第29話 本田パニック

 電話をすると、本田さんはすぐに出た。

「先生にお電話いただけるだなんて」

 恐縮した物言いを本田さんはしたが、嬉しそうだ。勝ったとでも思っているのだろう。

「もしよろしければ、お会いして話を」

「そんなことは必要ありません」

 ぴしゃりと本田さんはいった。

「わたくし、新おため市民演劇協会さんのほうにお世話になることになりました。柴崎先生のご指導のもと、頑張っていこうと思います」

「は?」

「ぜひ観にきてください。それでは失礼します」

 電話を切られてしまった。

 呆気にとられている俺に、晴美が、どうしたの? と声をかけた。

「本田さん……、柴崎耕作のほうに出るって」

「うっそお」

 晴美も素っ頓狂な声をあげた。

「え、え、今年一番のびっくりなんだけど」

「さすがの本田さんも、柴崎耕作の前ではおとなしいのかもしれない」

 と、いうことは俺はなめられていたらしい。

「とにかく……、誰か他にやってくれる人を探さなくちゃね」

「そうだな」

 呆然としてしまった。

 芳賀に連絡すると、芳賀もまた、

「マジですか? なんですかそれ。セカンド・インパクトですか。人類滅亡レベルですよ」

 と驚いていた。

「でもあっちはキャストがほぼ決まっているし、敵さんのブログ毎日見てますけど、本田の『ほ』の字もないですけどね」

「なにやるんだろ……」

「すごい興味ありますけど、こちらも新しいキャスト探さないと。どうします?」

「考えてみます……」

 電話を切って、俺は頭をかきむしった。悪いが本田さんのことを、惜しいとも思わない。だが前回と同じく、まともに稽古が進みやしない。

「ねえ。まさかとは思うんだけど」

 晴美がスマホをいじりながらいった。

「なんだよ」

 イライラしながら俺はいった。俺の手にある電話が鳴った。芳賀だ。俺は携帯を耳に当て、晴美のかざしたスマホの画面を見た。電話口で、すぐ市民演劇協会のホームページ見てください! と声がした。

「これ……」

 画面に、写真があった。満面の笑みを浮かべている本田さんが映っている。晴美のスマホを手にとり、スクロールする。

『新市民演劇協会では、舞台に立ちたいと思ってらっしゃる初心者の方を募集しておりましたが、今回、小間使い役として、本田剛さんが参加することとなりました。「初めての経験で緊張しています」と話す本田さん。チャレンジ精神旺盛な本田さん、ぜひ本番でチェックしてみてくださいね。』

「最初からこうするつもりだったんですよ、スパイだったんですよ!」

 あまりに芳賀がわめくので携帯を耳から離した。

「それはないでしょ。だったらもう少し芝居がうまくてもいいくらいだし」

「あっちに情報漏洩されてますよ。スパイみたいなもんですよこれじゃ」

 芳賀は電話の、向こうで昂ぶっている。情報漏洩も糞もない。いまのところ演出プランも美術も皆に伝えていない。

「にしても、あの人、小間使いでいいのかしらね。セリフないじゃない」

 晴美はいった。

「確かに」

 俺はいった。

「なんですか、確かにって」

 芳賀が訊いた。

「いや、こっちの話です。次回の稽古前にミーティングしましょう」

 そういって俺は電話を切った。

「事前に申し込んでたのよ。で、こっちが駄目ならあっちで、ってとこでしょうね。でもあっちじゃ、あの人の望むほど出番ないわよねえ」

 晴美はいった。

「まあ、多分出られればなんでもいいんだと思うよ、あの人」

「どういうこと」

「『舞台に出た』っていう事実だけが欲しいんじゃないかな。そんな気がする」

 売れない俳優の浅知恵だ。プロフィールに出演歴を並べたい。別にたくさん仕事をしたからオーディションに受かるわけでもないだろうに。俺だったらそんなことでは選ばない。

「とにかく、シャムラーエフを探さなくちゃな」

「今回は随分余裕ね」

「いや、もうあの人にやってもらう、って可能性がない分、気が楽だよ」

 とはいったものの、あと二ヶ月で新しい俳優を探して本番に持っていかなくてはいけないと思うと、気は重いままだった。

「本田さんはシャムラーエフ、ぴったりだと思ってたんだけどなあ。調子よく晴美に媚び売ったり、馬は貸さないっていいだしたり」


 次の日から、俺は劇団の養成所の同期で、現在フリーで活動している俳優たちに電話を始めた。この際体型や雰囲気が違っても構わない。誰でもいいというわけでもないが、誰かがやってやるといってくれるならば、その心意気にかけたい気持ちだった。

 しかし、三十も半ばになれば、どいつもこいつも田舎に帰ったり就職したり、活動していたとしてもプロダクションを通してくれだ、公演中で忙しい、来月本番なんだ、チケット買ってくれ、と反応は散々だった。

「同期の半分以上が芝居やめてたよ」

「みんなそれぞれ人生ってものがあるのよ。りゅうちゃんが劇団のなかでぬくぬく、ずーっと下っ端のままでのんびりしているうちにさ」

 晴美はいった。

 たしかに、別に偉くならなくても構わないが、若手扱いされているので、俺は気が若かった。若さの秘訣は、出世しないこと、といったら自虐的すぎるか。

「シャムラーエフがいないところばかり稽古が進んでも仕方ないしな。とにかく誰かみつけないと」

「ねえ、りゅうちゃんが顎で使える人、一人いるじゃない」

 晴美が意地悪く笑った。

「いねえよ」

 もう手持ちの札はゼロだ。

「井上くんがいるでしょ」

 平然と、ありえないことを晴美はいった。


「先輩の稽古を見学させてもらえるなんて光栄です」

 一週間後、井上は俺のたくらみなど微塵も勘づいている様子なく、俺と一緒に電車に乗った。相変わらずのさわやかさだった。自分の思惑は抜きにして、俺は、こいつが嫌なやつになるところを見てみたい気がした。

「実は今日シャムラーエフ役が休みなんで、井上も稽古に参加してもらえないかな」

 俺は電車のなかでおそるおそる切り出した。

「いいですよ」

 井上はあっけなく承諾した。

「いいの?」

「はい。だっていないんですもんね」

 まんまとひっかかった。素直すぎる。こいつ、やっぱり凄いのかも。

「じゃあ、今日のところは、頼むわ」

 お前、一人前の演出家なんだぞ、そんなになんでもはいはいいっていいのか? 喉から出かかる言葉を抑えた。

 稽古場に行くと、裕子は驚き、女性陣は井上の甘い笑顔にうっとりとしていた。シャムラーエフのイメージとはかけ離れすぎている。

「来年僕も『かもめ』の演出をするんで、勉強させてもらいます」

 どこを切っても好青年の千歳飴だ。

「『七三年のポルタヴァの定期市で、あの女優はすばらしい芸を見せましたっけ。ただ驚嘆の一語に尽きます! 名人芸でしたな! それから、これも次手に伺いたいですが、喜劇役者のチャージン——あのパーヴェル・セミョーヌィチですが、あれは今どこにいますかな?』」

 全員衝撃を受けた。シャムラーエフが登場して最初のセリフが、あまりにうますぎた。なにをいっているのかはっきりわかる。ひとつひとつに表情がつき、思わず見ずにはいられなかった。次のアルカージナのセリフが、晴美から出てこなかった。

「あ、ごめんなさい。聞き惚れちゃった」

 晴美は思わず我に返っていった。

「そんなこといわれるなんて、嬉しいなあ。張り切っちゃいます」

 井上は照れた。

 稽古は進み、全員井上のうまさに引っ張られて、調子が一段階良くなっていた。逆に俺の方が散々だった。

「井上先生、なんで役者やらなかったんですか」

 帰り道、裕子が井上に訊いた。

「僕は演じるのが好きなわけじゃなくって、お話が好きなんだよ。で、文字の連なりを、立体的に表現するのが好きなんだ」

 なぜ演出をしたいのか。うまく言葉にすることができない俺とは大違いだ。

「今年の予定はどうなってるの?」

 晴美は俺を肘で小突きながら、井上に訊いた。

「今年は自主的に休みをもらって、来年の舞台の構想を練ろうと思ってます。演出助手の仕事、断わったんで、いまは劇団の手伝い以外はフリーですね」

 裏方手伝いましょうか、と井上は笑い、裕子は緊張しちゃう、といった。

 新宿駅で裕子と別れてから、三人でちょっと飲もうか、と居酒屋に入った。

「もし良かったら、うちの芝居、出ない?」

 俺は切り出した。なのにこれでいいのか、わからないままだった。

「いいですよ」

 あっさり、井上は答えた。

「本当にいいの?」

 うまくいきすぎている。

「はい。でも条件があります」

「条件?」

「来年の僕の芝居に、晴美さん出てください」

 俺は晴美を見た。晴美は憮然としている。

「なんで条件がそれなのよ。わたしの意志と関係なく」

 晴美はいった。

「わたしは、わたしの意志で決める」

 とビールを煽る。

「一人足りないんですよね」

 井上は嬉しそうにいった。俺にいっているのでも、晴美にいっているのでもない。俺たちにいっている。

「それより、お前いちおう演出家なんだし」

「それより、ってなによ」

 晴美が口を挟むのを俺は遮り、

「大丈夫か」

 井上のキャリアが傷つくのではないか。自分でも頼みたいのか頼みたくないのかわからなくなってきた。

「先輩の頼みなら断われません」

 井上はいった。少々酔っぱらっているが目は確かだった。

「決まりね」

 晴美はいった。

「晴美さん、出てくれるんですか」

「それとこれとは別」

「じゃあ契約はできないなあ」

 井上は笑った。

「そこをなんとか」

 俺は頭を下げた。

「やりますよ」

 井上はあっさりいった。

「晴美さんには、稽古中、出てくれるようちょいちょい口説いていきます」

 そういって井上は晴美に微笑んだ。晴美はというと、無視してビールを飲んでいた。

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