第31話 絵画展と俳優会

 文化祭が始まった。土日になると、稽古場に行く道すがら、様々な催しが開催されている。手作り商品のバザーだの、ヘタクソなバンドの路上ライブだの、町中が賑わっている。陽が落ちかけていたが、騒ぎの終わる気配がなかった。

 あと三週間で本番だった。舞台プランもようやく決まり、あとは稽古を重ねるのみだった。

 今日は市民ホールに集合することになっていた。演劇協会の『かもめ』の公演をこれから鑑賞することになっている。

 少し早めに到着した俺は、展示スペースに入った。

 市民による絵画展示だった。以前もここで絵を観た。あのとき、どんな気持ちで眺めていたのだろうか。ついこのあいだのはずなのに、思い出せなかった。一番奥に、天使の絵があった。やっぱりまわりのテイストとあっていない。迎合する気なし。ある意味、清々しい。真っ先に、天使の絵まで歩いた。憂鬱な表情をした天使が、頬杖をついていた。

「こんにちは」

 声がした。振り向くと、派手な黄色いスーツを着たおばさんだった。

「以前も観に来てくださいましたね」

 おばさんが人懐っこそうな顔をして俺を覗き込む。

「はい。覚えていてくれたんですか」

 ずっと前のことだ。

「もちろん。あんなに真剣に鑑賞してくれた人はいなかったわ」

 おばさんはいった。考え事をしていただけだったのだけれど、誤解を解くのは野暮だ。

「どうですか、これ」

 おばさんが目の前の絵を指差す。おばさんが描いたのだろうか。

「なんでしょうね、なにか迷いを感じます」

 俺はいった。いつもなら適当なおべんちゃらをいうところだったが、思ったままの印象をいった。天使が物憂げな表情だから、悩んでいるようだ。われながら短絡的だ。やっぱり俺に鑑賞眼というものはないらしい。

「あなたにはわかるのね……」

 おばさんの表情が曇った。そしてため息をついた。変なスイッチを押してしまったらしい。

「いや、ただの素人の感想ですから」

 俺は慌てた。

「こんなに真剣に観てくだすったのはあなたが初めてよ。もしかしてあなた、なにかものづくりをされている方?」

 おばさんが訊いた。

「芝居の演出をしています」

「今日ここのホールで上演する作品?」

「いえ、違います」

 よかったら、と少し角が折れてしまっているチラシを出して、おばさんに渡した。

「いまチェーホフを観たら、ちょっと気分が落ちてしまいそうだわ」

 以前、観たとき、とても感動したんだけれどね。いま、創作に悩んでいるのよ。だからドツボにはまっちゃいそう。そんなことない? おばさんは真剣な表情だった。同じように戦っているんだ、と感じだ。

「たしかに、喜劇なんていっておきながら、悲しくなってしまうものかもしれません。僕も思うんです。悩みや苦しみ、悲しみがなんであるのか、って。ねたんだり、ひがんだり、うらやましがったり、人間はいつも忙しい。生きているだけでも大変なのに、人間は、そのうえ絵とか演劇とか作るんだろう、って。楽しいだけじゃないのに。でも、作ることで、僕はなにかが解消できる。ものの新しい見方を発見することができる。そして観てくれた人の人生も、もしかして違った見方を見つける手伝いができやしないかって、愚かなことに、期待しているんです。だから、作るしかない……」

 こんなことを見ず知らずのおばさんに話して、俺はなんなんだろう。恥ずかしい。おばさんはうんうんと頷く。

「いいたいことはわかるわ」

 そういわれ、なぜか俺は泣き出しそうになっていた。俺も自分で勝手に変なスイッチを押してしまったらしい。

「もしよかったら、観にきてください。絶対に、面白いものをお見せします」

 俺はいって展示室をあとにした。


 目をこすり、鼻をかみながらホールの入り口に向かうと、全員揃っていた。

 晴美も麗奈や裕子と笑って話していた。俺たちは一緒に住んではいるものの、あまり会話をせずにいた。お互いどこか気を使い合っていた。いつもの喧嘩とは違っていた。

 本田さんも輪の中に入って楽しげだ。戻ってからはすっかり落ち着き、皆と会話もできるようになった。メンバーが受け入れたのだ。彼らの優しさは、どんなものよりも、薬になった。

「敵さんはどんな感じでしょうかね」

 俺のそばに芳賀がやってきた。

「人は人、我は我」

 俺はいった。自分に言い聞かせていた。開演十分前に入ったが、ホールは混雑していた。この劇場がこんなに賑わっているのを俺は初めて見た。

「満員ですね」

 三浦さんはいった。

 俺たちの『かもめ』のチケットの売り上げは芳しくなかった。まだ半分以上席が残っている。

 ロビー隅のソファーに柴崎耕作が座っているのを見つけた。紙パックのジュースを手にし、ストローを口にくわえている。目は虚空に向けられていた。話しかける雰囲気ではない。柴崎耕作に気づいた客も、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。 

 俺は柴崎耕作に近づいた。

「お久しぶりです」

 柴崎耕作はゆっくり顔をあげ、俺を見た。

「ああ、『かもめ』の人か」

「勉強させてもらいます」

「勉強なんぞせず、楽しんでください」

 そういわれ、俺はどきりとした。楽しませる為に、作っている。チェーホフを学ばせるだなんて、作っているほうは考えちゃいない。当たり前のことだった。

「はい」

 とだけ、いって、その場を去った。

「なに話したの?」

 晴美が俺に訊ねた。

「楽しんでくださいって」

「柴崎さん、やっぱりいい男ね」

「そうだな、でっかいよ」

 柴崎耕作も、滝村先生も、でっかい。そして、隣の女もまた、でっかい。自分の小ささに情けなくなる。でも、やるしかない。


 緞帳があがると、廃園があらわれた。市民劇団とは思えない美しいセットだ。出てくる俳優たちもまた、その舞台美術に負けずおとらずの存在感だった。うまい。俺は思った。しかし、うまいだけだ、と俺は不遜な気持ちにもなった。自分の『かもめ』を抜きにして、そんな反抗心が生まれた。場面転換されるごとに、舞台装置は変わる。すべてが美しかった。休憩を挟み、全四幕、舞台は終わった。盛大な拍手が起きた。俺も、拍手をした。

 一緒にいた全員が、無言のまま、ホールを出た。

「凄いね」

 麗奈はいった。

「これじゃ俳優会の公演じゃないですか」

 芳賀が憎らしげにいった。

「辞めたメンバーは、結局出してもらえないのがほとんどで、受付でぼうっとしていましたよ。あれじゃ市民劇団の意味がない」

「うちにもこんなにお客さんくるのかなあ」

 和田がどんどんホールから出ていく人々を見ながらいった。

「多分」

 俺はいま、思い上がったことを口にしようとしている。

「なに」

 晴美が訊いた。

「俺たちの『かもめ』のほうが面白いと思う」

 まだ本気で思えなかった。比べられるほど極まっていなかった。だけれど、口にした。

 わかったことは、俺は美しい舞台を作りたいんじゃない、ということだ。人にものを教えるために、名作を丁寧に具現化させるために演出をしたいわけではない。自分が「楽しい」と思えるものを作りたい。柴崎耕作と俺とでは、「楽しい」の質が違う。まったく違う。俺にとって、市民演劇センターの『かもめ』のほうが、面白い。では、その楽しさをきちんと観客に手渡すことができるのだろうか。

「知ってた」

 晴美はいった。確信に満ちていた。

「麗奈」

 俺は前を歩く麗奈を呼び止めた。いましかない。

「いまからそこの噴水のへりに立って、一幕の劇中劇のセリフをしゃべってくれ」

「マジですか?」

 麗奈は慌てた。

 晴美が麗奈の肩をたたいた。皆もなにがなんだかわからず、驚いている。

「みんなで手分けして、出て行くお客さんたちにチラシを配ってください」

「え、恥ずかしい」

 裕子がいった。

「早く!」

 俺は叫んだ。人々が俺たちに視線を浴びせた。そしてすぐに立ち去ろうとする。

 麗奈は噴水のへりに立った。あーあー、と声を整えた。去っていく人々が麗奈をちらりと見た。

「『人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に棲む無言の魚も、海に棲む……』」

「もっと大きな声でいってくれ!」

 俺は叫んだ。

 家路につこうとする人々が俺たちを気にしだした。

「再来週、うちの劇団も『かもめ』やります」

 チラシを配っている皆の声が聞こえてくる。人々が立ち止まりだし、ホールから出る人が詰まりだした。

「動画を撮ってください。できるだけ、人が集まってるように見えるアングルで」

 俺は通行人が見ているなかで、麗奈に稽古をつけた。足下になにかが転がってきた。丸められたチラシだった。俺は無視して、続けた。立ち止まって観ている人も、横目で通り過ぎている人も、いた。

「なにやってるんだ」

 声がした。文化祭の説明会で柴崎耕作の横にいた男だった。芝居では小間使いをやっていた。うちの拓也と久義のほうがいけてるぜ、と俺は思っていた。

「稽古です」

「うちの芝居をやったあとにこんなパフォーマンスですか。情けない。客引きですか」

 男は鼻で笑った。

「情けなくて結構。うちの芝居のほうが百倍面白いということを、お客さんに見せてあげたくなったんです」

 なんだと、と睨みつける男を無視して、俺は麗奈のほうに向き直した。

 男が殴り掛かってでもくるかと思ったが、そんな事はなかった。

「悪くないね」

 声がして、俺は後ろを振り向いた。柴崎耕作がいた。俺は柴崎耕作に礼をした。

「ただ、滝村仕込みかな。演出が漲りすぎていて、これじゃ観ている人間に休まる時間がないかもしれないね。若いからかなあ」

 そういって、柴崎耕作は去っていった。人がいなくなっても、稽古を続けた。

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