第26話 俺がトリゴーリン!?

 次の稽古に、突然滝村先生がやってきた。小嶋のぞみと久義くんも一緒だ。久義くんは拓也くんを見つけると駆け寄り、

「なにやってるの?」

 とゲーム機を覗きこむ。

「僕も同じのやってるよ!」

 少年二人は、部屋の隅でゲームをしだした。五歳児のコミュ力おそるべし。

「久義、今日はお稽古見学でしょ」

 のぞみが呆れた顔をし、美保子に申し訳なさそうに挨拶をする。

「どうだ、進行具合は」

 滝村先生が片山さんの淹れたお茶を飲みながら訊いた。

「キャストが足りないのですが、ある程度固まってはいます」

 俺は慎重に答えた。

「キャスト足らにゃしょうがねえだろ」

「すみません」

「お饅頭買ってきたんで、みんなで食べましょうよ」

 のぞみが場の雰囲気を変えようとしてくれたのか、大袈裟にいった。

「おじいちゃんは甘いの食べ過ぎるといけないから、わたしと半分こね」

「お前はもっと食え、俺は境と半分でいい」

 ほれ、といって滝村先生は茶色い温泉饅頭を半分に割り、大きいほうを俺によこした。

 俺は饅頭を口に放り込んだ。

「ありがたみのない食い方しやがって」

 滝村先生はいった。

 新メンバーに滝村先生を紹介した。美保子は神妙に頷き、拓也は年下の久博が、「ゲーム一度やめよ?」と提案したので、仕方なしにゲーム機を閉じた。本田さんはいまにも自己紹介をしそうに前のめりで、裕子はというと緊張していた。

「境、お前トリゴーリン読め」

 滝村先生に指名された。

 俺は慌てた。いままで、稽古でも読んではいたが、指名されるとなると別だ。

「それで全員か」

「まだ人数は足りてません」

「のぞみ、ちょっと読み合わせ参加してくれ」

「えーっ」

 滝村先生の横にいたのぞみが驚いた顔をした。

「境がだらしないから人が足りないんだわ、頼む」

 いうところは俺が指示するから、と台本をのぞみのほうに寄せた。

 台本の読み合わせが始まった。

 冒頭、メドヴェージェンコは和田、マーシャは麗奈だ。

「『あなたは、いつ見ても、黒い服ですね。どういうわけです?』」

 メドヴェージェンコは問う。

「『わが人生の喪服なの。あした、不仕合わせな女ですもの。』」

 麗奈は本人とはまったく違うキャラクターのマーシャのセリフを無理なくあらわしていた。麗奈はマーシャ、ニーナは裕子かな、と俺は改めて思った。

 舞台はソーリン家の領地内の廃園。仮舞台が作られ、いまからトレープレフ脚本、ニーナ出演による舞台が始まるところ。ニーナが現れる。興奮しながら。父と継母はこの家に行くことを快く思っていない。彼女は隙をみてやってきた。

「『あたし、遅れなかったわね。……ね。遅れやしないでしょう。』」

 裕子も気合が漲っている。先生を前にして少々緊張気味だが、悪くない。

 そのうち皆が集まりだす。滝村先生の前でセリフをいうことに、皆のしゃべりが気にならなくなるほど緊張した。俺が演じるトリゴーリンは、トレープレフの母、女優アルカージナの愛人で、作家だ。トリゴーリンはしゃべらないでいる。幕があがる。珍妙な前衛劇。男はただ黙り、眼前で行われている風景を俯瞰する。劇の最中に聞こえてくる野次に、トレープレフは傷つき劇は中断される。傷ついたトレープレフは去り、アルカージナはその劇を非難する。

「『人間誰しも、書きたいことを、書けるように書く。』」

 アルカージナの憤りに俺は言葉を添えた。油を注がれた炎は燃え盛る。

 突然パン、と手の叩く音がした。

「中断」

 滝村先生はいった。

「境、間合いが悪いだろ。これじゃ晴美が次にしゃべるのに、自分の力でいわなきゃならなくなるだろうが。前に聴いた言葉を受けろ。自分の言葉が次の相手のセリフを引き出すようにしろよ。ただセリフをいっているだけならば、客は寝るぞ」

 皆に向かって、俺がいつもいっていることである。

 最後まで読み合わせをしたものの、俺のトリゴーリンは散々なものだった。

 俳優たちが帰った後、部屋には俺と晴美、芳賀、滝村先生が残った。のぞみと久義くんはジュースを買いにいった。

「トリゴーリンはお前やれ」

 滝村先生がいった。そういわれ、俺は頭が真っ白になった。

「一応人がいないか声をかけているところで」

「どこの馬の骨だかわからないやつにやらすより、自分でやったほうがいいだろ。今日聴いた限りでは、役不足は否めないが、まあ一から仕込むより早い」

 滝村先生の横にいた晴美は、素知らぬ顔をしていた。

「お前がこいつをいっぱしにしてやれ」

「はい」

 晴美が頷く。こうなることを知っていたのか。

「まだ人数が少ないです」

「のぞみを使えばいい。久義と、あともう一人の子もうまく使え。お前よりもあの子たちのほうがうまいぞ。子供も参加しているなんて、市民劇団らしくていいじゃねえか。人間、ガキと小動物には弱いからな」

「いやでも、文化祭とはいっても、それじゃ……」

「ガキを出したからレベルが下がるなんて思ってねえだろうな。ガキが出ても面白いもの作るくらいのことしろや」

 俺は水をぶっかけられたような気分だった。


「特訓だね」

 滝村先生たちと別れてから、にやにやしながら晴美はいった。

「自分で出るなんて、まったくやってないからなあ」

 滝村先生に決められたいまでも、俺はなんとか回避できないものかと思っていた。新宿へ向かう特急列車は空いていた。座席に座り、向かいの窓から見える暗い景色を俺は眺めていった。遠近感を感じず、ただ平面にぽつぽつと明かりが灯っているように見えた。夜景に広がりが感じられなかった。

 しばらく俺たちは黙っていた。向かいの席で学生らしきカップルがいちゃついている。酔っ払っているらしい。

「先週井上くんから電話がかかってきて、芝居出ないかって誘われたのよ」

「はあ?」

 俺は驚いて大声を出してしまった。目の前のカップルが俺たちを見る。

「芸能プロダクションのプロデュースで、来年『キャバレー』やるんだって、地方公演もあり。出てくれないか、って。働いているから、っていったら、それは本当にやりたいことですか? って。いっぱしの口きくようになったわね」

 俺は黙って聞いていた。

「望まれるってのも悪くないわね」

「出るのか」

 俺は慎重に訊いた。

「わからない。いまの仕事、ただただ書類を打ち込むだけの仕事で、なにひとつ好きでないけれど、だからっておいしい話に飛び込む気になれないのよ。わたし、劇団好きだったけど、辞める何年か、よその客演ばかりしてたでしょ。舞台のないあいだ、バイトをして暮らすのがしんどかった。だから思い切って辞めよう、って決めたのにね」

 いつまでたっても煮え切らないのもいるからさあ、と晴美は笑った。その笑いは芯からのものではないように思えた。

「ひとまず、『かもめ』が終わるまで考えさせて、っていっておいたわ。わたし、ひとつのことしか集中できないの、って。そんなんじゃそりゃ仕事も続かないわ。自業自得ね」

 晴美はいった。

 ほら、もうすぐ新宿だよ、と寝てしまった彼氏を女の子が揺すっている。

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