第25話 滝村先生の次に尊敬している

『かもめ』の登場人物たちは人生を憂いている。労働に疲れていて、実らない恋に苛立っている。

 主要人物は女優のアルカージナと、彼女の恋人で文士のトリゴーリン。アルカージナの息子、トレープレフと、彼が恋する少女、ニーナだ。ニーナは女優になることに憧れている。そしてトリゴーリンにも。トレープレフはトリゴーリンへの嫉妬で煮えたぎっている。小説家であり、ニーナの視線を集めているから。ニーナに拒絶されたトレープレフは決闘騒ぎを起こし、トリゴーリンとアルカージナは田舎屋敷から発つことに。女優になるべくモスクワへ旅立つというニーナに、トリゴーリンは、去り際、囁く。再会の手はずを。

 それだけではない。多くの人物たちが問題を抱えながら物語のなかで絡み合う。

 役を換えて読み合わせをしていくうち、皆、自分がなにになるのかを悟りだしてくる。

 麗奈と裕子はニーナとマーシャを、吉田と和田がトレープレフかメドヴェージェンコを読む。三浦さんはソーリンかドールンだ。本人もまんざらでもなさそう。片岡さんから、セリフのある役はちょっと……といわれてはいたが、了解しつつも、いろいろな役を読んで貰う。女性キャストはほぼ決まりかけていたが、男は人が足りないので、年輩のキャストはまだ決め手に欠けた。

 本田さんにトリゴーリンをやらせると、随分力のこもった演技をした。猛烈に、うざい。イメージとして、この人をアルカージナの愛人であり、トレープレフの嫉妬の種、をやらせるのは違った。この人のくさい台詞回しがこの役では活かされない。

 本田さんの演技は、本当にテレビに出ていたのか、と不思議なほど、過剰だった。相手を受け入れずかたくなだった。読み合わせの最中に、いくつか指示をだしても、まったくそれが反映されない。頭も身体も固そうだ。ほぐすのに時間がかかりそうだった。

 和田は裕子に話しかけようと一所懸命だった。これはまさか、麗奈から裕子に鞍替えしたのではないのだろうか、と俺は怪しんでいる。もてない冴えない自信が無いと卑下している割に、行動的だ。読み合わせの際も、裕子の隣をキープしようとしている。再び、悩みを打ち明けられたらたまったものではない。

 裕子はというと、和田が話しかけてくるのを軽くあしらっていた。役が決まるまでは気が抜けないのだろう。なにせ滝村先生にアピールしなくてはならないのだ。ニーナをやりたいのだろう。気合いが入っている。

 麗奈はというと、帰り道に、マーシャが面白い、と話していた。

「なんだか全然自分とキャラが違うから面白いかも」

「ニーナは自分と似ているの?」

 晴美が訊いた。

「ニーナってイライラする。最初はトレープレフと付き合ってたのに、トリゴーリンがやってきたらそっちにいっちゃって、振られて駄目になって、自業自得でしょ、あの女」

 麗奈の見解に晴美は爆笑した。

「わたしはニーナ、チャレンジしたいですね」

 横で話を訊いていた裕子が口を挟んだ。

「だって、あの一幕目のトレープレフの芝居のところ、絶対やりたいもの」

「『人も、ライオンも、鷲も——』のとこか」

 晴美はいった。

 歩いているうちに、ホールの前を通った。

「ここってキャパどのくらいなんですか」

 裕子が訊いた。

「大ホールは五百人くらいかなあ」

 俺はいった。

「大きいですね……」

 裕子は神妙な顔をした。

「いや、広いだけで満席にはならないと思うよ」

 いってすぐに俺は後悔した。満員にしなくてはならない。そこそこ入ったら合格点、ではそれ以下しか達成できない。満員、立ち見、入場制限オーバーを目標にしなくては。自分にそう言い聞かせていた。絵空事でしかなかろうとも。

「境先生、満員にしないといけないでしょ、そこ」

 晴美はホールを睨みつけながらいった。俺の考えを見破ったらしい。

「もちろん!」

 俺はいった。もちろん、そうなんだけど……と勝手に心がまた折れだす。

「晴美さん、熱い!」

 麗奈は晴美の真剣さにびっくりしていた。

「どうやってするんですか? わたしたち、俳優会でもなければタレントでもないし。いっちゃなんですけど、全員地味だし」

 裕子がいった。全員地味、に自分は含まれていなさそうな物言いで、また晴美と麗奈がカチンとくるのではないか、と俺は怯えた。女子よ、なにも始まっていないのに仲間割れは勘弁してくれ。

「ぶっちゃけ素人のお遊戯会なんて、いくらタダでも時間の無駄」

 晴美は裕子に向かっていった。売り言葉に買い言葉。

「そのうえ役者に華がないなんて、価値もない。タダでも観る気は起きないでしょう」

 口吻が怖すぎて俺は口を挟むことができなかった。

「でも、この人がなんとかしてくれる」

 晴美が俺を指差した。

「わたし、滝村先生の次に尊敬しているの」

 ほんとよ、といって晴美は俺のほうを向いた。真剣な目をしていた。

「この人が本気を出せば、どんな俳優でも最高にしてくれるから、安心しなさい」

「晴美さん、先生のこと、この人って……」

 裕子がおそるおそるいった。

「あらあら、すみませんね、先生」

 途端、笑顔で晴美は俺に謝った。なにせ同期なもんで。この人の情けないとことかたーくさん見てきたからね。

「お芝居のクオリティは、境先生がなんとかしてくれる。だからお客さんをどう呼ぶかね」

 話が戻っちゃった、といって晴美は舌を出した。俺は、さっきの晴美の剣幕に、感動しつつも、震えた。この女の真剣さに。ばさりと身を斬られた気がした。

「街頭でチラシ配ったりしようかな」

 麗奈がいった。

「いいわね、やりましょう」

 晴美は賛成したが、裕子は渋い顔をしていた。そんなことはしたくもないのだろう。

「先生、キャストはいつ決定?」

 晴美が訊ねた。

「男が一人決まらないからなあ」

 全員フルで出演しても、メインキャストが男一人、ちょっとだけ登場する女中と小間使いたちもどうするか決まっていなかった。役者が足りない。

「多分、それは大丈夫だと思いますよ」

 晴美はいった。

「どういうことですか?」

 俺が訊く前に麗奈がいった。

「確定ってわけじゃないけど、多分大丈夫」

「あてがあるのか?」

 俺はびっくりした。なんでいままでいわなかったんだ、と少し腹も立った。

「人って、他人のことばかり気にして、自分のことはなにもわかっていないものなのよ」

 意味深なことを、晴美はいった。

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