第8話

 自分にとってあまりおもしろくない、長々としたくだらない話だと思いながら聞いていても、それを表情や感情に表わしてしまうとどんな目に遭わされるかわかったものではないので、私は素直に驚き、感動したように見せかけた。


「主よ、お言葉をありがとうございます。私の言葉に感動して下さいましたか。非常に光栄です。ただ、正直に申しますと、私は生前はそれほど信仰の厚い人間ではありませんでした。いえ、もっと言えば、人間を越える存在を、その対象が何であれ信じたことはありませんでした。ええ、正直に申しますとも。どうせ、この場で嘘をついたところで、あなた様の目にはすべて見抜かれてしまいますからね。私にはまだ二回目の人生が控えています。嘘は自分の身を危うくするだけです。どうか、そこまでお導きください。


『神への信仰を持たぬ、くだらない人間だ』


 そう思われるのも、もっともです。その通り、あなた様が見破ってしまわれた通り、私が歩んできた前世には、神への信仰がありませんでした。それと申しますのも、私はいわゆる労働者階級に生まれまして、母も父も貧しい家の出でした。もちろん、そのこと自体を非難するつもりはありませんが、日曜ごとに熱心に教会に通うような暇は、とてもありませんでした。ああいうことは、まあ、多くの人間は、先祖代々の習慣で、あるいは見せかけだけで祈りを捧げに行っているわけですが、それでも、実際にやっているだけマシですがね。私は教会や神社など内部に入ったこともありません。いえいえ、全く信仰心がなかったわけではありません。私のような信仰のかけらもない人間でも、心のどこかでは、『神様、今の苦境を何とかしてください』と祈っているものです。


 もちろん、これは叶うわけありません。今、創造主の実態を知ってしまいますと、当のあなた様にちっぽけな人間などを助ける気などなかったわけですからね、へへへ。神様を慕っていたのは人間の側だけで、肝心の創造主は我々のことなどまるで気にかけずに、そっぽを向いていたわけです。人類が天災に追われていても、あなた様は朝食のコーヒーをすすっておられたわけです。へへ、今のは軽い冗談です。私はただ日々金策のために駆け回っていて忙しかったのです。未来のことを祈る暇さえなかったのです。言い訳をするなと叱責を受けそうですが、これは仕方のないことなのです。


 低い身分に生まれてしまいますと、教育者や友人の質も総じて悪くなっていきますのでね。類は友を呼ぶです。私の担任の教師は神の教えとは程遠い下級大学出の語学専門教師でして、自分の若い頃の努力をひけらかして、すぐに偉ぶるような人間でして、『生まれたことを神に感謝して生きろ』なんて一言も言いませんでした。食事の前の祈りも欠いていて、何の祈りの言葉もなくスープをがぶ飲みする始末です。あなた様のことをずいぶん見くびっています。さらに酷い教師になりますと、『頼れるのは自分だけだと思え』などと不純極まったことを言う有様です。ええ、信仰のないところに愛はありません。おかげで私の性格は今のようにすっかりねじ曲がってしまいました。


 友人にはもっと酷い連中が集まっていまして、先に言っておきますと、友人などというものは選べませんからね。自分の生まれついた家の隣に住んでいるのが必然的に友人となります。選択肢などありません。上流家庭の隣の家も上流家庭、親戚も知り合いもすべて上流家庭、逆もまたしかりです。神に祈るどころか、最低限の道徳すら守れない連中です。休みの日になりますと、全員で神社の祭壇によじ登って賽銭箱をあさるのです。教会の募金箱の錠前をこじ開けたこともありました。ああ、神様、もちろん、私は関与しておりません。そそのかされ、反対できぬまま、のこのこと付いていったことは何度かありますが、分け前は貰っていませんし、そんな小銭を受けとっていたところで、子供のすることです。ろくな使い道をするわけがありません。路地裏の汚い商店の鶏肉の唐揚げや黒砂糖などの貧乏臭い食べ物に浪費され、すぐに右から左です。悪銭身につかずというやつです。ええ、もちろん小銭であろうと神から金を奪うという行為そのものが非難されるわけですよね。あなたは何でもわかっていらっしゃる。私も同感でございます。もし、悪友の誰其がここを訪れることがありましたら、厳しく罰してやってくださいまし。遠慮はいりません。


 しかし、彼らが不道徳だったのは、家柄のせいではあらず、親教師たちの教育のせいにあらずです。ひとえに神の存在というものが誰の心の内にもあやふやだったからです。宗教に熱心な人でさえ、心のどこかでは神という存在を信じきれない部分もあったでしょうし(もし、人間世界を見限り、純粋に神の世界のみを信じる人がいるとしたら、その生活様式や言動からして、その家を訪ねてきた人が目を疑うほど、一般人のそれとは大きく異なるはずです)、人生で何度かは信仰よりも物欲や肉欲を優先させたことがあったはずです。


 聖職者を名乗っている者ですら、その多くは信仰などかなぐり捨ててその身を金銀で飾り立て、金儲けに走る有様でした。他人の信仰心を利用して、寄附だ葬儀代だと要求して、腹のうちでは庶民を嘲笑い、老人たちのなけなしの金を、すべて自分の儲けに変えてしまうだけの宗教者を何人も見てきました。信仰は遠い未来への保険、金儲けは現実への保険ですからね。現実的な人間であればあるほど後者を選ぶかもしれません。神という名前を利用する者、される者です。どちらを取ればいいのか、地球の人間は常に板挟みでした。


 ところが、生前はあやふやだった死後の世界というものが、今、一度死んだことにより明らかになったわけですね。本来ならば、人間は死んだ瞬間、すぐに存在を消されても文句は言えないところです。死後の世界がただのお伽話であるならば、です。


 心に思い続けていたのとは程遠い結果、それは消滅。気づかないうちに取り返しのつかない病に冒され、病気が日に日に重くなり、医者はさじを投げて首を横に振る。ベッドの横に親族が集まりだしたら、命の炎が消える秒読みだ。みんなが自分を励まそうとするが、もう長くないことは彼らの方が知っている。彼らは内心笑っているのか? それとも、こうした看取りの行事をめんどくさがっているのか? 私には遺産などないぞ、待っていても無駄だ、こんちくしょうが。


 やがて死ぬ直前、漫画や映画の世界で優雅に描かれていた天国というものを思い出して、恐怖に乱れた心をなんとか落ち着けようにも、それはアテに出来ない。どうせ、どんな夢想も同じ人間が考えたことだ。教会の天井のステンドグラスに神秘的に描かれた宗教画も疑わしい。神や天使が筆をとったわけではない。描いた人間もとうに死んでいる。誰もが病床で考える。『私はもうすぐ死ぬ。この先の道は二択だ。先の世界があるか、それとも灰となって消えるだけなのか』ここに至っては消えないことを祈るしかない。


 人生は大きな失敗もなく比較的まともだったが、神の評価はわからない。自分と似たような境遇の人間たちも、天界の審判者からは低い評価を受けているかもしれない。今頃、地獄の釜の底で悶えているかもしれない。『おまえも早く来い。来れば教えてやる』呪いの声が聞こえてくるようだ。言われてみれば自分も俗人だ。小金を手にして他人を見下したこともあった。仲間を蹴散らして儲けに走ったこともあった。つまらない人生だったのかもしれない。しかし、神に認められるほどの施しをできた人間など、ほんの一握りではないか。救われるのはほんの数人か? 天国より地獄の方が収容人数は多いのか? 地獄の門の前には果てなく続く行列ができているのか? 考えていても仕方がない。悩んでも時計は止まってくれない。秒針が進むほどに身体の力は抜け、視界はぼやけてくる。あきらめが肝心だ。さあ、死のう。見送りにきた家族よ、さらば。長年付き添ってくれた我が肉体よ、今までありがとう。銀河鉄道の車輪はギシギシと動き出す。走り出した先に終着の駅はあるのか。それともどこまでも続く荒野か。無機質な鉄路は無限の世界を暗示する。意識は少しずつ薄くなって、煙のようにたなびいて消えていく。医者に告げられると家族は一斉に泣き出した。さあ、私は死んだぞ。果たしてどうだ? 天使は迎えにきたか? サイコロはどっちに転がった? 天国か地獄か、あの世かそれとも虚無か。今、私が座っているここがそう! 間違いない、やはり死後の世界は存在した。バンザイ、私は消えていない! ってなわけですよね。


 そういう経過を辿って、人はこの世界に到着するわけです。普通なら、いや、地上の常識なら、ここで信仰心を問われるわけですよね。『汝は本当に神を信じ、悪行をせず、家族を愛し、日々、心からの祈りを捧げていたか?』と、こう聞かれるわけです。いや、少なくとも、地上の人間は、死後の世界とはそういう世界だと思っていたわけです。人生の結果を問われる世界。法でなく道徳によって裁かれる世界。


 ところが、実際来てみたらどうだ。地球であんなに祈りを捧げていた宗教家たちの祈りは役に立ったか? ろくに贅沢な飯も食えなかった修行僧たちは、天国で暴飲暴食か。逆に、神を信仰せず、教会や寺院に背を向け、仏像のお供え饅頭を奪ったり、坊さんに石を投げた連中にはお咎めがあるのか? やはり、神の怒りに遭い、地獄の番犬に身を引き裂かれ、ラミアの鋭い牙に噛み付かれ、ゼウスの杖から放たれる裁きの雷で全身を焼かれるのか? ところがどっこい! 無神論者にもお咎めなし! ですよね。先ほど、聞いた話では、どんな人間にも死後の評価は平等ということでして、へへ、これは助かった。それを信用させてもらいます。つまり、宗教というのは、人間が創り出した壮大な演劇だったわけですね。地球の大多数の人間が信仰していたのに! 礼拝だの正餐だの忙しそうだったのに。やっぱり、はったりだったのか! 坊主どもをさげすんでいた俺のやり方は正しかった! 頭をまるめなくて良かった! めんどくさがって神社を素通りし、絵馬に願いを書かなかった人間にも次の世界は開かれた! ってことですよね。


 いえ、私は神を信仰していなくて、得をしたと言っているわけではないですよ。ただ、この死後の世界が、信仰心の少なさを厳しく責めたてるような、そういう場所でなくて良かったと、そう言ったまでです。そう、人間は信仰でなく行動によって評価されねばなりません。大事なのは良識の積み重ねです。創造主様、私は信仰こそ持っていませんでしたが、規律は持っていまして、己の中の規律というやつです。それは酒・煙草・女に金を使わない、ということなんです。これだけは一生守り抜きました。


 なぜ、これを守ることが大事なのかと申しますと、これらは、のめり込んでいくと必ず悪行や犯罪に結びつきますからね。心の中でどんな悪どいことを考えていようが、この三つの規則を守っていれば、少なくとも他人に迷惑をかけることはない。そう考えていたわけです。社会全体でそれらの行為、酒をたらふく飲んで暴れだし、他人に迷惑をかけたり、日夜煙草を吸いつづけ、幻想をみる違法な薬を吸い、街角で裸同然の姿で媚びをうる女たちに金を渡したりする行為、こういうものは国によっては認知されていますが、私はやりませんでした。周囲の人間が誘ってきてもそれを断りました。


 それは己の作った規則だからです。自分に嘘をつく人間は、やがてはどんな大罪も平気でこなすようになります。自分の行った些細な行為、詐欺や暴力や窃盗などで他人が苦しむ羽目になっても、それを笑って見ていられるようになります。新聞に書かれた悲惨な事件に心が動かなくなります。学校帰りの無邪気な子供たちに挨拶を返さなくなります。背を曲げながら重い荷物を持ち苦しむ老人に『邪魔だ』と言い放つようになります。どんな出来事も自分の意識の外でしか捉えられなくなります。


 さらに、進行すれば、他人が破産しても、それはめぐりめぐって自分の利得になると考えます。他人を殺しても、それを人殺しと思わなくなります。大罪のどこかに必要性を見出だすようになります。


『俺の方が不幸なんだから仕方ない』

『誰だってこういう時には同じことをするはずさ』


 他人の家族が持っている愛情が、自分の心には暖かな音楽として響かなくなります。それはやがて妬みや恨みを発生させることになり、誰もが涙する美しいストーリーに呪いの言葉を吐きかけるようになります。赤ん坊の誕生に、友人の結婚式に唾を吐きかけるようになります。私は少なくともそういう人間ではなかった。誓って言えます。私は人間界でどんな悪行も行わなかったと。私は真面目に人生を終えました。あなたがたに詮索されるようなことは何一つありません」

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