残されると、余計に安心感は膨らみました。ここに来て、他人に心許しても心配はないでしょうが、中年以降も老年に達してからも私は孤独を通しました。他人を寄せつけない習慣がついていました。不心得者が凶器を持って徘徊し、野犬の遠吠えが響く夜の道を怖いと思ったことはありません。


 もちろん、心についた切り裂かれたような透明な傷は、時間の経過に連れて次第に小さくはなりました。死ぬ直前は無に帰る恐怖よりも、秘密を隠し通した安心感の方が大きかった気さえしました。


『なんだ、これほど重大な秘密も、結局誰にも渡さずに済んだじゃないか。警察も裁判官も何をやっているんだ。結局のところ、俺は逃げ延びたぞ。人道を外れた、どんな悪さも、誰にもばれなければ無罪放免だ。病人ならば赤子と同じだ。すでに尻尾はつかめまい。人間なんてちょろいものだ』


 そう思っていました。しかし、この審問の世界に着いてみて、異世界の慣れない空気に身を委ねているうちに、秘密を誰にも打ち明けずに人生を終えたことは、本当に正しかったのかと思うようになりました。自分のしてしまったことに何らかの責任があるのなら、生前に償っておく必要があったのではと思うようになりました。生前の記憶のほとんどを失ってしまった今の状態でも、私の心の深くにある傷は生き続けていて、早く白状しろ、告白して楽になれと私をせかしているようです。この傷は、私が自分からその事件を打ち明ける日を待っているのかもしれません」


「あなたの持つ秘密は心の奥深く、記憶の泉の底にまで沈んでしまっていて、もう我々でもそれを引き上げることは出来ません。告白をしたいのであれば、あなたの知力でそれを引き戻してもらう他はありません」


「何も頭を抱えて思い出す必要はありません。私は幼少期に行った自分の悪行について、しっかりと覚えています。生前、まだ幾らかの仲間がいた頃、どんなに楽しい思いをしている時でも、心の井戸の片隅では、自分は罪を犯した人間なのだ。これからどれほどの善行を積み重ねても、あの世での刑罰は免れないのだと、そう思いながら暮らしてきました。私は現世での多くの時間を孤独の中で過ごしてきました。家族や友人が嫌いだったわけではありません。他人と談笑し、心穏やかに過ごしているときに、ふと、自分の犯した罪、自分が殺してしまった人間の顔が思い出され、私の顔に突然現れる不安や恐怖の影を、他人に見透かされるのが嫌だったのです。孤独に生きていれば、他人の目からは逃れることが出来ましたが、それでも、少し気を抜いた瞬間に、自分の背後に顔面を血に染めて立ち尽くしている、昔の友の姿が浮かび上がるような気がして、安堵感を感じることは出来ませんでした。私はその幻影と向き合いながら、心で過ちを悔やみながら一生を送ってきました」


女性は私の話をそこで中断して、口を挟んできた。

「お待ち下さい。今、友人を殺したとおっしゃいましたが、私の調べたところでは、あなたが生前、他の魂を害したという記録はありません。それは本当のことですか?」


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