第10話 人生に台本はない

 次の稽古では、皆きちんとセリフを覚えてきた。

 問題の和田も、ぎこちないながらも、平静を保とうと努力しているようだ。心情を知ってしまったので、和田が麗奈をちらりと見たりしているのを見てしまうと、少々胸が痛む。

 麗奈はそんなことを露知らず、天真爛漫に、平嶋さん相手に、テレビの話をしている。

 一番覚えのいい平嶋さんは、自在にこなしだしたので、一つレベルの高い要求をすることができた。相手がしゃべっていることをきちんと聞き、それによってどう自分がしゃべるか研ぎすますこと。なかなか筋がいい。相手が長いセリフをしゃべっているときただぼうっと聞いているだけのように見えてしまうが、噛み締めて、どう会話を展開させていくか、を探っている。

「相手がどういう感情でしゃべっているか、それを自分がどう受け止め、どうしてやろうかを表現して、相手に働きかける。これを舞台にいるあいだ、俳優さんはずっとするわけです」

 平嶋さんは頷いていた。麗奈と和田はぽかんとしている。三浦さんは黙っていた。説明を聞いたところで、わからなくて当たり前だ。自分で実際やってみて、体験しなくては。

「麗奈ちゃんが、『あらあら母さん、なんて仰言ったのよ。』って、わたしの腕を取ったとき、びくっとしちゃった」

「え、やばかったですか、あれ」

「なんだか、ぐわーって麗奈ちゃんの勢いが来て、風が吹いたかと思った」

「それっていいんですか?」

 麗奈が俺のほうをおそるおそる見た。

「ちゃんと平嶋さんに伝わったってこと。そして、平嶋さんがきちんと相手のセリフを受け止めたってこと」

「いいこと、でいいですか?」

「いいよ」

 いい、といわれなくては不安なのだろう。

「難しい」

 麗奈が顔をしかめる。

「でも普通に生活してたら、できているじゃない」

 俺はなんとか説明しようと苦心しながらいった。自分がどうしたいのか。相手を受け入れる。普段まったくできていないかもしれない。

「じゃあさ、日常生活とお芝居はなにが違うでしょう」

「自分とは違う人を演じることです」

 平嶋さんはいった。

「そうですよね。でも、みんな、自分のこと、こんなの本当の自分じゃない、って生きてるんじゃない?」

 下を向いていた和田が、俺を見た。

「日常生活、自分を演じていることあるよね。みんなで集まってるとき、盛り上げなくちゃいけない自分、とか。もっといったら、環境によってキャラを使い分けたりして」

「それは確かにそうかも」

 麗奈が頷く。

「お芝居のときも、自分が演じる人間が、実はこう思っている、とかキャラクターは考えていけばどんどん複雑になっていくよね。自分なりに役の人物ができていく。他にはなにが違うかね」

 正直、自分でもよくわかっていないまま、話をすすめた。

「お芝居は終わるけど、人生ずーっと続く」

 麗奈はいった。

「終わるときは終わるよ、人生」

 三浦さんがぽつりといった。深すぎて口を挟められない。

「終わるけど、お芝居の方が、早い」

 麗奈が口をとがらし、いった。

「確かに。なんでお芝居のほうが短いのでしょう」

「ひとつひとつのシーンだけしかしないから、ですか」

 和田が口をひらいた。

「一生分あったら、見る人も書く人も演じる人も一生分やるなんて、物理的に無理だわ」

 麗奈もいう。

「まあこの質問はおかしかったかなあ。ひとつひとつのシーンはさ、いろんな場面のなかから、選ばれた、ってこと」

「選ばれた?」

 麗奈が首をかしげる。

「つまり、ドラマティックなところ。あるいは普段気づかないけれど、人生の時間すべてがドラマティックなのかもしれないね。お芝居っていうのは人生の濃縮」

 俺は続けた。

「ほかに違うことあるんじゃない」

「人生には、台本はない」

 三浦さんが、落ち着いた声でいった。言葉は重く響き、一瞬場が止まった。

「ですね。だとしたら、演じるとき、どうするか」

「台本があるように思われない」

 平嶋さんがいった。

「観ている人は、台本があることはわかっているんだけどね。でも、そんな演技を目指したいね」

 演技の上手い下手、は結局そこなのだ。まるで初めて起きたことのように、演じる。そう観客に見せる。

「みんな、良い感じです。やっぱり、六月に発表会をしましょう。直前は、みんな忙しいかもしれないけれど、平日の夜も集まって何度も全部通していきましょう。最初から最後まで演じ続けてみると、また別の発見があると思うよ」

 全員、頷いた。まず、皆を舞台にあげ、度胸をつけさせ、楽しさを実感させる。秋には滝村先生がぴしっと決めてくれるだろう。


 帰ると部屋にカレー匂いが立ちこめていた。俺は部屋に入ってすぐの台所にある、鍋のふたを開けた。

「勝手に食べていいよ」

 晴美は俺が予備でコピーしておいた『みごとな女』の台本を読みながら、ソファーに寝そべっていた。

「面白いね、これ」

 台本から目を離し、俺にいう。

「だろ」

 炊飯器からご飯をよそいながら、俺はいった。

「でも難しいんじゃない。これってすっごく雰囲気が出ないといけないものでしょ。なにせこの幼なじみの収くんを『空気読めよ』って感じであさ子への恋心をあきらめさせなきゃいけないわけだし」

 その通りだ。そして現実でも、収役の和田くんは、あさ子役の麗奈への恋心を近いうち、決着つけることとなるだろう。

「まあね。でも実際やったら一時間かからないし、緊張感を持続させる訓練にもいいかな、と」

 カレーをたらす。晴美のカレーはとにかく芋と人参が多い。次の日には溶けかかり、余計にうまくなるだろう。

「シンプルにやれたら、それでいい味がでるんじゃないかなって」

 これは後付けの理由だった。基礎コースの面々が、自分が思っている以上に台本に取り組んでくれている。台詞をなんとか覚えようとしてくれている。週一回の稽古だというのに、皆、のめり込み、情熱をキープしている。これなら本番もうまくいきそうだ。

 部屋に戻り、カレーを食べ始めると、晴美は、おいしい? と訊いた。

「おいしい、うまい、熱い」

 と、俺は口にカレーライスを詰め込む。

「すぐに台詞覚えられそう?」

 俺は訊いた。

「まあね、話はだいたいわかった。やれといわれたら、ちょっと戸惑うけどね」

「戸惑う?」

「わたしができる役ないもの」

「なにをおっしゃる」

 俺は水を呑んで、一息ついていった。

「真紀もあさ子もできますよ」

「ありがとうございまーす」

 冗談めかして晴美はいったが、まんざらでもなさそうだった。

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