第11話 滝村先生が消えた

 滝村先生が消えた、と劇団では大騒ぎになっていた。事務のおばさんが作業場にやってきて、境くんなんか知らない? と訊いてきた。

「一昨日から養成所のほうで授業があっていたんだけど、電話してもつながらないの。こんなこと一度もなかったのに」

 いい加減で自分勝手なくせに、先生は絶対に授業も稽古も五分前にはやってくる。

「始まる前に準備運動しとけ!」

 とのんびりしている者を見つけたらどやしつける人なのだ。

「藤島先生にいったら、『あいつ、どっかで野垂れ死んでるかもしれんぞ。最後まで伝説作ろうとして』とかいって笑っているのよ」

 授業の代打を藤島新吉先生がしたらしい。二人は、俺が生まれる前からの付き合いで、仲が良いからこそいえるブラックジョークだ。うちの劇団の老演出家たちは元気溌剌だ。

「部屋で倒れてるなんてことないでしょうね……」

 滝村先生は、アパートで一人暮らしをしている。奥様とは離婚され、息子さんが一人いるが、関西で働いているはずだ。

「まさか、ねえ」

 俺が不安げにいうと、おばさんは、まあそんなタマじゃないよね、あの人、と笑った。

「ちょっと家にいってみます」

「おじいちゃんいっぱいだからね、この劇団は」

 おばさんはそういって事務所に戻っていった。

 基礎トレーニングコースの報告をまったくしていなかった。俺は演出部の飲み会を断わって、準備を済ますと滝村先生のアパートに向かった。最寄りの駅は、いつもの基礎コースで降りる、特急の止まる駅から二つ手前だった。


 夜道の住宅街で、俺は迷った。スマホの地図アプリを頼りに歩いたのだが、画面に触れると地図がぐらぐら移動するので、機械音痴の俺はひやひやした。進行方向を指示してくれるが、本当にあっているのか疑わしくてならない。確かここで曲がったような気がする、と地図を信用せずに曲がったら、さっき降りた駅に戻ってしまった。駅の交番で訊ねると、警官が面倒そうに俺の携帯を覗き込み、

「この通りにいけば大丈夫ですよ」

 そっけなくいった。

 紙に書いてくれるなり、口で教えてくれよ、と腹を立てながら歩いているうちに、滝村先生のアパートにたどり着いた。到着した安堵感と、携帯の地図の正しさに、複雑な気持ちになった。

 二階建てのおんぼろアパートだった。建っているのが不思議なくらいの年代物で、壁に亀裂にセメントを足していた。できそこないのプラモデルみたいだ。

 階段の手前にあるのポストには、郵便物がたまっていた。本当に倒れてるんじゃないだろうな。心配なのと同時に、俺、第一発見者になるのはご免だ。階段をかけあがった。

 滝村先生の部屋のドアに、紙が貼ってあった。

『病院に行きます。滝村』

「どこのだよ……」

 俺はドアの前で呟いた。病院の場所がわからなくちゃ、どうにもならんだろ、まったくあのジジイは。どうやら中国からは帰ってきたらしい。もしや、とドアノブを回すと、鍵がかかっていない。

 やっぱりなあ。外出時、部屋に鍵をかけたことがない、と滝村先生はいっていた。いつもあの人は肩にかけた小さなショルダーバッグに全財産と通帳印鑑保険証パスポートを、入れている。開けっ放しだと心配じゃないですか、と俺は訊ねたことがある。

「盗まれて困るようなものは部屋に置いていない」

 滝村先生は豪快にいった。自分がいるときに誰かが入ってきて、襲われでもしたらどうするつもりなんだ。それこそ藤島先生曰く、伝説、になってしまうのか。

 俺は弟子なわけだから、肉親みたいなものだ、いうなれば、血のつながってない息子というか……と、勝手に言い訳をして、俺は部屋に入った。

 玄関に部屋の番犬のようにボストンバッグが置かれていた。俺はバッグに噛みつかれないようまたいで部屋に入っていた。

 流しに水をさらっただけで置かれている食器や、廊下にタオルが放られていたが、つい最近まで誰かが生活していたようにはまったく思えなかった。老人の一人暮らしの部屋を見て、勝手に寂しく思った。部屋の壁に、このぼろアパートだったら、床が突き抜けてしまうんじゃないかと思われるほど大量の本が横に積み重ねられてあった。突き当たりの窓の下に文机があった。そして横に数十冊のノートが積み上げられている。机の上に開かれたままのノートを手に取った。表紙には、つい数ヶ月前の日付が書かれている。ぱらぱらめくると、汚い字と雑な絵で、演出について書かれていた。

「すげえ」

 思わず口に出た。あの人の情熱をかいま見た。積まれたノートを手にすると、すべて、今までの作品の演出について記述されていた。

 お宝の山だ。俺は部屋を見渡した。泥棒には価値がわからない、宝は部屋中に溢れている。

 この人は、未だに綿密に執念深く舞台を演出し続け、劇評で紹介されるとか、賞をもらうとか、そんなことを気にもせず、未だただ作品に向き合っている。

「誰?」

 ドアの向こうで声がした。俺は慌てた。

 人のノートを勝手に読んだ俺は、ものなど盗むつもりはないけれど、もっと大切なものを、盗もうとしているこそ泥のように思えた。慌ててノートを戻し、ドアを開けると、水商売風ないでたちの美人が立っていた。

「あんた、誰?」

 女は警戒した顔でいった。

「境隆司といいます」

 と間抜けな自己紹介を俺はした。名を名乗るのでなく、滝村先生との関係をいわなくてはならない。

「おじいちゃんのフショーの弟子」

「なんですかそれ」

「おじいちゃんがよく話してるのよ、あんたのことフショーのフショーのって」

 不肖の、ということか、と俺は理解した。

「おじいちゃんのおつかい?」

 女は訊ねた。

「先生とまったく連絡がつかなかったので、様子を見にきました」

 そういうと、女は、変な顔をした。

「いまおじいちゃん、入院してるわよ」

 女は、小嶋のぞみだと名乗った。隣の部屋に住んでいるらしい。滝村先生とは仲がよく、ご飯を食べにいったり、子供を見てもらったりしているという。

「子供」

「うちの子、まだ幼稚園なの。おじいちゃんがお仕事ないとき、保育園のお迎えをしてもらったり、いつも助けてもらっていて。わたし夜働いてるから」

 滝村先生は一週間前に帰ってきて、のぞみに東京ばな奈を持ってきたという。

「中国いったのに、なんで東京ばな奈なのよ、っていったら、こっちの菓子のほうがうまいから、って。かわいいよねえ、おじいちゃん。でも調子が悪い調子が悪い、っていってて、だったら病院いってくれば? っていっているうちに、倒れ込んじゃって」

 慌てて救急車で運ばれ、しばらく入院だ、といわれたらしい。

「おじいちゃんのバッグ漁ったら、携帯電話があったのよ、高齢者用で操作の簡単なやつ。電源切れてて、あわてて携帯屋さんにいって充電してもらったら、一件だけ番号があって、電話したのね。そしたらお子さん? おじさんが出て」

 一応伝えたんだけどねえ、とのんびりとのぞみはいった。

「病院、どこなんですか」

「近所の女子医大」

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