第17話 みごとな女

 井上が音響を操作してくれた。会場中に流していたショパンが大きくなり、小さくなっていく。照明は変わらず、着物姿の麗奈がはいってきた。二十四にしてはずいぶん幼い、あさ子だ。晴美に着付けしてもらったその姿は、かわいらしかった。稽古のときから浴衣を着ていたとはいえ、緊張と帯の締め付けで、少し動きが悪い。周囲を見回し、ピアノに座りショパンを弾きだす。音響を使ってもいい、といったが、麗奈は拒否し、学校の音楽室でピアノを自主的に特訓していた。たどたどしいのは演技ではなく、地だ。すぐに演奏を止め、ピアノの上の楽譜を漁る。

「『どうしたのかしら……。』」

 いける、と俺は悟った。声が安定している。ピアノの上に置いてあるぬいぐるみを見て、あさ子は、あ、そうか、といって、部屋を去った。と、思うとすぐに戻り、机の上にある小物入れから作りかけの人形をとりだした。

 華やかな女が部屋にやってきた。四十七歳にしてはずいぶん若い、派手な顔をした、母の真紀だ。

 俺の隣にいた井上から、ため息が漏れる。

「『おや。あさ子、あなた何時帰ったの?』」

「『たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。』」

 母娘にしては随分若い二人だが、気心の知れた振る舞いで一気に二人が親子であることが了解される。

 あさ子は裁縫の教室をさぼったらしい。それをにやにやしながら母は咎める。あさ子は友達が帯留めを買うのについていってやったのだ、と言い訳にならない理由を話し、母は呆れる。そして学校の先生にいわれたことを、面白おかしくあさ子に話すのだ。

「『薬学校の方じゃ優等生だったそうですが、お裁縫の方じゃ劣等生です、って。卒業の見込み無いそうですよ。』」

 あさ子の手にしている作りかけの人形も、随分不出来である。真紀は人形をつまみ、掲げる。

 客席で軽く笑いが漏れた。

「『あなたのお裁縫は、私が見たって、到底卒業の見込みはありゃしないよ。』」

 あさ子はしょげた顔をするが、すぐに笑顔になる。彼女の魅力は、なにがあろうと向日性を保っているところだ。彼女はかつて薬専に通っていた。内実、その道に進みたかった。そのまま理化学研究所に入りたかったのかもしれない。しかし彼女は悔やんだりはしない。ただ、自分があのまま進んでいればどうなっただろうか、と複雑に靄がかかった、あったかもしれない未来をふと見てはぼんやりしてしまう。

「『母さん、あたしもう何とも思ってやしない、それなら。』」

 真紀はそんなあさ子を見ると、自分が彼女の夢を阻み、無理に花嫁修行をさせているのではないか、とちくりと胸が痛むときがある。

「『そう、そんならいいけど。』」

 母はあさ子には、自分の選択が間違えたのかもしれないなどというブレを決して見せようとしない。

「『この間、拵えた人形ね。収さんが持って帰ったのよ。あれが一等出来が悪いんだのに。』」

 収とは、あさ子のの幼なじみで、一つ年下の青年だ。文学部に通っているが、建築写真を集めている男。本当は芝居の勉強がしたいらしい。真紀は彼を良い若者だと思ってはいるものの、学んでいることは好きではない。なにせ、この家は全員理系の化学を学び、薬局を経営している。

 真紀はあさ子が収のことをどう思っているのかが気になってしかたがない。二人がなにを話しているのか。収はあさ子と一緒にピアノの稽古をしている。

「『昨日はお天気だったが明日は雨だろう、とか、家の二階の梯子段は十二段だけれどあなたんとこは何段ですって話だの、そんな話ばかりかい。』」

「『そんなに何時も何時もお天気の話ばかり、しやしない。』」

「『あなたのは、大概そのへんよ。』」

「『まあ。』」

 とあさ子は睨んだ。指先で眉を撫でつける。すると、おおげさに真紀が真似をする。

「『母さん!』」

 それはあさ子の癖なのだ。

「『私が言うのよ、それは。わるい癖よ。』」

「『憚りさま。』」

 微笑ましい二人の会話だ。テンポよく、スムーズに舞台が流れている。舞台の二人に客も集中している。

 一人だけ、舞台に見向きもしないやつがいた。前の席の男の子がずっと下を向いている。覗いてみると、まだ音を消してゲームをしている。横にいる母親は舞台を見ているが、子供に止めろというつもりはないらしい。

 やめろ、やめろ! と糞餓鬼に向かって念じたが、子供はやめようとしない。

 舞台では、女たちは先日、友達のよし子の家にあさ子がお招ばれしたときに出会った、よし子の兄の話になっている。

「『よし子さんのお兄さんって、あんな方あたししらなかった、あの時迄。』」

「『会ったのかい、その方に。』」

 真紀は身を乗り出した。

 まもなく、一番の問題部分が到来する。俺は息を呑んだ。よし子の兄のことを話しているうちに、しずしずと、開襟シャツに黒いパンツを履いた、学生にしては少し老けた、疲れた顔をした男が黙って入ってきた。和田である。

「『来た来た。』」

 あさ子がにやにやしていった。

「『あら。』」

 振り返り男を見た真紀も、若い声をあげる。なんです、あさ子。来た来たって何? といいながら、真紀はあさ子の膝を叩いた。

「『兎を追い出してるつもりですよ、おばさん。』」

 気が利いているのだか、利いていないのだかわからない例えだ。顔が引きつっている。母娘二人は笑う。あさ子は少し大きな声で。

「『怪しからんね。他人が入ってくると、いきなりげらげら笑うって法があるかい。』」

 男はなんだかぎこちない。和田は緊張しながらも、セリフを口にする。

「『今ね、今、あんたのことを言ってたの。』」

 あさ子、と真紀が咎める。しかし、あさ子はおかしくてたまらないらしい。母娘の態度で、この挙動不審の男はどうやらこの家族に慕われていることがわかった。及第点だがよくやった、と俺は思った。女二人に助けられながら、なんとか役でいようとしている。彼の名は収だ。三人で話していると、奥から、

「『奥さん、奥さん。』」

 と片岡さんの声がした。随分大きな声だ。緊張してるな、と俺はにやついた。声を聞いて、真紀が部屋から去る。あさ子と収だけでもつのか。心配だ。なんの手助けもできない。麗奈と和田に頑張ってもらうしかない。麗奈が主導権を握りながら、和田がなんとか食らいついてくる。収はあさ子に恋心を抱いている。あさ子をからかいながら、この時間が永遠に続けばいいと夢想している。実際の和田を思い、俺は少し胸が痛む。観客にこの二人のやりとりが、いまの俺の身体と同じことを起こさせてはくれないだろうか。

 真紀が顔を出し、あさ子を呼ぶ。お客さんのいつもの風邪薬の配合をあさ子に訊ねた。あさ子は配合を諳んじるが、自分でやるといって、出て行ってしまう。真紀と収の二人となる。真紀は、あさ子の将来を憂う。世間知らずの娘がかわいくてしょうがないと同時に、不安でならないのだ。

「『どんなものです?』」

「『世間?』」

「『ええ。』」

「『世間は……。』」

「『世間でしょう。』」

 馬鹿にしたように言い放つ収に、真紀は顔をしかめた。

 苦しくって。悲しくって。醜くって。下品で。

 収の言葉がきちんと客席奥にいる俺の胸に入ってくる。和田のエンジンがかかってきた。

 収の一言一言に相づちをうちながら、真紀の顔は暗くなる。若造の戯言に堪えきれなくなる。

「『時々はいいこともあるさ。』」

「『いいこともね。それだけ?』」

「『まだまだあるねえ。追々分かる。』」

 若者らしい現実への視線を振りかざす収に、真紀は、やはり、この男にあさ子を任せることを、どうしても乗ることのできない自分を視た。

「『私達はどうしていいのかわからないの、本当のところはね。みんなあのひとが可愛くって仕方がないのよ。だから、あの子の好きにさせてやりたくなったり、そうかと思うと、それが却って当人の為にならない気がしてみたり。少しは親の思惑でも押し切るほどだったらいいんだけど。』」

 自分に言い聞かせるように、真紀は喋る。人形ばかり拵えているあさ子が不憫だった。本当にやりたいことをできないでいる娘を想う。

 そんな真紀を、収は慰める。彼女はなんとも想っていない、と。彼はあさ子の理解者だ。不意に真紀は口にする。

「『お嫁さんに貰って呉れるかしら。』」

 凶暴な緊張感が空間を駈ける。

 緊張感に耐えられなくなった収と真紀は、話を冗談だ、と掻き消そうとする。そして、ここであさ子の知らぬ間に、彼女の将来が決定する。

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