第14話 降板

「逃げたんじゃない?」

 平嶋さんが二週続けてやってこないというと、晴美はいった。その言葉はききたくない。そうではないかと、考えていた。

「考えたくもないことを、さらっといってくれるなあ」

 帰りの電車のなかで、今日のことを思い返していた。芳賀、三笠さん、吉田……、平嶋さんに電話をするのを忘れてた。

「最悪のケースが起きたとしても、テンパっちゃだめだからね」

「最悪?」

「ばっくれ」

 だからいってくれるなよ。俺は頭を掻きむしった。

「テンパらないほうがおかしいだろ、それ。とにかく、やると決めた以上、なんとかしなくちゃな」

 代役を立てるとしても、誰がやってくれるというのだ。俺は押し花教室の片岡さつきさんの顔が頭に浮かんだ。だが、いきなりセリフを覚えてきてくれ、動きはつける、といって頼んでも、どうにもならないだろう。無茶すぎる。

 俺は自分の頬を思い切り叩いた。そして、息を整えた。言葉を発するときは慎重に。

「まず、最悪の状態に陥ってから心配するよ」

 俺はいった。

「演出家らしくなってきたね」

 晴美はいった。余裕を装っているから演出家らしいというのはおかしいだろ、と俺は思った。逆に演出家ならば、先のことをもっと見据えておくべきではないだろうか。晴美につっこむことができるくらい、まだ俺は余裕らしい。


 昼過ぎに平嶋さんの自宅に電話をした。長い間コール音が鳴り続けた。

「はい」

 しゃがれた声がでた。

 先に名を名乗るべきだった。社会性のなさが恥ずかしい。

「おため市民演劇センターの境と申します。平嶋真紀さんはご在宅でしょうか」

「いま買い物にでかけてます」

 つっけんどんに返された。

「では折り返しお電話いただけませんでしょうか」

 言葉遣いが間違っていないか心配になってくる。

「じき帰ってきますから、またかけてくればいいんじゃないですか」

 といって電話が切られた。

 俺は呆然とした。なんだよ、あのジジイだからババアだかよくわかんねえのは。腹が立ったが、まずは平嶋さんと話さなくてはならない。

 一時間たってからまた電話をすると、また同じ相手が電話をとり、保留せずに平嶋さんを呼んだ。

「真紀さん、男の方から電話よ」

 名乗ったというのに、男、ときた。電話はまずかったんだろうか、と俺は後悔した。

「はい」

 平嶋さんの声がしてほっとしたと同時に、申し訳なかった。

「市民演劇センターの境です。お休みになってらしたんで、お体の具合でも悪くなったのかと思いまして」

 おどおどした物言いになってしまった。しばしの沈黙の後、

「あの……考えたんですけど、お芝居辞めようかと思っています」

 といわれた。

 最悪のケースがきた。俺は平静につとめようと努力しなくてはならない。

「なにかありましたか」

 電話の向こうでテレビの音が聴こえてきた。

「忙しくて……。すみません」

 なんといったらいいのかわからなかった。やると決めたならやってくれ、と頼み込むべきなのか。ああ、文化祭に参加できそうなメンバーが一人減った。代役は見つかるのか。先のことまで瞬時に考えた。いまは目の前の舞台だ。いくら自由参加のカルチャースクール感覚でいるとしても、せめて舞台が終わるまではいてくれなくては困る。

「なんとか、なりませんか」

 あと数回の稽古で、本番なんです、と俺は念を押す。

「とても楽しかったんですけど……」

 平嶋さんが話し出そうとすると、テレビのボリュームが大きくなった。悪意がある。

「ごめんなさい。失礼します」

 電話は切れてしまった。

 困った。電話を耳から離し、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。予想はしていたが、だからといって耐えられるものでもない。真紀役を誰かにやってもらわなくてはならない。しかし、出来そうな人間が見当たらない。

 このままじゃ引っ込みがつかない。最後の最後まで諦めてはならない。俺はそう決心した。平嶋さんに実際に会ってみよう。そして頼み込もう、と決めた。


 携帯の地図を見ながら進む。気が急いていて、不安もあったので、素直に地図の通りに歩いていった。同じような家ばかりが並んでいる。平日昼間の住宅街は、やけに静かだった。静けさが、これから起こる展開を悪いほうに予感させた。

 平嶋、という表札を見つけた。周りの家と同じような作りで、ここまで同じだと無個性すぎる。隣も平嶋なのではないかと周囲の表札を確認してしまった。

 チャイムを鳴らすと、はいーと平嶋さんが出てきた。最初の電話に出た、じいさんだかばあさんだかではなかった。

「どうも」

 俺はおじぎをした。

「先生……」

 平嶋さんはばつが悪そうだった。

「すみません、お忙しいとはわかっていたんですが、どうしても発表会に出ていただきたくて」

 俺はいった。

「本当に、連絡もしないですみませんでした」

 平嶋さんは謝った。

「今月のお月謝はお支払いしますんで……」

 そういわれ、借金取りにでもなったような気分になった。

「いえ、そういうことじゃなくてですね……」

 平嶋さんは周りを見渡した。近所の手前、玄関の前で問答をしているのを見られたくないのかもしれない。

「入ってもらいなさいよ」

 奥から声がした。薄暗い玄関の奥に、おばあさんが壁に寄りかかって立っていた。じいさんではなかった。が、陰険そうなばあさんだった。平嶋さんは、いえ、でも、といっていたが、

「お茶でもお出ししなさいよ、せっかく来て頂いたんだから」

 とおばあさんはいって、奥に入って行った。壁づたいに、足を引きずっていた。けんのある物言いだった。俺は招かれざる客、といったところか。

「どうぞ……」

 平嶋さんは観念して、俺を家にあげた。俺はというとお邪魔することになって、緊張していた。靴を脱ぎ、足が臭わないかな、と心配した。

 昼間だが、窓からの光だけでは薄暗い。平嶋さんは電気をつけた。台所のテーブルに通された。隣のリビングで、おばあさんはソファに座り、テレビを観ていた。流れるにぎやかな音が気持ちを暗くさせた。

「月末の発表会のチラシができたんです」

 といって俺はチラシを差し出した。平嶋さんは手にとり、嬉しそうに眺めた。そして、すぐに暗い表情になった。

「お電話でも申し上げた通り、日曜日、忙しくて、お稽古に出られそうにないんです」

 平嶋さんは、俺にではなく、多分背後のお姑さんにいっているんだろう。

「平嶋さん、セリフもすぐに覚えられたし、これからが面白いところだと思うんです。ここで辞めちゃったら勿体ないですよ」

 平嶋さんは黙った。

「お芝居、向いてると思うんです」

「向いてるっていっても、別にこの人が女優さんになれるわけじゃないでしょう」

 くくく、と笑いながら、テレビを観ていたおばあさんが口を挟んできた。きたな、ラスボスめ、と俺は心中で毒づいた。

「この人が、そんなテレビで出るような女優さんみたいになれるわけじゃないでしょう」

 ねえ、真紀さん、と鬼姑は声をかけた。

「『相棒』に出られるものなら、水谷豊さんのサインを貰ってきてちょうだいね」

 こんなにドラマみたいな状況が本当にあるなんて、驚きだ。

「テレビはわかりません。でも、平嶋さんは、演技、向いていると思います」

「向いているからって誰彼かまわず女優さんにはなれるもんじゃないでしょ」

「なれます」

 俺は語気を強めていった。俺なら女優にしてやれますよ、とまではいえなかった。お姑さんの思うところの女優……ドラマに出て、芸能界で、華やかな……とは意味が違うからだ。それを説明するのは難しい。

「この人は主婦ですからね。まず本業をおろそかにしていては、ねえ」

「そうなんです、すみません」

 平嶋さんは俺に謝った。

「ちゃんと、生活を全うしていなくては、お遊びはねえ」

 俺は下唇を噛んだ。噛みすぎて、血が出ているんではないか、と思った。口のまわりが血だらけになったとしてもかまわなかった。

 一口もお茶を飲むこともなく、俺は平嶋家を退散した。


「凄い。ぜひ観たかったわ、その昼ドラ」

 晴美は俺の気分は無視して目を輝かせた。

「たまったもんじゃないよ」

 俺は日曜日に、なんていったらいいかわからず、寝転んだ。

 ソファーに寝そべっている俺を見て、晴美は優しく、お疲れさま、と声をかけた。

「まあ今日のところはお風呂はいって、寝なよ」

「チラシまき始めちゃったからなあ。とにかくやらなくちゃなんない」

 押し花教室の片岡さんに、頼み込んでみるか? 

 しょうがない、と晴美は立ち上がった。

「『おや。あさ子、あなた何時帰ってたの?』」

「え」

 俺は心臓が止まるかと思った。

「『たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。』『いいえ、ちっとも知らなかった、母さん。』『そう。みてるんだと思ってた。御免なさいね。』『それはいいけれど。また行かなかったのね。』『あら母さん、行ったわよ。』」

「まさか……」

 俺はびっくりして起き上がった。

「次の稽古、わたしもいっていいよね」

 晴美は照れくさそうに笑った。

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