第30話 俺たちは終わった
「絶対にあの人は断わらないと思ってた」
井上と別れてから、晴美はいった。井上が自分のことを好きだから、ということか。なんとなく、臍の下あたりが痛んだ。
「だって井上くん、りゅうちゃんのこと好きで好きでたまらないもの」
思いがけない言葉で、一瞬思考が停止した。
「なんだそれ」
井上はたしかに慕ってくれてはいるが、それは先輩後輩の関係でしかない。文伯座に入る時期が違ったならば、こちらが敬う立場だ。そう考えると、そっちのほうがしっくりくるかもしれない。
「あんたの目はいままでなにを見てきたのよ」
晴美は馬鹿にするような目つきをして俺を見た。
「なんだよ」
「劇団じゃみんながいってたのよ。『井上の恋人は境にちがいない』って」
「初耳なんだけど」
「二人で熱々だったからじゃなーい? 周りが見えないくらいに」
驚いて声もでない。
夜は涼しい風が吹いている。寒い季節に変わるのを感じるのは、いつでも夜だ。酔っぱらった頬に心地よい。もう秋じゃ……。菊池寛の『父帰る』である。
「井上くんはどっちかっていうとニーナのほうが合ってるかもしれないわね」
晴美がいった。
「気持ち悪いな」
「役としては、シャムラーエフよりずっと合ってるって話。乙女だし。好きな人に盲目的」
なにをいっているんだかさっぱりわからないまま、ふーん、と俺はいった。井上が好きなのはお前だろう、なにを話しをそらしているんだか。
アパートの部屋の前に、人が立っているのが道から見えた。晴美を入り口で待たせ、俺は部屋に向かった。危険な事態になったら声をあげるから、警察を呼んでくれ、と俺はいった。
「刺されたりしないでよ」
晴美は怯えた顔をしていった。
「縁起でもない」
おそるおそる階段をのぼり、通路にでた。
「先生!」
うずくまっている男が大声を出した。よく見ると、本田さんだった。
「なにやってるんですか……」
俺は訊ねた。本田さんがいきなり土下座した。
「申し訳ありませんでした!」
窓が開く音がした。何事かと近所の家が様子を伺っているのだろう。
「頭をあげてください。ていうか、声でかい」
「先生に、どうしても謝りたくて」
「あの……、とりあえず、どこか別の場所でお話を……」
家にあげるわけにもいかず、俺は本田さんを連れてアパートを出た。晴美はいなかった。隠れたのだろう。
近所の公園のベンチに俺と本田さんは座った。
本田さんの話はこうだった。
演劇センターに参加する前に、演劇協会の募集に履歴書を送っていた。しかし演劇センターのほうに参加してみたら、大変楽しく、ぜひ演劇センターに出演したいと思った。だが自分は調子に乗ってしまい、あれこれ人に難癖をつけ、険悪な状況にしてしまった。自分は驕っており、そんなときに演劇協会から出演を打診され、余計に増長してしまった。見栄を切って演劇センターから出ていったものの、演劇協会の演出家(柴崎耕作である)ともうまがあわないし、共演者たちもいけすかない。そうなると演劇センターでの先生(俺)の稽古を思い返してしまい、やはり先生のもとで云々……。
つまり、小間使いとして参加するのが気にいらないのか、柴崎耕作とその取り巻きたちに嫌われたのだろう。
「もう一度、先生の元で勉強をしたいんです」
と本田さんは話している最中何度も頭を下げた。時計を見たら、話を聞いているうちに二時間が過ぎようとしていた。とっくに終電はない。この人、帰れるのかな、と心配になった。うちに泊める、なんてことは絶対に避けたい。自分よりも一回り年の離れた相手をなだめるのに、俺は正直疲れた。
「とにかく、考えさせてください」
俺はいった。どうかよろしくお願いします、と本田さんは頭を何度も下げ、去っていった。歩いて帰るのだろうか。ここからおため市まで、どのくらいかかるんだろうか。
家に入ると、晴美は既に寝ていた。芳賀に、本田さんがやってきた、とメールすると、すぐに電話が鳴った。
「またスパイするつもりですかね」
芳賀は、本田スパイ説をとなえていたが、考え過ぎだろう、と俺は答えた。そんなに頭が良かったら、そもそもこんなキャリアではない。もう少しましになているはずだ。
「速攻嫌われて、帰ってくるとは、あの人、想像以上の問題児ですね」
芳賀はいった。
「井上を交渉中ですけど、本田さんが帰ってくるなら、本田さんでいきます」
俺がいうと、芳賀は黙った。
「井上さんのほうがいいですよ、絶対」
もちろんその通りだ。しかし井上は役とかけ離れている。それに、これ以上井上に借りを作れない。
「さすがにもう場を乱したりはしないでしょう。志村さんにも謝らせます」
「お優しいんですね」
褒められている気がしなかった。電話を切り、ソファーに座ってうなだれていると、晴美がやってきた。
「本田さんにするの?」
「まあね」
「わたし考えたんだけど」
そういって晴美は湯をわかした。
「なに」
訊いても晴美はしばらく黙っていた。やかんが鳴り、晴美はマグカップに白湯をついですすった。
「井上くんの芝居、出るわ」
「そうか」
としかいえなかった。
「仕事、どうするんだ」
「次の契約は更新しない」
晴美はいった。俺は頷いた。よかった、と素直に思った。晴美が芝居を続けることは、いいことだ。それは、絶対にすべきことだ。この女の前には、道が続いている。与えられたものから逆らうべきではない。
「まだやりたいのよ、これからも芝居を続けたい」
とにかく、いまは『かもめ』よね、と晴美はいった。
「そうだな」
俺はいった。なんとなく、俺たちは、これで完全に終わったような気がした。終わらないようにと、まるで延命治療のようにくっついたり別れたりしているわけでなく、もう既に終わっているのに、見て見ぬふりをしていただけなのだ。そう思った。
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