第9話 惚れる?

『冬物語』を晴美は観に行き、帰って早々、

「部屋でホン読んでいる方がなんぼかましだったわ、肩こった」

 とため息をついた。

「そうかな」

 ゲネを観たときは、そこそこ面白く仕上がっている、と俺は感じた。上から目線ではなく、シンプルに、よく整理されている。

 晴美はセリフを暗唱しだした。

「『皆様、女というものはこういう場合泣くのが普通でしょう、でも私は、涙を流そうとは思いません。そのむなしい露がないために、あなたがたのあわれみの情も乾いてしまうかもしれません。ですが、この胸のうちには、涙をもってしても消しきれない正当な悲しみが燃えているのです。』」

 どや、と晴美ははにかんだ。

「誰それ」

「ハーマイオニ。旦那に不貞を働いたって誤解された可哀想な王妃様」

「相変わらずすげえな」

 晴美は、作品を気に入ると数回戯曲を読んだだけで、すべてのセリフを覚えてしまう。どうやらまだその特殊能力は健在だ。

「あんまりセリフ覚えに苦労したことがない」

 その昔、あっけらかんと晴美はいった。

「つまんないなあ、って思うと急に覚えが悪くなるのよ。だから、台本読むときは、なるたけ先入観を持たずに楽しもうと心がけているの。そうするとすぐに覚えちゃう」

 そんな凄い告白をさらりと、かつて稽古帰りの飲み屋で晴美はいってのけた。みんなそうでしょ? といわんばかりに。俺は驚いた。なんだこの女は。本当に演劇漫画の主人公みたいなこといいやがる。こいつは絶対にすごい女優になるはずだ。とにかく演劇に関わりたい、と意気込んで養成所の門を叩いたばかりの当時の俺は、興奮した。惚れた。

 その後、晴美はとんとん拍子で女優街道を歩んでいった。研修科時代に本公演出演を果たし、そのまま劇団員になった。同期として、時々彼氏になったり元彼になったり立場を変えながら、俺はこの女を見てきた。舞台袖で出番を待つとき、晴美は舞台を睨みつけながら出番を待っていた。誰も寄せ付けようとしない。舞台に飛び出す瞬間、晴美でないなにかに変わる。「役」になってしまう。晴美が消える瞬間、いつだってせつなくなった。痛みを伴うほどに晴美を焦がれる。こんな女優をこれまで見たことがない。

「パーディタはどうだった」

 俺は裕子のことを思い出して、訊いた。

「羊飼いの娘は実は王女様でした、の子か」

 晴美は思い出そうとしている顔をした。

「新人よね。肩の力が抜けてなかったね。なに、まさか若い子に手を付けようとしてるんじゃないでしょうね」

「喫煙所でさ、ちょっと話したんだよ」

 ふうん、とだけ晴美はいった。しばらくして、晴美はまた暗唱しだした。

「『でも私には、身分のちがいが怖くてなりません。殿下はこわいなどという気分をご存じないでしょう。いまでも私は、殿下がここへいらしたように、殿下のお父様がふいにここへ現れるのではないかと思うと、身がふるえます。ああ! ご自分のりっぱな王子様がこんな卑しい姿をされているのをごらんになったら、お父様はどんなお顔をなさるでしょう、なんとおっしゃるでしょう? こんな借り着をつけた私は、お父様のきびしいお顔を前にしてどうすればいいでしょう?』……うん。わたしのほうが王女らしいわ」

 毒づいていた割に、今回の井上演出は気に入っているのかもしれない。

「井上とは会った?」

「帰り、ロビーで見かけたけど、ファンに囲まれていたから、挨拶しないで帰った」

 洗面所のほうから勢い良く水の出る音がした。メイクを落としている。

「面白かった?」

 先ほどの一行レビューのような感想では飽き足らず、俺は訊いた。

「あのくらいわかりやすいほうが受けるんだろうね」

 生まれて初めての恋に胸一杯の三十代の和田。

 振られた晴美に一途に惚れたまま三十代となった井上。

 井上も晴美の役に変わる瞬間に恋したのかもしれない。そう思ったとき、俺は井上に同情した。演出家としてなのか、男としてなのか。

「芝居観て井上に惚れなかった?」

 しばらくの沈黙のあと、水をばしゃばしゃと弾く音がした。

「わたし、そんな簡単に人に惚れたりしないわよ」

 晴美の声がした。

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